たつくんと私
放課後6年生の教室に残っていたのはたつくん一人だったから私はたつくんのいる席に近づいた。たつくんの席は黒板を正面に見た時に左端の一番後ろの席だ。たつくんは黙々と計算ドリルの問題を解いている。ああ、そうだった。今日の宿題はいつもよりいっぱい出されたんだ。私はそんな思い出したくないことを思い出しながらたつくんの前の席に座り、いすごとたつくんの方向に向き直る。たつくんは私を気にも留めない。たつくんの少し長めの前髪は伏せ気味にノートと向かい合っている顔を私の視線から遮る。たつくんは鉛筆の勢いを全くゆるめることなく計算問題を消費している。教室内には小気味よく鉛筆のはしる音が閉じ込められていた。私は私に興味を全く示さないふりをしているたつくんに物足りなさを感じ、ちょっぴりさみしい気持ちになった。いくらたつくんを見ていても彼は顔を全く上げようとしない。私は今本当にここに座っているのだろうかという疑問が水の中から水面に浮かんできた泡のように一瞬だけ浮かんで消えた。鉛筆の芯とノートがこすれる音しかしない二人だけの空間に私は耐えきれなくなって、声を出した。
「たつくん。勉強楽しい?」
たつくんの持つ鉛筆の勢いが落ちた。気がした。
「これ、宿題だから」
「そういえばたつくんて頭いいよね」
「伊井さんの方が頭いいじゃん」
「え、だじゃれ?」
たつくんの鉛筆を持つ手が完全に止まり、耳が赤くなっている。私は思わずくくくっと笑ってしまった。普段から真面目であんまりふざけたりしないたつくんはこういうところがあって、かわいい。私の前で宿題はできないとあきらめたのかたつくんは顔を上げた。まだちょっと顔が赤い。たつくんはひとつ深呼吸をして言った。
「伊井さんはなんで居残りしてるの?」
「ポスター委員会で作ったポスター貼ってたから」
「ふぅん、帰らないの?」
「たつくんがいたからちょっと問題手伝ってもらおうかなって」
「どんな?」
私はちょっともったいぶってそっぽを向いてみたりした。たつくんがじれったそうにしている。
「じつは......上から読んでも下から読んでも同じになる文章を考えないといけないの。たとえばしんぶんし、みたいな」
たつくんはふぅん、と、うなって難しそうな顔をした。そして小さくあっ、と何かひらめいたような顔をしてぼそっと声を出した。
「伊井はかわいい」
言った後にもう一度たつくんはあっ、と言った。たつくんは目を伏せて再び耳を赤くしている。
たつくんの方がかわいいよ、と私は思い、にやにやが止まらなかった。