恋と機械のスーサイド
一緒に死のうか。私は言った。いつも話しているような、毒にも薬にもならない論議の延長のように。
一年と半年前の冬の日、私は彼に出会った。彼は寝具に横たわって、薄く瞳を閉じていた。
「こんにちは。起きてる?」
「誰? 『僕』の友達?」
目を開けないままで、彼が聞いた。私は答える。そうなれたらいいなと思ってるよ。そこでようやく彼が目を開ける。真っ黒の瞳が私を映してパチパチと瞬く。
「おはよう。私はユラ。よろしくね」
それが私と彼の、ファーストコンタクトだった。
午後二時、彼のいる病室を訪れる。今日はいつもより少し遅い訪問。案の定彼は起きていて、読書をしていた。今日も今日とて真っ白な室内で、彼の着ている病衣のくすんだ水色だけが浮いている。
彼がこちらに気付き、ページをめくる手を止めた。
「おはよう」
私から声をかける。外で降りしきる雨に負けないように、少し大きな声で。
「おはよう。今日も暑いね」
言われて、視界の隅の温湿度計を見る。驚いた、去年よりもかなり高い。温暖化って本当なのね。
「梅雨も明けたと思ったのにね、湿気もすごいんじゃない?」
私にはわからないけど、と付け足す。人間と同じ外見でも、さすがに五感全部が同じようにはいかない。人間の持つ繊細な皮膚感覚は、機械に持たせるには使用容量が大きすぎるから。
「うん。じめじめして、空気が澱んでる。まいったな。最後の最後がこんな日なんて」
本をサイドテーブルに置いて、彼がちらりと窓の外を見た。嘘ばっかり。晴天だと意味がないでしょうに。
「まあね。……少し、話そうか。時間はまだあるから」
いいよ。私は答えてパイプ椅子に腰を下ろした。何を話そう。今まで沢山のことを話してきたけど、今日はその最後だ。私も彼も、今日で終わる。
「何か、いつもと違うような、真剣な話でもしようか?」
私の考えを見透かしたようなタイミングで彼が言った。真剣な話。その響きにくすりと笑う。
私たちが真剣な話なんて、なんだか似合わないね。
「確かに。今まで何を話したんだっけ? 全然覚えてない」
たいした話はしてないからね。私のメモリには全て記憶されているけれど、ここでもう一度議題に挙げるようなものはない。
「本当に、できるの?」
気の紛れるような他愛ない話題を探していたみたいだけど、彼がポツリとこぼした確認の言葉は、これ以上ないくらいに核心を突いたものだった。
「あったりまえじゃない。私はおんぼろだけど、自分のエネルギー計算を間違えるほどのポンコツじゃないよ。見くびらないで」
そう、全部計算通り。今日のためにずっと前から充電量をコントロールしてきた。私は今日、間違いなくバッテリー切れで機能停止する。
「雨でよかったよ。晴れたらまたやり直しだった」
太陽光を浴びると、自動でシステムが作動して勝手に発電を開始してしまうから。無駄に高性能に作られた私は、太陽光発電に加えて自己修復機能まで備えている。こればかりはアンインストールすることもハッキングして停止させることもできなかったから、万が一晴天なら計画は全ておじゃんになるところだった。
唯一懸念していた事態が起こらなかったことに、思考回路に波が走る。この感情は『安心』だ。
「もう何度も失敗してるだろ。今日は運が良かったんだ」
彼がからかってくる。
仕方ないじゃない、流石に天気までどうこうするのはできないわよ。ガイノイドは猫型ロボットじゃないんだから。
そう言ったら、キョトンとした顔をされた。そっか、彼にはわからないんだ。真っ青の猫型ロボット。百年前に最終回を迎えたアニメ。漫画もあったらしいけど、そこまでは知らない。
「ううん、なんでもない。気にしないで。それより、君の方こそ大丈夫なの? 人格の消滅なんて、薬で強制されるものなんだし。自分から消えることなんてできるの?」
「もちろん。もともと必死で薬に抵抗してたから、今まで残ってたんだし。ここらで消えようと思ったら、実行に移すのは簡単だよ」
なんでもないような顔で語る彼。それが本当かどうか、機械の私に確かめる術はない。いや、人間でも無理かな。彼は特別で、異常だから。
入院しているのだから、当然彼も患者だ。そしてその言い方は、正確には少し違う。彼が治るためじゃなく、彼を治すために入院しているのだ。つまり彼こそが病気で、治療すべき腫瘍。
解離性同一性障害、というらしい。いわゆる多重人格。『オリジナル』と呼ばれる基本人格の体に、いくつもの二次的人格が宿る神経病。
彼の場合の要因は、幼少期に母親から虐待を受けていたこと。最初はもっとたくさんの二次的人格があったみたいだけど、服薬してる薬のせいで、今はもう、彼とオリジナルしか残ってない。
それも父親が大枚叩いた甲斐あってか、かなり効果がきついらしく、消されないように抗うのは大変だと言っていた。
「ここまできて自分の失敗は全然想定してないんだから、二人ともうぬぼれ屋だよな」
彼が笑った。失礼な、君のは油断禁物だけど、私のはちゃんとコンピュータで計算したんだからミスなんてないよ。
「はいはい。――ユラ、」
今日初めて、彼に名前を呼ばれた。なあに。返事をする。
「いいの?」
何が、と問い返せば、「今日、死んでも、いいの」と強く問い返される。どこか申し訳なさそうに下がった眉。だけど、目だけは私を射るように見つめている。ああ、まだ気にしてたのね。
「いいもなにも、提案したのは私だよ」
一緒に死のうか。
二ヶ月前に、私が持ちかけた計画。彼と私、病気と機械の、いびつな心中。
「君が頷いてくれたから、私はここまできたんだよ。今更迷うなんて、そんなのなしだ」
わずかに非難する色を載せて言う。
(私は少しも迷ってないんだから、君にも迷って欲しくない)
自分勝手な我が儘。人工知能にもこんな感情があるのね。私を作った科学者たちは、全く、嫌になるくらい優秀だったみたい。繊細なセンサーが思考回路に伝えられた『苛立ち』を感知して、伝えてくる。
それに気づいて彼が「ごめん」と謝った。いいよ。こんな小さな事を気にするなんて馬鹿らしい。時間は本当に、あと少ししか残ってないんだから。
それより。
「君こそ、いいの?」
必死に抗えば、もう少し生きられるだろう。それをやめて、消えてしまうことに、躊躇いはないのか。欲を言えば躊躇って欲しくはないけれど、それでも気になってはいた。
「――僕は」
しばらく考え込んで、彼が話し始めた。
「僕は、元々母親の虐待に耐え切れなくなったオリジナルの、逃げ道として作られたんだ。オリジナルは僕に虐待の記憶を押し付けて自分を守った。だから虐待の記憶を持っていることが僕の存在意義で、それ以外は何もなかった。もちろん、入院してからも、ずっと」
それは前にも一度聞いた話だったけれど、私は聴覚機能を作動させたままでいた。だけど、と彼が続ける。
「僕は、ユラに会った。オリジナルの知らない君に。その記憶は僕だけのものだ。僕が死んだらこの記憶は全部消える。オリジナルの知らないところで、跡形もなく。だからいいんだよ。これだけは譲りたくないから」
――僕に全部押し付けた臆病者には、絶対に。
彼が凄む声を、初めて聞いた。その意味を理解した途端、回路のどこかでパチンと弾けるような音がする。嬉しい。彼が怒っているのを聞いてこんなにも喜ぶ私の感情回路は、やっぱりどこかおかしいんだろう。
本当にポンコツね。
彼が、私の記憶を独り占めしたいと言っている。それだけのことがとても嬉しい。
「ねえ、死ぬってなんだろう」
プログラムも正常値に戻り、落ち着きを取り戻すと、彼がそう尋ねてきた。どういうこと? 私は問い返す。
「僕らは普通の動物じゃないだろ。かたや病気で、かたやロボット。だから、じゃあ、僕らにとっての『死』の定義はなんだろうって」
今から死のうという身だけど、そんなの考えたこともなかった。死。死ぬこと。なんだか哲学的で詩的ね。機械と病気がそれを話して、定義しようとするなんて。シュールレアリズム、ミロの絵画みたい。
「私にとっての死は、多分この身が破壊されることかな。バッテリーが切れたくらいじゃ、データの復元は簡単にできるから」
だから今回の計画でも、私はデータと身体を徹底的に破壊する必要がある。絶対に復元できないように、もう誰にも起こされないように。
「そういえばユラは、先の大戦の生き残りだって言ってたよな」
うん、言ったね。第四次世界大戦の、敗戦国から逃げてきた裏切り者のロボット。それが私だって。
「あれは、怖いものだったよ。私は機械だけど、それでも怖いと思った。殺し合いも、それを受け入れる私の戦闘プログラムも」
逆らえない指揮官の命令。勝利の見えない戦争と、仲間の姿が見えなくなっていく戦場。
全てが異常で異様で、バグじゃないかと思うくらいに凄絶に、こちらを圧倒する。
そこは薬品と鉄の匂いで満ちていた。飛び散る部品と血のように滴る油。破損部を無理に修復しようとして、あちこちで壊れたロボットの身体から火花が散る。
炎天下の昼は頭上を彼此の戦闘機が飛び交い、真っ暗な夜は暗視スコープを作動させた私たちが戦場へ出る。戦場に立つのは命を持たない機械だけで、だけど確かに私たちは殺し合っていた。
死にたくない、生きたいと言ったのは、何だったろう。敵か味方かも朧げなそれは、きっと私が見捨てたモノだった。
「なんとか逃げてきたけど、時々それを思い出しそうになるよ。人間だったら死んでしまうような傷も、強引に直されてまた戦場送り。その繰り返しで、何度思考機能がショートしそうになったことか。人間で言うところの、発狂寸前ね。私が人間だったら、君と同じ病気になってたかもしれない」
言いながら、メモリに刻まれた記憶がカメラモニタを覆いそうになるのを、プログラムをハッキングすることでどうにか止める。いやだ、見たくない。あれは、私が不幸だったときの記憶だ。
「ユラ?」
気づかないうちに、表情を作ることを忘れていたみたい。彼が心配そうに声をかけてくる。
「平気よ。バッテリー残量もかなり底をついてきたから、処理に時間がかかってるかもしれないけど。大丈夫、まだいける」
そう言って笑ってみせると、彼はほっとしたように笑い返してきた。だけど、本当にバッテリーも尽きてきた。
私は、彼に最後の質問をする。
「君は、今まで生きてきたことを、不幸だと思う?」
最初の記憶は母親から虐待を受けていたことで、そのあともいいことなんてほとんどないまま、たった数年しか生きられずに死んでしまう。その人生を、不幸だと思う?
長い沈黙。
息の詰まるような間が病室を満たして、ザァザァと窓を叩く雨の音だけが響く。
「――僕は、多分不幸だよ」
やがて、彼が言った。その答えに、回路に一際大きな波が立つ。名前のないその波は、初めての反応だったけれど、私はそれを知っていた。
これは動揺だ。私は、彼の答えに動揺している。きっと意識のどこかで、彼が幸せだと言ってくれるのを期待していたんだろう。
(馬鹿みたい。私に出会えたから幸せだなんて、そんな言葉を期待してたなんて、本当に愚かしい)
この機械の心臓は、本当に人間そっくりにできていて、時々腹が立つ。
と、
「でも、それを悲しいとは思わない」
その一言が、強く胸に響いた。
「僕が生まれた経緯は、紛れもなく不幸だと思う。だけど、それを悲しいと思ったことは、一度もないよ」
腹が立ったことなら、何度もあるけどね。
茶化すように付け加えられた言葉に、くすりと笑う。
「悲観してもどうにもならないことだったし、ユラにも会えた。だから、僕は悲しくないんだ。最初から最後まで不幸な人生だったけど、僕は満足だよ」
「――!」
嬉しさが言葉にならなくて、思考回路が焼き付くほどの感情のスパークが起こる。制御しきれない感情に反応して、モニタを膨大な数のエラー表示と警告文が埋め尽くす。私はそれを表示された端から片して、その合間に、なんとか返事をした。
「私も、楽しかったよ」
限界ギリギリの処理速度でメッセージをキャンセルしていたら、あっという間に残りのバッテリーが半減した。残念だけど、もう終わりみたい。私は座っていたパイプ椅子から立ち上がって、窓に近づく。彼も、察したように笑みを消した。
「もう、おしまい?」
うん。
鍵をあけて、カラカラと窓を開く。途端に大粒の雨が入ってきて、病室の床を濡らした。ここから飛び降りて地面に叩きつけられれば、私のカラダもひしゃげて粉々になってくれるだろう。地上十五階建ての病棟。私の国にはなかった近未来センス。……まあ、私の国にこれがなかったのは、戦争でどのみち全部崩れちゃうからだけど。
私はサッシに腰掛けて、彼に手を伸ばした。
「なんなら、一緒に飛び降りる?」
もちろん冗談。建前を言うなら、彼のオリジナルは財閥の長男で、跡継ぎだから。彼が死んだら、それこそ上を下への大騒ぎになる。
本音を言うなら、私たちの心中に、誰も関わって欲しくなかったから。
誰に知られることもない、二人きりの密やかな情死。そんなものに憧れたなんて、恥ずかしくて到底口にできないけど。
それでも誘いをかけたのは、私の中の未練を断ち切るためだった。まだ生きようとする生存ルーチンを拒むための、演出の一つ。
バッテリー残量表示が点滅を始めた。今にもスタートしそうなルーチンにハッキングをかけて、必死にプログラムをブロックし続ける。ダメだよ、私が死ぬ邪魔をしちゃ。
私は、彼と一緒に死ぬんだから。
「僕は、君より先にいくよ」
眉を下げて笑う彼。それでも眼差しは鋭い。ああ、そうだ。私ね、君のその目がすごく好きだったんだよ。
「飛び降りてやれなくてごめん」
やめてよ、本当に冗談なんだってば。ほら、私が見てるうちに、早くしたら?
「うん。――おやすみ、ユラ」
おやすみなさい。
彼が、ゆっくりと瞼を閉じた。それが最後。
しばらくして、安らかな寝息が聞こえてくる。本当に安らかで、まるで死んでいるように静かな呼吸音が。
もう彼はいないのだと、ふと実感した。雨の音だけが騒がしい空間で、一人ぼっちなんだと思った。煌々と輝く蛍光灯の下で眠る人は、もう彼じゃない。
彼は、死んだ。
私たちは不幸な二人だった。より正確を期すなら一人と一体。現実を拒んだ少年に作られた一人と、戦争のために量産された中で唯一生き残った一体。出会った頃にはもう不幸のどん底に落ちていて、その邂逅は傷の舐めあいのようだった。
(だけど、私は満ち足りてたわ)
置かれた境遇は不幸だったけれど、一度もそれを悲しいとは思わなかった。私たちの不幸はきっと、幸せに良く似た色をしていたから。
雨足が一層強さを増してきた。視界にノイズが走る。私も、そろそろかな。
最後に彼を一瞥して、ずっと伝えないままでいた、ありったけの想いを吐いた。
大好きだったよ、君。
人工声帯がごく僅かに震える。耳の奥で響く機械音にかき消されて、発した言葉は聞こえなかった。もしかしたら発せていなかったのかもしれない。でもいいの。どうせもう誰も聞いていない、独り言と同じなんだから。
全てのプログラムにメッセージが出される。
【バッテリーが不足。ガイノイド『ユラ』の全プログラムを停止します】
【バッテリーが不足。ガイノイド『ユラ』の全プログラムを停止します】
【バッテリーが不足。ガイノイド『ユラ』の全プログラムを停止します】
【バッテリーが不足。ガイノイド『ユラ』の全プログラムを停止します】
【バッテリーが不足。ガイノイド『ユラ』の全プログラムを停止します】
【バッテリーが不足。ガイノイド『ユラ』の全プログラムを停止します】
カラダに力が入らない。サッシの上でバランスが取れず、ぐらりと後ろに倒れた。抵抗するエネルギーのない私は、そのまま窓の外へと落下する。落ちるのは初めての体験だったけれど、想定していたよりもずっと不安定な感覚があった。
足場のない空宙では、重力の存在が強く意識される。
生まれて初めて感じた、自分の身体の重さ。私が生きていた事実。
視界がブラックアウトしてもう何も見えない。ただ雨の音がうるさくて、耳を塞ぎたいと思った。
頬を幾筋もの水が伝う感覚。ひどく温かなそれは、少しだけ人の涙に似ていた。