「未来の為に、花は散る」
~犯罪プランナー、その名はソード~
悪人を相手に命を奪い、金を奪う、そして奪った金は寄付をする。そんな活動をする一方、弱気を助け強気を挫く為、弱者には無償で戦う知恵を与える。坂堂剣一は義賊の犯罪プランナーであり、またの名をソードという。
ヤクザと大麻ブローカーとの取引場所を襲撃し、鮮やかに大金を奪い去った剣一。続けて別の取引場所への襲撃を計画していく中、剣一は1人の女子高生に声をかけられる。
ソードと出会ったその女子高生が秘めた思いとは――。
その少女の目には、どんな未来が映るのか。
乾いた地面と細かい砂利を踏み馴らし、やけに黒光りする2台の高級車が静かに停車すると、1台から出てきたスーツの男は脇目も振らずに後続車へと駆け寄り、さながら執事のようにドアを開けた。そして高級スーツを着こなした小太りの初老の男が出てくるや否や、小太りの男の側に中年男が歩み寄り、小さく頭を下げながらアタッシェケースを差し出した。
都内某所の工場施設。といってもそこには人気は無く、昼間でも閑散としていて施設としての機能を果たしていない。しかしその時は導心会という名で知られている暴力団が、アタッシェケースを携えてやって来ていた。目的は大麻の取引。相手は暴力団専門の大麻のブローカー。導心会が待ち合わせ場所に着く頃、そこには同じようなアタッシェケースを携え、2人のボディーガードを従えた1人の男が居た。
「おや、わざわざ若頭さんがお越しなんて」
アタッシェケースを持つブローカーの男が口を開く。そのブローカーはヤクザの世界じゃ有名で、若頭に気安く話し掛けても組員達は何も言う事は出来ない、そして当の若頭でさえ、仲を悪くするような事をすれば大きな収入源は消え、ブローカーと仲を持つ別の組に睨まれ兼ねないという事はしかと肝に銘じている。
「宿無しがいつ誰の犬になるか分からんからな、ボディーガードだよ」
「何言ってるんですかぁ、例え若頭さんに頼まれても、今のこの立場を変えるつもりはないですから。野良犬は犬より強いんでね」
鼻で笑った若頭とふてぶてしく微笑み合ったところで、ブローカーは若頭とテーブルを挟んだ。そして2人はテーブルにアタッシェケースを乗せ、同時にケースを開けて中身を見せ合った。
「その小さいのは何だ」
「医療用ですよ、お頭さんに」
「そうか、さすが太鼓持ちだな」
「では確かに5000万、頂きます」
小さく頷いて若頭がブローカーに背中を向けた途端、若頭はよろめいた。そして直後、誰が何も言う間もなく若頭はその場に倒れ込んだ。
「若頭っ、てめえらっ」
「いやいや、そんな訳ないでしょ」
「黙れっ」
若頭の子分達が揃って胸ポケットに手を入れ、拳銃を取り出すと、ブローカーはアタッシェケースで顔を覆い隠し、ボディーガード達は子分達に背中を向けて頭を隠した。銃声が鳴り響く。しかし子分達は直ぐに撃つのを止めた。仕留めたからではない。確実に弾が当たっても、3人は変わらずに立っているからだ。
「何だ、お前ら」
「今時、防弾ワイシャツ1つ着ないなんて遅れてますね。海外じゃ基本ですよ、あっ」
しかしそう言い残してブローカーはゆっくりと倒れ込み、その場にはまるで時間が止まったかのように一瞬の静寂が訪れた。その直後、静寂を破ったのは子分の1人が倒れ込む音で、どこからかの狙撃だとその場の全員が勘づき始めた時にはすでに、ブローカーのボディーガードの1人が拳銃を取り出し、もう1人のボディーガードの首筋へと銃弾を撃ち込んでいた。その銃声は子分達の思考を麻痺させた、何故ボディーガードがボディーガードを、と。その間にも子分達はゆっくり倒れていき、ボディーガードも子分達を撃ち殺していった。そして、ボディーガードを1人残し、静寂が訪れた。
「サスケ」
そう声が聞こえた方、つまり狙撃の射撃地点の方に、ボディーガードに扮していたサスケが振り返ると、狙撃銃を持った剣一が気楽そうに手を振った。
「5000万、いやぁ、まんまと奪取だな。じゃ、ダッシュでとんずらしますか」
「その前にやる事」
「分かってる、いや、ダッシュと奪取を」
サスケが銃声を鳴らした。眠っていたブローカーの額に穴が空き、当然自分の声は掻き消された。しかしそれ以前にダジャレにリアクションが無かった事の方が気になる。
「まったく、ほんと笑わないや」
銃声が響いた。眠っていた若頭の額に穴が空き、再び自分の声は掻き消された。
「いやまだ喋ってん」
再び銃声が響いた。眠っていた若頭の子分の額に穴が開く。仕方がないのでサスケがそのヤクザ達を残らず撃ち殺すのを見届けながら、アタッシェケースに入った袋詰めの乾燥大麻をふと眺める。
狙撃銃の入ったアタッシェケース、5000万の入ったアタッシェケース、それらを自分の車のトランクへと積む最中、サスケはメモ帳を見ていた。ブローカーの服から抜き取ったものだ。その筋じゃ有名なブローカーだ、他の暴力団の情報がある可能性は高い。と言ってもそんな小物ブローカーの情報を頼りにするほど、俺の情報網は薄くない。実際、導心会とブローカーが会う事を掴んだのも俺、じゃなくて情報収集係の天馬だ。
最後に銃声が鳴り響いてから何時間か経った頃、そこにはパトカーのサイレンが照らされていた。同時に額に穴が空いた7体の遺体を眺める警察官は顔をしかめていた。言葉はなくとも、その状況は組織犯罪対策三課の浜脇にとっては容易く理解出来た。
「ハマ、あいつらも呼んでみるか?」
捜査一課強行犯2係の田辺がそう声をかけると、浜脇は吹き出すように笑った。そして数十分後、浜脇と田辺の下に捜査一課特別補佐係の足立、そして佐上がやって来た。佐上、田辺、浜脇はベテラン仲間で、よく共に飲みに行くほど親しい仲だ。しかし歳を取った分、3人は顔を見合わせてもテンションなんてものを上げる事なく、揃って事件現場を見渡した。
「ヤクザ絡みで殺し、そして被疑者不明。まさか一緒にやる事になるとはなぁ」
7体もの遺体をそれぞれ写真に収めていく鑑識達を邪魔しないように、足立は佐上と共に遺体を一回りした後、その現場をよく見渡せる2階へと上がった。導心会とブローカーの取引をよく見渡せる場所と言ったら当然高い場所だ。そして高い場所、遠い場所から見ていたのなら使うものは狙撃銃だ。だがいくらサイレンサーを付けても、これだけ見通しの良い場所では小さな音でも気付かれてしまうだろう。
「面と向かったまま倒れてますよね。その向きのまま頭だけを狙って銃殺するには、どうすればいいでしょうか」
「はぁ?」
ここには足跡がない。狙撃地点は別の場所かしら。
「一気に大勢で急襲したんだろ」
「ですが現場から離れていくゲソ痕は1つです。それに周りから囲んだような大勢のゲソ痕はありませんでした」
「え?見てたのか?言えよ。てか、1人で何が出来んだ、さすがに無理だろ。それより考えてんならとりあえず吐いちまえ」
「私でエア事情聴取しないで下さい」
「エアじゃねぇわ」
「例えば、狙撃された。しかも実弾ではなく麻酔弾。何故狙撃かは、近場より遠くからの狙撃で勘づかれるのを遅らせる為だと思います。そして眠らされた後に、頭を撃たれた」
「だから2階に来たのか。で?ゲソ痕は」
「今のところ見えませんねぇ」
「でもそれなら、現場から離れていく奴と一緒にもう1人分ゲソ痕出るはずだろ」
「大麻の取引現場のタレコミ電話、しかも発信地は海外。そもそも何故わざわざ通報したかです、放置すれば捜査されるのを遅らせられるのに。そして麻酔銃と出ないゲソ痕。これで導き出されるキーワードはなんでしょう」
「はぁーあ。ま、確かに殺されたのは裏社会の奴らだがなあ」
「さ、し、す、せ?」
「そー、そー」
「だ、ぢ、づ、で?」
「ど」
「ソードです」
「てか俺ら、捜査一課ソード対策班係じゃねぇからな?」
警察が大麻の取引現場を捜査している頃、剣一達はすでに生活拠点に戻っていた。東京都千代田区某所の雑居ビル、その地下にある、区役所でさえ知らない空間。数ある内の1つである秘密基地。そこには情報収集係の天馬、そして女神担当のマリア・ブリリアントが居た。
「マリア、ただいま」
「お帰りー」
「はーい集合ぉー」
中央のテーブルにアタッシェケースを置いて開けて見せると、マリアは目を見開き、驚いた。その声、仕草、そのすべてはただ可愛いという言葉を脳裏、いや全身に走らせた。
「とりあえず2000万を4等分だな」
「うふっ早速エステ予約しよっと」
ソードの活動資金、それは主に悪党から奪い取った大金。例えば貯まりに貯まった裏金だったり、悪名の名がそのまま形作られたような金塊だったり。しかしその奪い取った大金の半分以上は必ず慈善団体への寄付に回す。それがソードの絶対の目的。人によっては汚れた金を寄付されても子供達は喜ばないとか色々言うだろう。だが金そのものに、罪はないんだ。
生活拠点がある雑居ビルに入っているバー、イズミ。ドアを開けると、鈍く軽やかな鈴の音が鳴った。
「いらっしゃいませ」
そう言って歩み寄ってきたのはバイトのウェイトレス、キョウコ。俺を見た途端、キョウコは表情の力を抜いた。
「もー、働いて下さいよ。私のいらっしゃいませ返して下さい」
「逆に金入れてるんだから良いんだよ、俺が金を入れるから、キョウコちゃんはコーヒーを淹れてくれ」
「ただでさえ少ない給料がもっと減りますよ?」
「まぁそもそも幽霊部員だからなぁ」
店主はジェイ、通称ジーさん。メタボに顎ヒゲ、サンタクロースな見た目は客の間では密かに人気らしい。俺がしばらく居なかった間に昼営業を始め、雑誌で小さく紹介されるほどのお酒に合うホットドッグを開発した。それから少ししてキョウコがコーヒーを持ってきた。
「どーぞ」
「はいどうも」
「せっかくだしホットドッグでもお金入れたらどうですか?」
「んー、そんな気分じゃないな、つか、熱い犬は採算度外視だしな」
「訳さない」
そんな時、ドアの鈴が鳴った。
「あ、いらっしゃいませ、お1人ですか」
ふと目線を上げると、腰の高さの仕切り越しに見えたのはあどけない顔の女性だった。見た途端に年齢が分かるなんて超能力は持ってないが、恐らく18とか、もしかしたら16。20はいってないだろう。若い女性が1人、ホットドッグやその他軽食が目当てには思えない。なら、コーヒー片手に読書、そんなところか。するとその女性は隣のテーブルに着き、カフェラテをオーダーした。その直後、その女性は一瞬だけ俺を見た。いや、もしかしたら俺の方がジロジロ見てただけかも知れない。しかし常に周りに気を向けるのは職業病だから仕方ない。
キョウコがカフェラテをその女性の前に置き、去っていくのを何も考えず見ていた時、気が付くと自分のテーブルの端っこには紙切れが乗っていた。その紙切れの存在に加えてふと視線を感じ、その女性を見ると、その女性は俺を見ていた。言葉の無い、妙な空気が流れていた。特に害は無さそうなので紙切れを手に取り裏返してみる。
『助けて、ソード』
紙切れにはそう書かれていた。内心で、ふっと笑いが吹き出た。いつ、その名を知ったんだろう。何故ここに居ると知っていたんだろう。
「この前、カフェで話しているのを聞いたの。それで偶然、この店に入るのが見えて」
「偶然か、君ぐらい幸運な人、もう1人知ってるよ。とりあえず、場所変えようか」
助けて、その意味を何となく考えていた。地下駐車場へと場所を移してやった後、女性を壁際に立たせ、そして女性の顔の横に手を置く。
「で?俺に何か用かい?」
「人殺しの為の道具、くれるんでしょ?じゃないと通報するよ?セクハラで」
「すいません。まったく、冗談の分からない奴ばっかりだ、はーヤダヤダ」
「慈善事業なんでしょ?」
「まあ、ね。だけど、事情も知らないのに助ける事は出来ないなぁいくら何でもさ」
「イジメてくる奴らを、殺したい」
その声は正常に緊張していた。つまり、冗談ではない、という事。
「それだけ?」
「え?」
「そりゃあ慈善事業だけどさ、遊びじゃないんだ。人を殺すという事がどういう事かも知らない人に構ってる暇はない」
「じゃあ、通報する」
「おいおい、どうして俺が捕まらないか、知ってるか?」
すると女性は目つきを尖らせた。それは睨み付けると同時に、悔しがってるようにも見えた。
「簡単さ。警察は俺に勝てない、それだけ」
「じゃあいい、そもそも家から包丁持って行けばいいだけだし。あいつら殺して父親殺して、さっきのバーの人達も殺す」
「まったく、これだからガキは困る。その前に君いくつ?」
「・・・17」
「高校生?」
「うん」
「そもそも殺す必要なんて無いじゃん。ちょっと考えてよ」
「は?そもそも人をイジメるようなクズだから悪いんじゃん、生きてる価値無い」
「そいつらが居ない場所で生きればいいだろ。君もそいつらも死ぬ必要はないじゃん。顔を合わせないように生きればいいだけでしょ。それに卒業すればもう会わないし、あ、いや、今すぐ転校すればいい」
「やっぱりその程度なんだね、何がソードだよ。結局何も出来ないんじゃん」
「ちょっと待て、おいっ」
「何?」
「まったくしょうがない、話はちゃんと聞くから、落ち着けよ。さっきも言ったけど、徹底的に話を聞いてから動くタチだからさ俺、な?」
すると彼女は素直に落ち着いた。所詮、人はまず話を聞いて欲しい、そういうものだ。
「何でバーから出たの?わざわざ」
「バーの人達は関係ないから。とりあえず、俺の車にでも入ってよ」
そう言えば制服を着てない。もうすでに不登校なのだろうか。それよりイジメられても自殺ではなく殺しを選択する事自体、彼女には“素質”がある、という事だ。
「さて、名前は」
「結城明花。明るい花でサヤカ、おかしいでしょ」
「暗い花なら殺しより自殺を選ぶと思うけど?」
すると明花は呆れたような顔で俯いた後、吹き出すように笑った。
「イジメって、どれくらいな?」
「お金取られたり、スカート捲られたり、着替えてる時に教室から追い出されたり、それくらい何だって思ってるでしょ」
「いや、そういう空気が、1番怖いんだよね?」
「うん」
「さっきさらっと父親殺してとか言ってたけど、家でも居場所が無いのかな?」
「アルコール依存症なんだ。その上2人暮らしだから、でも1番嫌なのは、飲まない時は優しいって事、いや、やっぱり何も出来ない自分が1番嫌、このまま、どうしたら良いのか分からない。卒業したって、記憶は消えないでしょ」
「復讐はすればいい。だけど、殺すほどの価値は無いな。相手は、君と同じただのガキだ。勝てない事はあっても、負けるなんて事はない。イジメるのは嫌いだからじゃない、自分より弱いと認識してるからだ。だから殴り返されてまでイジメるような物好きは居ないよ。じゃあ何故、みんなやられっぱなしなのか。それはみんな、正義が何かをよく知らないから」
「正義?」
「悪い奴を懲らしめる為なら、それは暴力とは呼ばない。明花ちゃん、法律にはね、心が無いんだよ。この世界はね、正義も悪も全部法律に縛られてる。法律に反してないなら悪じゃないって、みんな勘違いしてる。だけどそれが世界だ、明花ちゃんがそいつらを殴れば、世界は明花ちゃんを犯罪者だと言う、どんな理由があっても。それが世界。だけどその世界そのものが、未熟なんだよ。よく考えて、覚悟出来たらまた来てよ。そしたら武器をあげる」
「え、今ちょうだいよ」
「よく考えてからね。娘が犯罪者になったら、父親はどう思うかとか」
「嫌。刑務所に入れば、あいつらからも父親からも離れられる。もうそれしかないから」
「でも今手元に無いからさ、買ってくるまで、待っててくれないと。な?」
「狙われたのは導心会の若頭、諏訪部英剛と見ていいだろ。大麻のブローカー、ウォン・将吾との取引中に襲われた訳だが、それにしても、いくら殺しでもこりゃまたヒーローだの何だの騒がれるなあ」
「ブローカーを殺すのが目的だとも考えられませんか?」
「ああ、まぁそうだな」
「あれ佐上さん、ちょっとおかしいですね」
「どこがだ、ちゃんと髪はセットしたつもりだが」
「ウォンの所持品ですよ。こういうのって、大体取引先のメモとか持ってるのが普通ですよね。メモ的なものが見当たりませんが」
「スマホにあんだろ。なぁ?宮内」
しかし鑑識の宮内はパソコンを凝視したままキーボードを叩きながら、困惑したような焦るような唸り声を上げた。
「見当たらないですねぇ」
「ならデータではなく、メモ帳などに書き留めていたのでしょう。しかしそれは所持品として鑑識に上がってない、つまり、殺されてすぐ盗られたんですよ。恐らく他の組との取引情報も沢山あって、相当重要なものだった」
「まさか、ホシはまだヤクザ狩りを続けると?」
「私はそう思います」
明花は家路の途中にある河川敷に座り込んだ。今帰っても、父親と2人。でも遅くなっても口うるさいし。でも1人で、酒飲んで朦朧として、怪我でもしていたら。もしかしたらあたしを捜しに来て事故に遭ったら。そう思うと自然と腰は上がり、足は家路へと踏み出した。居場所は無くとも家は家。居場所の無い家以外にもまた、居場所は無いのだから。
「ただいま」
「・・・あぁ」
どうやらまだお酒は飲んでいないようだ。というよりスーツを着てる。久しく見てない姿だ。
「面接?」
「あぁ。夕方には帰ってくるから」
「うん」
あたしが、犯罪を決意した途端にこれ?いや、関係ないよね。ほんとは、殺したいなんて思ってない。殺して欲しいのはこっちの方。お母さんは狡い。弟を連れて居なくなった。というか離婚が狡い。ルールに沿えば簡単に娘を置き去りに出来る。
「じゃ、行ってきます」
「いってらっしゃい」
もう帰ってくんな。いや、思ってたって言わないけど。てかちょっと思っただけだし、本気率ゼロだし。結局就職が決まらないから自棄酒するんだ。就職さえ決まれば、お父さんだって酒に手を伸ばしたりしないんだから。
幸い貯金は割りとある。だから買ってきたものだけで栄養バランスを整えても罪悪感は無い。お父さんは箸を持つ前、必ず日本酒をコップに注ぐ。そして何は無くとも、先ず一口喉を潤す。それが夕食での一連の流れ。
「どうだった?」
「ああ、まあまあかな。希望は経理で変わらないけどさ。もしかしたら営業やらされるかも知れないとか言ってた。まぁ経験が無い訳じゃないから、いいんだけどさ」
どうやら今日は上機嫌を理由に酒を飲むのか。落ち込めば酒、良いことあれば酒。バカみたい。いい加減アル中認めろって。
「それはそうと明花、いつまで休むつもりだ?もう3日だぞ?」
「もうすぐ、行く」
「そうか」
「やっぱりさ、学校やめてバイトした方が良くない?」
「え?」
「今時学歴なんか意味無いよ?バイトから正社員に昇格する方が、手堅いっていうかさ」
コップを置く音が妙に響いた。目線を上げると、お父さんはどこか悲しそうだった。
「それじゃ、お父さんのモチベーションが無くなるだろ。お前にちゃんと学校行って欲しいから金を稼いでるんだ」
「でも、イジメられてまで行く意味無い」
「・・・イジメられてるのか?」
「・・・うん」
そう応えると、お父さんはコップを空にした。しかし何か言う前にまた、コップに日本酒を注いだ。
「・・・そうか」
近い内に退学になる、そこまでは言えなかった。お父さんはまるで水を飲むように、また一口酒を流し込んだ。
「なら校長に言ってやる」
「無駄だよ、そんなの。教師がイジメを解決した話なんて聞いた事ないもん」
「じゃあ、どうしろっつうんだよ。何もしないで居られるかよっ」
「あたしに当たらないでよ!」
「当たって、なんか、ないだろ。学校だって、言われれば何かしらするだろ」
「学校は親に弱いの。親がやってないって言えば学校は何も出来ないの。それにやるって言っても、名指しは絶対にしないし、結局意味が無いアンケート調査しか出来ない。みんなそれくらい分かってる」
「だったら、そのイジメてる奴の親に直接言ってやる」
「やめてよ。返ってイジメがエスカレートするだけ。あたし、ちゃんと自分で何とかするから。結局当事者同士じゃないと、絶対解決出来ないから」
「・・・そうか」
そう言うと、お父さんは空にしたコップに日本酒を注いだ。そうだ、結局大人は何も出来ない。大人が悪いんじゃない、そういう世の中なんだ。最初から期待なんかしてないし。やられたなら、やり返すしかない。
天馬はパソコンに届いたメールを開いた。
『頭はゼッドを疑っている。綱川が探りを入れ始めた。警察にも話した』
「サスケ、羽山から定期報告」
定位置のパソコン席に座る天馬が、サンドバッグを相手にしていたサスケに声をかけた。サスケが天馬に歩み寄るその状況に、当然の如く剣一はソファーから気を向けていく。
「ゼッドか」
「まあ妥当だよな。ヤクザがウォンを殺す可能性は低い。なら同じ業界の組織が野良犬であるウォンを潰したってね。でもウォンだけならまだしも組員も殺られたとなると、ゼッドはまんまウォンの仕事を引き継げない。疑心はヤクザにとっちゃ弱点だしね」
「剣一、次はどうするんだ?」
「ゼッドがこっちに気が付く前に、さっとゼッドと輪島会の関係を潰して、ヤクザに対するゼッドの評判を更に落とす」
「俺の仕事は」
「潜入は警戒されてるだろうからなぁ、ま、ゼッドとの取引を潰すのは確定だけど。で、今回殺すのは輪島会の奴らだけだ。ヤクザの奴らにゼッドが輪島会を殺ったと思わせる」
「同じ手は使えないだろ。もう見通しの良い廃墟なんか選ばないんじゃないか?」
「ダイジョブダイジョブ、俺らにはアイテムがある。んでさ、ちょっと俺これから用事があるから、秘密兵器、天馬達が輪島会の“S”に届けてくれる?」
「え?ああ、まぁいいけど」
しばらくした頃、天馬とサスケは輪島会が取り仕切る不動産会社の近くに車を停めた。S、つまりスパイだが、これから会うのは警視庁、警察庁の人間と個人的に、しかも密接に協力体制を取っている一般人。輪島会にも警視庁の組織犯罪対策部の人間と協力体制を取る組員が居る。しかし警察は知らない。そのS、三浦は導心会の羽山同様ソードのSでもあるということを。目立たない通り道に停めている車の中で待っていると、そこに1人の男がやってきた。周りを見渡し、怪しまれるような素振りを見せる事なく、男は真っ直ぐ向かってきて車のドアを開け乗り込んだ。
「さっき、警察が来た」
「そうか。導心会の話された?」
「あぁ。あとゼッドの話な」
「なんて聞かれた?」
「導心会とウォンを同時に殺ったところで、他の組にも他のブローカーにもメリットが無いから、ヤクザとブローカー以外の人間が導心会とウォンを殺ったと見てる。最近それらしい奴を見てないか聞かれた」
「もしかして、地味な若い女と赤髪の中年のコンビ?」
「え、何で分かった」
「あはは。いや、ね、数ヵ月前に、妙に頭のキレる女刑事が現場入りしてから結構活躍してるって有名だからな」
「そうなのか。いつもの刑事と2人の付き添いが居た。ソタイの浜脇も、ゼッドがやったと見てるが、その女は妙に鋭かった。大丈夫か?結構手強そうだぞ?」
「問題無い。じゃあ早速打ち合わせしよう。はいこれ」
「ん・・・これは」
「スタングレネード。取引場所に普通に居れる三浦さんがまさかこれを持ってるなんて誰も思わないでしょ。皆さんが集まった時にこれを使ってくれたらすぐにこっちの仲間が突撃して、輪島会の人間を殺す、そういう手筈だ」
「そんなの、すぐにオレが疑われる」
「いや、そこで生き残るのは三浦さんだけだから。最初は三浦さんも死んだフリをして、ゼッドが居なくなったらこっそり起きる。そしてその後、三浦さんはゼッドが奪ったと思わせてる大金で海外旅行。逃亡という名の、ね。こんな感じだ」
「なるほど。それでオレは晴れて足を洗えるって訳か。それよりそもそも、こんなもんどうやって手に入れたんだ?こういうの、警察の特殊部隊とか自衛隊が使うもんだろ」
「まぁ、裏ルートがあるから。裏社会のネットワークは、表の世界のそれよりも遥かに大きい。しかも表の世界からじゃ見ることも触れる事も出来ない。例え三浦さんでも、詮索すると危ないかもな」
「そうだな。じゃ、よろしく頼むわ」
三浦が車を出ていった頃、剣一は地下駐車場に停めている自分の車の中に居た。誰と居る訳でもなく、自然光が入らないそこで1人、ただ時を過ごしている。するとやがてそこに1人の女性が姿を現した。明花を見ると剣一は車を出た。そして、その手に持っていた金属バットを明花に見せびらかした。
「これでどうかな」
「そういう系?血が出ないくらいの改造エアガンが良かった」
「まさかのチェンジか。リクエストあったんなら言ってよ」
「さっき思った。エアガンが良い。エアガンにして」
「はぁ・・・。まったくしょうがないなぁ。わざわざゴルフクラブかで迷ってあげたのにさ」
「今夜までに用意して」
「良いけどさ。実際に自分の力で殴った方が、気持ち的にもスッキリすると思うけど?自分の力で、相手の骨が軋む感覚、その衝撃が自分の手に響く感覚。知ってる?骨が割れた瞬間、人間は冷静になるんだ。もしかしたらヒビでも入ったかもと、黙りこんで頭を巡らせる。その疑念と恐怖しか無い瞬間の人間の顔は、エアガンなんかじゃ見れない。それでもいい?」
「え・・・」
「ほら。あ、それから、素振り100回ね」
「は?」
「練習もしないで人なんか殴れないでしょ。ボクサーだってシャドーやるでしょ?だからほら、剣道のメェーンってやつ」
「う、うん」
「・・・ちょっと、話そうか」
途端に戸惑いを見せ始めた明花を気遣うように、そして同時に更に追い込むように、剣一は声色を落ち着かせ、車へと促した。
「明花ちゃんは、これから犯罪を犯す。だよね?」
「え?うん」
「それは間違いだ」
「はっ?何?今更説教?意味分かんない。もう帰る」
「そうじゃなくて。明花ちゃんは犯罪を犯しに行く訳じゃないって事さ」
「え?金属バットで人を殴るんだよ?」
「大事なのは心持ちだよ。心持ち次第で、未来はまったく変わってくる。犯罪を犯しに行くんじゃない、明花ちゃんは、心を救いに行くんだ。自分の心をね」
「うっわ何それ。セリフみたい。てか、犯罪は犯罪なんじゃないの?」
「きれい事だと言う人は、絶対に部外者だから、気にしなくていい。俺はね、この世には正当化出来る犯罪はあっていいって思うんだ」
「正当化?」
「犯罪と呼ばれるのはルールを破ったからだよね?だけど地球は法律から生まれた訳じゃない。人間は、ルールのお腹から産まれてくる訳じゃない。確かにそもそも、やられなければやり返す事なんてない。そもそも悪い事をする人間が悪い。明花ちゃんさぁ、今の世界をどう思う?」
「え?別に、どうも」
「何故犯罪者が後を絶たないか、考えた事ない?」
「別にない」
「はは、冷たいなあ。俺はさ、犯罪者にも人権がある限り、犯罪は無くならないと思うんだ。そりゃ犯罪者にも色々ある、悪意の無い犯罪だって沢山ある。ただ現状は、悪意しか無い重犯罪者にも人権がある。明花ちゃん知ってる?いわゆる殺人、刑法199条じゃ懲役は5年以上ってなってる。結果がどうと言うより、基本の物差しが5年ってところ。人は、死んだら絶対に返ってこないのに、殺した側はたった5年で罪が償われる。釣り合ってないよね?」
「だから、犯罪プランナーなんてやってるの?」
「まあそうだね。俺は基本、命は命で償うべきだと思う。でも流石に世間はそれじゃ納得しない。ならせめて、悪意しか無いと判断された犯罪者に限り、人権を剥奪する。そういう法律でも出来ないかなって思うんだよね。要はさ、今の世界は、罪に対して罰が釣り合ってないんだ」
「ふーん」
「だから明花ちゃんさ、そういう法律、作ってくれない?」
「・・・はぁ?」
「いやだって俺はもう犯罪者だしさ。政治家にはなれない。けど明花ちゃんは、今からでも頑張れば政治家になれる」
「政治家とか、まったく興味ないんですけど」
「えーー。素質あると思うけどなあ」
「ある訳ないじゃんそんなの。てかどんな素質だよ」
「自殺じゃなくて殺人を選ぶ。つまり戦う素質があるって事さ。でもま、復讐したいならすればいいし、考えるだけ考えてよ」
「考えるかどうか考えとく、じゃ」
「あ、素振り100回ね」
足立は路肩に停まっている車の窓をノックした。目立たない通り道に停まる、目立たないベージュの軽自動車。その窓が下ろされ、運転席に座る男性と目を合わせた瞬間、足立は内心で首を傾げた。
「すみません。ちょっと良いですか」
警察手帳を見せるとその男性は血の気が引いたような表情、そして静かなる警戒心でもって私を見上げ、佐上を見た。
「何で、しょう」
「今さっき、この車から出てきた男性の事、伺いたいんです。因みに、あの人が、暴力団員だという事はご存知でしたか?」
「え、あ、ああ、うん、はい。別に、俺らはそういう人間じゃない。ただの知り合い」
「そうですか」
「俺ら、い、急いでんだ、もういいか」
「はい」
走り出した車を見送る足立の横で、佐上は笑っていた。堪えていたものを吹き出すように。同時に目を合わせた2人は言葉にせずとも共にある言葉を頭に過らせた。“怪しい”と。一方、足立達から逃げるように走り出した車の中で、深呼吸した天馬をサスケは鼻で笑った。
「まずいよな?これ、まずいだろ」
「天馬が動揺したお陰で目を付けられた。どこかでナンバープレートを変えてから帰らないとな。それにしても意外だ、クールなお前があんなに動揺して、面白かった」
「動揺するだろ。そんな、俺、剣一ほど肝据わってねぇよ。あー、びっくりした。まさか真歩、輪島会を張ってたなんて。真歩、俺の事気付いてねぇかな」
「剣一だって、自分から名乗るまで気付かれなかったんだろ?」
「だよな?・・・ふう」
少しして、天馬は立体駐車場に入った。大型デパートに併設された大型の駐車場をグルグルと回っている中で、サスケは後方に気をかけていた。真歩がついて来ているかも知れない。そんなことを考えながら、天馬は用も無いのに駐車場を駆け上がっていく。
「まさかついて来てないよな?」
「出てくるのを待つ方が妥当じゃないか?」
「だよな、じゃここら辺でやっちゃおう」
車を降りたサスケはスマホを取り出し、車を降りない天馬は通常の一般車には無い、剣一考案の“プレートチェンジレバー”に手を伸ばした。天馬がそんなレバーを動かせば前後2つのナンバープレートは即座にガチャンと音を立てながら縦回転し、リバーシブルになっているもう1つの顔を見せた。一方、サスケはスマホを操作し、その車体の染色部分に貼られたこれまた剣一考案の“発光シート”の色を変えた。
「黄色か?それともピンクにするか」
「男2人でピンクはまずいだろ。そもそもなんでその2択なんだ」
そうして、停車後数秒でナンバープレートが変わり、ベージュから黄色へと変化と遂げた車は再び動きだし、駐車場をグルグルと下りていった。
「導心会の頭、有働雅楽は大方、ゼッドの仕業だと思ってるな。ゼッドは裏社会じゃスーパーマーケットと呼ばれるほど手広くやってる巨大組織だ。だが裏社会の組織ってのは巨大なほど派閥も生まれ、末端は遊んじまうからなぁ。監督の手が届いてない野郎共が、勝手に野良犬であるウォンを殺り、導心会の金に手を出した、と見てもおかしくない。だが殺しの規模から見て、小物が集まっただけの数人が出来るような事じゃない。もしかしたら末端じゃなくて、それなりに力のあるもんが、独立を見越して手近な金を奪い、ゼッドの面を汚した、やっぱりそんなとこだろ」
「確かに浜脇さんの考えは1番妥当です。でも私は、ソードの線を追いたいです」
「何か強い証拠は」
「証拠は、ありません。ですが、もしゼッドの中で内乱や独立の話が無いと証明出来れば」
「んー・・・ゼッドは海外でも活動してるほどの組織だ。ヤクザ界の重鎮の1人、導心会のトップである有働でさえも一目置いていて、例え警察でも下手に嗅ぎ回れない。噂じゃ、政界の人間からも資金が回ってるらしい」
「ケッ・・・マジかよ。んなの、俺そういうの全然聞いたことねぇよ」
「俺だってそうだ。そう言ったら、有働は笑ったよ。表の世界の人間じゃ知る由もないってな。だから嬢ちゃん、不用意に近付くなよ?」
「・・・でも、何も出来ないなんて、嫌です」
「こればっかりはなぁ。それこそ、ヒーローでも居てくれりゃあな」
「おいハマ」
その警察らしからぬ発言に田辺が突っ込むと、浜脇、田辺、佐上はベテラン同士、枯れた笑い声を吹き出し合った。
「仕方ない、ウォンの身辺、もういっちょ洗ってみっか」
「俺も、輪島会の野郎共にもっかい当たってみるか」
田辺、浜脇が鑑識係室から出ていくのを見送った後、佐上はほくそ笑んだ。そして鑑識の宮内と話す足立の背中を、どこか生意気な若者を見るような眼差しで見つめた。キャリア組の人間だからじゃない、未熟な嬢ちゃんだからこそ、腰を上げてやろうと思わせる何かがあるのかも知れない。内心で青臭さを笑うなんて、俺も歳を取ったもんだ。
「Nシステムでは、その例のベージュの軽自動車は立体駐車場からまだ出てないって事になってますよ?」
「まぁ大方、デパートで時間でも潰してんだろ。車の持ち主の名前は馬場天博。つっても、ちょっと怪しいってだけで流石にこれ以上突っ込めねぇだろ。まぁ挙動は不審だったが、お前は何でナンバー照合までしようと思ったんだ?」
「あの人、私を見てすごくびっくりした顔をしたんですよ」
「うん・・・は?だから何だよ」
「まるで、私を知ってるみたいでした。アレですよ、うわヤバイ、足立だ逃げろ的なやつです」
「はぁ?んな訳ねぇだろ。ヤクザの知り合いだから逃げたってだけだろ」
「いーえ、あれは私を見てびっくりした顔でした。だから、何となく怪しいなと」
少しずつ、息づかいが荒くなっていく。ほんの少しずつ。彼女の目にはただ1つ、街灯の光に微かに反射する銀光りするものが映っていた。静寂の中、風を切る音が鳴る。同時に1秒1秒、彼女は息を荒くし、体中に力を入れてはフッと息を吐き出していく。
「・・・君、何してるんだ?」
たまたまそこを通りかかったお巡りさんは自転車を停め、当然の如く話しかけた。日が落ちきった河川敷で女性が1人、話しかけないお巡りなど居ないだろう。
「それ、金属バットだよね?」
「これはとりあえずです、あたし剣道部なんですけど、今日部活で竹刀が壊れちゃって、だから仕方なく弟ので自主練です」
「高校生?今何時だと思ってるの。11時前じゃないか」
「家じゃ、振り回せないでしょ?大丈夫ですウチすぐそこなんで、それに万が一襲われてもこれがあるんで」
「いや、でも」
「ねぇ警察の人ってみんな柔道とか剣道やってんでしょ?あたしの素振り見てよ」
「え」
「フッ・・・フッ・・・」
「待って待って、ストップ」
「フッ」
「あぶねっ・・・こら止めなさいってば」
「何ですか?」
「こんな、夜にやる事ないでしょ、もう帰りなさい」
「まだ全然良い汗かいてない。お願い今日だけ、1人になれる所で静かに集中したいの。今日しかないの、ほんとにウチすぐそこだから」
「いやぁ・・・じゃあ、12時前には帰りなさい」
「流石お巡りさん優しいー」
「あは、約束だからね?」
「うん」
明花は深呼吸し、再び金属バットを握り締めた。チョロいな。そんな事を思いながら。だがすべてが嘘という訳ではない。時間が無いのは本当だ。次に学校に行く時、その時が勝負なのだから。素振り100回なんて聞いた時は馬鹿らしかった。けどやってみると意外に良い運動だ。上から下に向けて、一気に降り下ろす。ただそれを何度も何度も、何度も。あいつの顔を思い浮かべながら、何度も。殴ってやる、絶対殴ってやる。
「足立さん、おはようございます」
「おはようございます」
「おう。ったくこんな時でも重役出勤か」
「重役じゃないですよ。どんな時でも8時半出勤、言うなら脇役出勤です」
「ねぇわ、んなもん。ほら行くぞ」
今日は着信音が目覚ましになった。そうなると相手は必ずと言っていいほど事務・連絡係の汐留だ。だが枯れた声にまで加齢臭を乗せる佐上よりマシだ。鑑識係室、そこに足立達を呼び出した張本人が居た。宮内だ。
「例のベージュの軽自動車があれから立体駐車場を出てないって、どういうこったよ、丸1日デパートか?」
「自分に聞かれても。これですね、手前でNシステムに読まれた後、そのまま駐車場に入るベージュの車。で、駐車場の監視映像をずうーーっと流して、これ今ですね。この駐車場の出入口にある監視カメラを始め、出入口を挟む2つのNシステムにもまったく引っ掛かりません。2つのNシステムは地理上この立体駐車場を完全に挟む状況になってまして、この駐車場を利用する車は行きも帰りもどっちかには絶対に引っ掛かるようになってます」
「マジかよ。なら、例えば駐車場に車を捨てて、足で逃げたのかもな」
「でもそれだと、見つかった時のリスクが大きいですよね。放っておいたらいづれ見つかります。それで見つかったら、もう疑ってくれと言ってるようなものです。ずっと逃げ続けたいなら、考えづらくないですか?」
「他に方法なんて無ぇだろうよ。東名高速だけに透明にでもなったってのか?お前もオヤジになったもんだな」
「残念ですが私はオヤジではありませんでした。私の考えは違いましたから」
「はぁ?」
「例えば、ナンバープレートを変えた」
「ワンプレートランチでワンコインか、最近流行ってやがるよな?宮内」
「えぇっは、はい」
「宮内さん、同じ車種で検索かけて下さい」
「はい」
「いや、変えた後のナンバーが分からなきゃ意味ねぇよな?宮内」
「えっ、はあ、まあそうですね」
「大丈夫ですよ宮内さん、佐上さんがすべて手間をかけて調べますから」
「あんだと?手伝ってくれるよな?宮内」
「うえっ、ま、マジですか」
「今日も学校行かないのかよ、え?」
「朝から酔っ払ってんじゃねぇよっお父さんだってパジャマのままじゃん」
「何キリキリしてんだよ。て言うか朝からじゃない、夜からだ。良いだろ、今日は何も無いんだから」
そう言うとお父さんは若干据わりかけの目でコップを空にし、すぐに日本酒を注いだ。二日酔いのクセして朝食は普通に食べてるなんて、後で吐いても知らないんだから。
「今だって、授業料消化されてんだ、勿体ないだろ」
「分かってるようるさいな」
その少し据わりかけた目を見てると、少し砕け始めた口調を聞いてると、何となく無性にイラつく。優しいお父さんを狂わせる酒が嫌いなのか、酒に逃げようとするお父さんが嫌いなのか、自分でもよく分からないけど。
「うるさいって、お前の為に仕事してんだろ!」
「今してないクセに」
「探してんだろ?こうやって、何だよ俺が悪者みたいに言うなよっ。え?お前だって、何がイジメだよ、たかが女同士の小さいもんだろっ本当は、ただのずる休みなんだろ?」
「は?酔っ払いにはどうせ何も分からないよ!」
河川敷に座り込み、明花は青空を見上げた。今更、ケンカした勢いで家を飛び出すなんて事はない。朝食を片付け、静かに家を出て、ああまたケンカしたと小さな後悔に耽るだけ。ワイドショーじゃよく、誰の金で暮らせてると思ってるんだ、という発言に対してああだこうだ言うのが流行ってる。昔からよくある話だが、今再びとある芸能人の発言で世間が沸いている。父親の品格とか、親としての自覚だとか、テレビじゃ色々と正論しか言わないけど。別に、お父さんが嫌いな訳じゃない、でも、あたしが刑務所に入って少しでも反省してくれるなら。
その時、ふっとソードの車の中の静けさを思い出した。何故かソードの顔は思い出せないが、そんな事は大した問題じゃない。法律を作ってくれないか、そんな現実感の無い言葉が、何故か妙に胸に引っ掛かる。あたしはただ、あいつをぶん殴りたいだけ。
「やあ」
振り返ると、そこにはお巡りさんがいた。30歳前後に見える感じだが、気の抜けたバカそうなその微笑みは、すぐに夜中の事を思い出した。
「学校は?」
「もうすぐ行く」
こんな時にメンドクサイのが来た、そう思いながら適当に応えると、お巡りさんは自転車のスタンドを下ろした。スタンドなんか下ろすんじゃない、それじゃまるで、これからじっくり話するみたいじゃん。
「今日は素振りしないの?」
まぁこいつも仕事なんだから、仕方ないか。
「ちょっとお父さんとケンカして、散歩してるだけ」
「そっかぁ」
って、ちゃっかり隣に座ってくるんじゃない。
「羨ましいなぁ、僕のお父さんは2年前に死んじゃったからさ。ケンカも出来ないなんて、寂しいよね?」
そういう系か。どっかのドラマで聞くようなやつ。
「ふーん」
「学校で、何かあった?」
「別に」
ああ、結局さっさと学校行けって事か。まぁそりゃそうか。
「別に、ある?」
うわ、メンドクサイ返し。
「今の時代、何も無いなんて事ないよ」
「あー、うん、そうだねぇ。でも、学校ってさ、何だかんだ言って楽しいところだよね?」
「そうかな」
「君はまだ、あ、名前は?」
「・・・明花」
どうせ長ったらしく、諭し系説教するだけでしょ。
「明花ちゃんは青春真っ只中だからまだ分からないけど、大人になったらさ、友達同士で話す事は大抵学校の話なんだよ。あの先生が面白かったとか、文化祭がどうだったとか。そりゃ嫌な事だってあるけどさ、明花ちゃんが大人になっても、楽しかった事は、絶対に忘れてないと思うよ?」
「ふーん」
楽しかった事、そりゃ中学の時は普通に学校行ってたけど。
「でも、それはやっぱりイジメとかされた事の無い人の意見でしょ」
「僕が警察官になろうと思ったのはね、イジメられたからなんだよ」
「へぇ」
逆に、的なやつか。
「それで最初は強くなりたくてさ、空手部に入ったりしてね」
「ねぇ、それで、イジメてきた奴らにやり返したの?」
「最初はそうしたいって思ってたよ。でも試合で勝つ度に、何て言うか、内面から変わったみたいで、自然とイジメられなくなってね、それに自分に自信もついてきて、怖い気持ちも自然と無くなったんだ」
「へぇ」
でもやっぱり、そんな美談になる人の方が少ないんだ。
「だからさ、イジメられた経験者として、悩みなら何でも聞くよ?」
「・・・え?あたし、イジメられたなんて、言ってないけど」
お巡りさんはどこか嬉しそうに微笑んでいた。そのバカっぽい微笑みはむしろ少しイラッとした。
「あは、まぁでも、悩みが無い人がこんな所に居ないでしょ」
こいつ・・・思ったより手練れだ。バカっぽいふりして、ちゃっかりマークしてたなんて。
「こうやってさ、のんびり人と話すのも良いでしょ?」
「お巡りさん、何年目?」
「えーと、7年かな。1回、刑事にならないかっていう話があったけど、僕、交番が好きだからさ、定年まで交番やるつもりなんだ」
「へぇ」
でも、ごめん、あたしはこれから、犯罪を犯すんだ。
「さーて、いよいよですな、サスケ君」
「誰だ、それ」
輪島会とゼッドの、大麻の取引場所。三浦から報告を受けたのは都内某所のマンションの一室。ウォンの事件を聞いて、取引場所を急遽密室にしたそうだ。しかしそんな事はスパイの三浦から筒抜けだ。確かに三浦は警察のSでもあるが、大金と海外逃亡を蹴ってまで警察に情報を流したりしないだろう。取引場所とされている一室の隣の部屋に、剣一とサスケは居た。取引時刻は今から10分ほど経った頃。とは言え既にゼッドの奴らは取引場所に到着し、待機している。例え裏取引だろうと、10分前行動はどこでも基本なのだろう。
「・・・時間だ」
サスケが静かに呟いた。腕時計に目をやると、長針は12を指していた。マンション内の監視カメラ映像をハッキングしているパソコンを見下ろすと、やがて駐車場に1台の黒い車がやってきた。玄関口、エレベーター前、刻一刻と三浦を含めた4人が取引場所に近付いていく。
「時間通り、みんな律儀だねぇ」
「裏社会は表より厳しいからな」
輪島会の4人がインターホンを押した。サラリーマンは出勤し、子供は登校した後の、昼前の静かな時間帯にまさかヤクザが来るなんて、そしてそこで麻薬が取引されるなど、一般人は知る由もないだろう。そしてドアが開かれ、4人が部屋に入っていった。
「行きますかぁ」
麻酔銃片手に取引部屋の前に立ち、三浦への合図としてインターホンを押す。たまたま、いや狙ってインターホンの受話器の近くに立っていた三浦が受話器を取る。
「すいませーん、エブリデイ新聞の者ですが」
「今無理だ、また後にしろっ」
無論演技だが、三浦は近寄る者を追い払うように、若干凄んだ声でそう言い捨て受話器を戻し、全員の目線を2つのアタッシェケースへと戻させた。その直後、三浦は胸ポケットからスタングレネードを取った。ドアの向こうから、何かが弾ける音がした。それを見計らい、剣一達は取引場所に踏み込んだ。
「くそったれぇっ」
そんな声やら痛みに喘ぐ声やらが数人から沸いている。しかし視覚と聴覚が潰れている間の彼らには自分の声など聞こえず、ましてやサイレンサーの付けられたサスケの拳銃の銃声など聞き取れない。数分も経たない内に、ゼッドの人達はやがて視覚と聴覚を取り戻した。しかし何が起こったかと頭を巡らせている彼らが見たのは、一様に倒れている輪島会の人間達だった。
「何なんだよ、これは。・・・死んでる、のか?」
ゼッドの一員、関田は呆然として、血を流している意識の無い4人を見下ろす。
「関田さん」
漆原の言葉に、関田はふっと我に返る。
「か、金が、無くなってます」
規制線が張られ、制服警官の見張りが付いたマンションの一室に足立は足を踏み入れていく。躊躇なくカシャカシャと鳴らされていくカメラのシャッター音、そして足跡が付かないようにビニールを履いた人達のドタドタとした足音。あらゆるものをカメラに収めていく鑑識達の中に、足立、佐上、田辺、浜脇がやってきたのだ。
「輪島会もやられたか」
浜脇が呟く。
「発見者は」
田辺が1人の鑑識に声をかける。
「いません、通報です。発信元は海外だと聞いてます」
1LDKの一角には3人の遺体。どれも頭を撃たれている。そして3人のすぐ側には椅子の無いダイニングテーブル。
「浜脇さん、輪島会もって、導心会とウォンを殺害した犯人と同一犯だと思ったんですか?」
「多分な」
「ただの勘じゃねぇか」
足立の問いに応えた浜脇に、佐上が半笑いで突っ込む。しかし浜脇は同じような半笑い顔を浮かべながら、そんな佐上を鼻で笑い飛ばし返した。
「どう見たって取引場所だろ、これ」
「まさか相手は、ゼッドですか」
「おお、やっぱり流石嬢ちゃんは勘が良いねぇ。導心会とウォンのアレはゼッドの面汚しが目的だろ?輪島会だけが殺られたのは、こいつらの相手がゼッドだったから。つまりホシは、導心会とウォンを殺った当の独立希望の野郎共」
「なるほど。こらぁ、今回ばかりはソードは関係ねぇかもなあ」
「浜脇さん、何で通報したんでしょうか」
「ん、そら、マスコミ沙汰になりゃ、その分噂が広がるスピードが増すだろ。前と同じだ」
「導心会も輪島会も、取引から帰りが遅いとなれば誰か取引場所に様子を見に行きますよね?そもそもゼッドは裏社会の組織です。ヤクザの人達に事件が認知されればいいはずです。本来なら必要は無いのに、わざわざ通報する理由は何でしょう」
「ん、うん、そうだな。まさか、嬢ちゃんの筋のソードと関係があるってのか?」
「通報するって事は、第一に警察に事件を認知させたいって事ですよね?それは、犯人はヤクザとブローカーのどちらでもない立場の人間で、そういうヤクザやブローカーを潰す事を目的としている、という事じゃないでしょうか」
「まぁ、外部の人間って線もあるのは分かるが、それが直接ソードって事にはならないだろ。目星はついてんのか?」
「輪島会を張ってた時、偶然三浦さんがとある人物と接触したのを見掛けて、ちょっと調べてみたんです。ナンバープレートから名前を割り出したんですが、偽名でした。その時は偽名と分かる前にそのまま尾行はしたんですが、不可解な撒かれ方をされました」
「不可解?」
「デパートの立体駐車場に入ったっきり、消えたんです。でも本当に消えるなんてあり得ないので、私はナンバープレートを変えて逃亡したのではと思ってます」
「おいおい、そんな事出来る奴なんて、そう居ないぞ?」
「えぇ、私は、その人物または組織は、今回の事件に深く関わっているのではと思います」
「うん・・・。ブローカーでもない、裏組織か。三浦に改めて聞いてみるか」
「なぁ、エブリデイ新聞ってなんだよ」
「え?」
「思わず笑いそうになったじゃねぇかよ」
「捻りが足らなかったかな」
しかし三浦の表情はリラックスしきったもので、剣一達にとっては作戦が大成功した事、三浦の膝の上に大金が入ったアタッシェケースがある事がその理由だと分かっている。三浦がアタッシェケースを開くと、車の中に三浦の勝ち誇った笑い声が響いた。
「ケッケッケ、クックックック」
「いくら?」
「6000万。ああ、ちょっとぐらい分けてやっても良いぜ?」
「マジ?んじゃ、500」
「あー、まいいか。・・・ほらよ、500万」
「どうもー。じゃ、お客さん、このまま空港まで行きますかい?」
「おお、良いね、頼むわ」
空港へと向かっている途中、とある信号を前に車が止まる。よくある道筋、特別でもない交差点、どこにでもある状況。しかしその車の中で、剣一は困ったように笑いだし、サスケは殺気を立たせた。
「どうした?何笑ってんだ」
「驚かないでね、俺ら、追われてる」
「は、はぁ?」
「どうやらゼッドも単純じゃないみたいだ。俺らが意気揚々と車に戻るのを、待ち伏せして見られたってところかな」
「おいっ、だ、大丈夫だよな?」
「心配ご無用」
「でもこれ、軽だよな?」
「軽だね。ダイジョブダイジョブ、ウルトラカスタマイズしてるから」
「何だその安っぽい名前、逆に不安だ」
「サスケ、カラーチェンジの準備しといてよ」
「あぁ」
歩行者専用信号が点滅を始めた。同時に横断歩道を小走りする人達。そして交差車線から消える車の気配。静寂の後、信号が変わる直前、タイヤはその場で激しく地面を擦り上げた。人々が何事かと目を向ける。それはさながらレースを始めようとするレーシングカーのようだった。直後、信号が青に変わると、軽自動車はキュキュっと音を鳴かせ、交差点を駆け抜けた。
鏡に映る制服を着た自分を、明花は神妙な面持ちで眺めていた。何だか久し振りだ。けど、もう着なくなる。金属バットがはみ出たカバンを背負いこむと、いよいよという思いが胸に差し込んだ。教科書もペンケースもポーチも無い、金属バットの重みだけが肩に掛かる。
「お、やっと行く気に・・・何でバットなんか」
「あたし野球部だから」
「そんな訳ないだろ」
「正樹に返しに行くだけだから」
「えっ正樹来てるのか?」
「時々こっそり会ってるから」
「・・・そうか」
本当は弟とは会ってなんかない。会えるなら会いたいけど。お母さんにだって、会いたくない訳ない。
「じゃあ、行ってきます」
「あぁ」
ソードの言葉を思い出していた。正当化出来る犯罪はあっていい。明花ちゃんは、心を救いに行く。政治家になれとも言ってたっけ。それは聞かなかった事にしよう。
車の中に着信音が響いた。グレーの車に追われている状況など知る由もない、三浦の所有物になっている携帯電話は律儀に着信音を鳴らしていく。三浦はアタッシェケースを抱えながら、仕方なく携帯電話を取り出した。
「げっ・・・ソタイの浜脇からだ。まさか、オレの事バレたのか?」
「え?三浦さん、警察には今回の取引場所流してないでしょ?」
「当たり前だ、そんなん」
「なら、多分輪島会の3人が死んだ事でちょっとした話をするくらいじゃないかな?」
「そうか。そういや電源切るの忘れてたな」
「それか、三浦さんが会ってたとこ見られた、サスケ達の事聞かれるかもな」
「もういい、電源切った。つか、このスマホはもう要らないな」
携帯電話を耳元から放す浜脇は顔をしかめた。その態度から、電話が繋がらなかった、しかも故意に切られたのだろうと容易に推測できた。
「あ?切られた、何だあいつ。・・・・・・あ?まさか、電源切りやがったのか?」
「あっちもあっちで今てんやわんやなんじゃねぇかあ?」
佐上の言葉に、浜脇は顔のシワ寄せだけで相槌と同意を伺わせた。そんな2人を見ながら、足立はふと頭を巡らせた。もし、てんやわんやではないと仮定したなら。三浦は警察のSだ、取引場所の情報を流さないなんて事ない。
「浜脇さん、何で三浦さんは今回の取引の事、黙ってたんでしょう」
「それを聞こうと思って電話したんだがな」
「三浦さんは、取引場所に同席する事はよくあるんですか?」
「いや、聞いた事ないな。そういう情報は持ち前の人懐っこさで聞き出してる」
「そうですか。でも何にしても、三浦さんが情報を流さなかったのは事実です。浜脇さん、今回の取引のメンバー、輪島会の人から聞けませんか?」
「まさか、三浦が、襲撃の手引きをしたって?」
「私はそう思います」
剣一達の乗る車は右折、左折を多様し、まるで逃げ惑う動物のように街を駆け抜けていた。そしてまた再び曲がり道を曲がろうという時、剣一は一般車には無い特別製のレバーに手をかけた。
「サスケ、白で準備しといて」
「あぁ」
剣一はサイドミラーで後続者を一瞥した。ざっと見て50メートル後方にあの車が居る。直後、脇道にスッと滑り込むように、剣一はハンドルを切った。
「サスケっ」
剣一が声をかけると、サスケはスマホの画面をタッチした。同時に、剣一はレバーを引いた。車の前後で小さくガチャンと音がした。剣一はそのまま車を走らせ、再び道を曲がり、そして高速道路の入口へと入っていった。
「ふぅ、まぁチョロいもんだ」
「おい、何したんだよ」
先程まで剣一は小さな緊張感を走らせていた。しかし今、その態度からはそんな緊張感は微塵も感じられない。ただ車を走らせていただけなのに。そう思って三浦は車内を見渡す。何か変わった様子などまるでない。
「空港に着いたら分かるよ。いやぁ、今回は流石の真歩でも俺には辿り着けないだろうな。今日も、俺らは一人勝ちだな、ハハッ」
カバンから金属バットを出した女子高生なんか、みんなどうやらそこまで気にしないようだ。明花は内心で周りを気にしながら、見えてきた学校を見据えた。同時に学校が近付く度、少しずつお腹が重たくなってくる。そして遂に足を踏み入れた校庭は静けさに満ちていた。こんな時間に学校に来たのは初めてだ。今頃授業中だろう。そんな時間に1人で居るなんて、ちょっと優越感というか、ちょっとテンションが上がる。
シューズロッカーのドアを開き、いつもの安っぽい音が妙に響く。スニーカーの上履きを取った時、爪先部分に書いてある落書きにふと目が留まった。右足のには『アホ』。左足のには『バカ』。自分が居ない間に書かれたのだろう。無意識に上履きをロッカーに投げ返した。こんなものを履いてたら・・・。仕方ない、靴下で、いや靴下は滑るから、裸足で行こう。
ソードの言葉を思い出していた。悪い奴を懲らしめる為なら、それは暴力とは呼ばない。あたしは、あいつに何て言おう。何て言ってやろう。廊下って、こんなに冷たかったっけ。階段を上がった先はいよいよ3階、そしてその先にはあたしの組。1組のドアの前で立ち止まると、明花はカバンのジッパーを開け、金属バットを抜いた。
ガラリとドアが開く音が教室に響いた。ほとんどの目が明花に向けられる。しかし明花は酒井未来香をただ見つめ、何も言わずに歩きだした。
「結城?おい、何だそれ」
国語教員の須賀の呼び掛けなど、もう彼女の耳には入らない。途端に明花は勢いをつけて小走りして、金属バットを、酒井の頭目掛けて降り下ろした。鈍い音が教室に響いた。
「きゃああっ!!」
不意に血飛沫が掛かった1人の女子の悲鳴を皮切りに、教室には悲鳴が木霊した。酒井は無意識に頭を押さえながら、目線を上げた。
「やめろぉっ」
駆け寄ってきた須賀に向けて、明花は大きくバットを振り牽制する。その勢いと狂気に周りの生徒も素早く明花から離れる。しかし明花はそんな周りの事など構わず、ただ酒井と目を合わせていた。あの強気と悪意が微塵も感じられない、ただ冷静に恐怖している酒井の表情。明花はふとソードの言葉を思い出していた。
「あたしは、刑務所に入る覚悟で来たから、訴えるならやればいい!けど法律も世界も関係ない、これはあたしとあんたの問題だから、あんたの人生それでいいなら、殴られる心当たりなんてないって、被害者ぶればいい!!」
酒井は自分の頭からふと手を放した。その手にはびっしりと血がついていた。
「ある人が言ってた。悪い奴を懲らしめる為なら、それは暴力とは呼ばないんだって」
「おいっ、何だこれ、色変わってねぇか?」
車を出ると、車を見た三浦は予想通りのリアクションを取る。そんな気の抜けた態度を取れるのも、グレーの車も警察も出し抜き、何の危機感もなしに空港へと来れたからだろう。
「秘密兵器さ。じゃ、三浦さん、お元気で」
「あぁ」
お気楽そうに手を振り、悠々と成田空港へ去っていった三浦が残した5つの札束の1つをサスケに渡す。
「配給でーす」
「何で500万なんだ?」
「俺と天馬とサスケとマリア、そして寄付。寄付無くしてソードじゃないからね、そこはちゃんと考えてるさ。さて、ゆっくり帰りますか」
そして秘密基地。そこにはソファーで寛ぐ天馬、中央テーブルで雑誌を読んでいるマリアという、家に帰ってきた安心感を更に強くさせる情景があった。階段を下りる足音に気が付き、ふとした表情で俺を見るマリア、それはもう、無意識に頭を撫でたくなるほどの可愛さだった。
「マリア、ただいまのキスして」
「あーん」
「ん?」
不意に、いや若干待ってた感はあるが、仕方なく口に突っ込まれたイチゴを食べながら、雑誌の上に100万の束を置いてみせる。
「これって、輪島会のお金で高飛びさせるって人の?」
「まあね」
「珍しいね、代金取るなんて」
「お言葉に甘えただけだよ。言うならチップかな」
「そっか。じゃあ、サファイアでも買おっかなぁー」
天馬が見ているテレビにふと目をやる。ニュースがやっていた。1人の女子高生が、学校で同級生の頭を金属バットで殴ったというもの。当然名前も顔も出ない。だが、金属バットは知らない人から貰ったとか、悪い奴を懲らしめる為なら、それは暴力とは呼ばないと証言してるとか、きっとそれは、いや確実に明花ちゃんの事だろう。明花ちゃんの証言やらに、スタジオのコメンテーター達は家庭環境が招く心の闇だとか、明花ちゃんを世間一般から外れた思想の持ち主だとか、そんな事を話し込んでいく。
「天馬、ほい」
「あぁ、次の標的は?」
「まぁ立て続けにやんのも見つかるリスクが高くなるからな、真歩が勘づく前にちょっと休むかな。ゼッドはでかい組織だ、焦っちゃだめよってこった」
翌日の午前10時頃、剣一はイズミに居た。決まってはないが、店に入ってすぐ右手にあるいつもの窓際の席。ただ時間が流れていく中、ドアの鈴が鳴った。いらっしゃいませとキョウコが声をかける。ふとその客に目をやると、その客も俺を見ていた。それは明花だった。
駐車場の車で、再び明花と2人きり。明花は何やら腑に落ちないような顔をしていた。
「何かさ、逮捕、されなかった」
「へぇ、良かったじゃん。逮捕されないってのは、事件そのものが軽微なものの上で、被害者も加害者も証言が食い違ってないからだったり、加害者が逃げなかったりっていう場合だけど。明花ちゃんは未成年だし初犯だしってのも考慮されたのかな」
「あいつが、イジメた事謝ってくるなんて思わなかった」
「ほらね、明花ちゃんの事、弱いって勘違いしてただけなんだよ。仕返しが来るって分かっててイジメる奴なんか居ないんだよね。父親は、何か言ってた?」
1日前、事件当時。とある高校にパトカーが入り、少しの騒ぎが起こり、そしてそんな騒ぎが収まった後。明花は父親と2人で警察署を後にし、家へと帰った。終始黙っていたお父さんは落着感からかそこでやっと口を開いた。
「ごめんな。こんな、家庭環境で」
「・・・ほんとだよ。刑務所に入れば、アル中も治ると思ったのに」
「・・・へ?・・・お前、アル中だったのか?」
「何でよ!お父さんでしょ?」
「何で、お父さんがアル中なんだ?」
「はぁっ?あれがアル中じゃなかったら何よ!お父さんがアル中だから、あたしが刑務所に入れば反省すると思って」
一瞬の静寂の後、お父さんは大笑いした。
「アッハッハッハ。お、お父さんは、アル中なんかじゃない、ただの酒豪だよ」
「・・・はぁ?そ、そういうのを現実逃避って言うんでしょ?」
しかし途端に神妙な顔を浮かべると、お父さんは優しい眼差しで、あたしの頭に手を乗せてきた。
「いや、ごめんな。お前がそんなにストレス感じてたなんて、知らなかった。これからは、少しお酒少なくするから、な?」
明花は静寂に満ちた車の中でため息をついた。まるで、あたしがバカみたいじゃん。
「別に。でも、あたし、自主退学するの」
「え?・・・そっか」
「法律、勉強するから」
「マジ?本気にしてくれたんだ」
「何かさ、本当の覚悟って、凄いパワーがあるって分かったら、何となく頑張れそうな気がしてきたんだ」
そう言って、明花は照れ臭そうに、だが満足げに笑顔を咲かせた。
「未来の為に、花は散る」
読んで頂きありがとうございました。
いじめに関しての、個人的見解だと思って頂ければ(笑)
でも冗談でもないので、どこかの誰かの何かを考えるきっかけになれればいいなぁと。