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バイトも終わり、足早に家へと帰った。
タバコ臭く、酒臭くなった自分が嫌になり、家に帰った後はすぐにお風呂に入るのがこのバイトを始めてからの日課となりつつある。
……タバコも、お酒も嫌い。
臭いも、全部大っ嫌い。
「……タバコもお酒も大嫌いよ。
例え大っ嫌いなあの人でも狂わせて、あの人を嫌いになる原因を作ったから。
あの人はもっと大っ嫌い」
……冷や汗が止まらない。
この香りをまとうたびに思い出す、地獄だったあの日々を。
そんな怖かった日々を思い出すたびに、その記憶がだんだん薄れていく自分も怖い。
自分の子供にもそうしてしまうのではないかと、流れる血を恐れている。
……いっそ。
いっそ、全て忘れさせてくれればいいのにね。……あの人に関係すること全て。
お酒の臭いも、たばこの臭いも記憶から消えてしまえばいいのに。
……憎悪の中に、申し訳なさ程度に残っている幼い私の一途な、「母親から愛して欲しい」と言う気持ちも全てなくなってしまえばいいのに。
そんな複雑な気持ちを抱く根源、自分の母親と過ごした日々を、自分の中から吐き出して、捨ててしまえればどんなに楽なんだろうか。
私はそう考えながら、頭を乾かずに横になり、眠気に誘われるがまま眠りについた。
気絶するように眠りについてしまいたいと、そう願いながら。
次の日。
眠ったはずなのに隈が出来ていた。
あれは、気絶だったんだなと考えながら私は化粧で上手く隈を隠す。
香水も嫌いだ。
だから、どんなに勧められてもつけないし、制汗剤も無臭にしている。
本当なら、化粧もしたくない。
母親は香水も、化粧も濃かったから。
だけど、化粧は社会人になれば、しないといけなくなる。それは一部の職業を除く、女性のマナーだから。
……学生のうちに慣れておかなければ、後々後悔すると思うから、慣れるまでは我慢しなければ……。
「……縛られているのは、私だけ」
解放されたいよ、母親の恐怖から。
身支度を素早く済ませ、バスに乗るためにバス停で待つこの時間は私にとっての準備時間、オシャレな好きな女の子に会っても取り乱さないための大切な時間である。
これは私の日課ではなく、やらなければならないことなの。そうじゃなきゃ、私はこうしてこの町並みを歩くことは出来ていなかったと思う。
……落ち着け、大学には母親はいない。大丈夫、大学には先生がいる。一人じゃない、何とかしてくれる味方がいるから大丈夫。
必死に暗示をかけることばかりに集中していた時、急に肩に手を置かれて、私の方は不自然なくらい大きく跳ね上がり、恐る恐るその手の持ち主を確認するために、後ろを振り返って見れば、そこには何故かはにかむように笑う後輩くんがいて、変に早くなった心臓の鼓動は安心したかのようにゆっくりとなったけれど、それでもまだいつもより速く、彼が触れている肩だけが熱を帯びている。
なのに、私の発した一言目は、
「あなた、ここのバス停からじゃないでしょう? どうしてここにいるの」
そんなそっけない言葉だった。
急に現れたとしても、通常通りに私の口からは素直じゃない言葉ばかりが吐き出されることに、自分でも呆れを通り越して驚く。
ごめんねと言いたいけれど、その一言でさえも私の口は拒むのだ。
後輩くんの頬に貼られている、大きいバンソーコーを見て心は痛むのに、大丈夫ということすら出来ない。
……私が言うべきだったのは、何故後輩くんがここにいるのか聞くことではなくて、まずは昨日のことを謝罪しなければいけなかったのに。
わかっていても出来ない自分に、とても腹がたつ。……何で当たり前なことのはずなのにそれが出来ないんだと。
そんな態度なのに、後輩くんはそんな私でさえも笑顔を絶やさずに、
「店長に頼まれたんですよ、あんなことがあったからと一緒に行って欲しいと。僕も心配でしたし、無断だったのは謝りますが、店長から大学のスケジュールを教えて頂き、先輩の通学をお供させて頂くことになりました!」
そう言ってみせたから思わず、
「馬鹿なの?」
本心から傷つけるようなことを言ってしまった。親切を仇に返すようなことをしているのに、どうしてそこまで出来るのかが理解出来ない。
後輩くんは馬鹿なんだわ。嫌々、店長から引き受けたって感じもないから確かだろう。
そんな私の一言に首を傾げるから、
「冷たい態度をされて、そこまで親切にするなんてお人好しすぎるわ。もっと人を疑いなさい、私なんか放っておきなさい」
思わずそう言ってしまったの。
……今度こそ離れていくな、と私はそう考えながら。今まではそうだったから。
でも、今回は違ったの。
「本当に冷たい人なら、嫌いな人に対してそんな忠告なんてしないと思います。僕は、どんなに先輩から嫌われていようと手を貸すことをやめたりしません。先輩は優しい人だから」
って言って、歯を見せて笑っていて。
勘で生きる人なんだなってそう思った。
そこもまた好きだなとそう感じたけど、それもまた私の口は言うことを頑なに拒み、冷たい言葉に変換させた。
「あなたの優しい人と感じるセンサー、もし修理屋があるなら直してもらった方がいいと思うわ。
いつかきっと、変で尚且つ高い壺を買わされる詐欺にあうと思うから。
私を優しいなんて思うなんて、あなたの心は海よりも壮大ね」
そう言った後から、後輩くんは私の顔を呆然と見つめて、その後少し顔を赤らめた。
……意地悪されてときめくタイプなんだろうか、後輩くんは。
と、赤らめたままの後輩くんを見て、少しだけ心配になった。
けど、後輩くんが顔を赤めたのは意地悪されたからではないようだった。
「そんな修理屋あったとしても、僕は修理なんか出したりしませんよ。
高い壺買わされそうになった時は先輩が忠告してくれればいいんです。僕は、先輩の言っていることの方を信じますから。
せっかく先輩に、心が海よりも壮大だと褒めてもらえたのですから、お人好しすぎる部分を治すつもりなんてありません。
だって、僕がお人好しな性格をしていなければ先輩に出会うことはできませんでしたし、こうして心が海よりも壮大だと褒められることもなかったでしょう。
それに、何故でしょう?僕がお人好しな性格をしていたおかげで、先輩のその笑顔を見れたような気がするんです。
……先輩、笑顔も素敵ですよ」
なんて、言われてから気づいた。
……後輩くんに笑いかけることが出来ていたことに。
初めてだったの、好きな人から自分の笑顔を素敵だと褒められたのは。
年上をからかって、なんてそんな気持ちも心の奥底にはあったけれど、今回は不思議とその気持ちを自分の意志関係なく伝えてしまうことはなかった。
初めてだった。
……嫌味を言うような言い方にはなってしまったけれど、好きな人を褒めることが出来たのは。
だから、今なら言えそうな気がする。
「私の笑顔が素敵だと思うなら、後輩くんが笑わせてくれる? そしたら、素直に後輩くんの前で笑えるようになるような気がするの」
これも初めてだった。
素直に自分が言いたかったことを言うことが出来たのは。……でも、今日はもう素直になれないような気がするけど。
……なんて、考えていると後輩くんは花が咲いたかのように笑った。
そして、
「わかりました! 先輩の笑顔が見れるように僕、頑張って笑わせます! 先輩、覚悟しておいてくださいよぉ、本気になった僕は手強いですからね!」
と、無駄に張り切るもんだから、
「期待してないわ。なんせ、まだ一回しか笑わせてないんだから。手強いも何もないよ、馬鹿ね。
せいぜい、そのやる気が空回りしないように祈っとく」
また、通常通りに戻ってしまったけれど後輩くんは、
「ひどいですよ〜、せんぱい〜」
そんな言葉とは違って、後輩くんの表情は笑っていた。