物書く賢者と風の精霊
【淡い光が、そっと差し込む。悠久を思わせる深い森。巨樹が並び葉を茂らせ、そこへ陽光が落ちるのだ。深く重なり合う葉と葉のわずかな間。その小さな隙間から顔をのぞかせた光は、木漏れ日と呼ばれる。いくつもの光の筋が地面へと降りそそぐ様は、薄暗い曇り空からもたらされる、雲海割りの光臨光に似ていた――】
そこで、そっと紙からペンが離れた。紙には縦線が刻まれており、そこへ先の文章が縦にさらりと並んでいる。書かれた文字の色は、普通の黒。白い紙と正反対のその色は、丁寧な字形と合わさることによって、通常よりも落ち着いた映えを見せていた。
コトリ、と音が響く。ペンが机の上に置かれた音だ。その他の音は、今のこの部屋にはわずかな息遣いがあるのみ。自然な無音ではなく、つくられた静寂。その沈黙が、ふっと吐かれた吐息によって、小さな喧騒へとうって変わった。
チチチチチ、さわさわさわ、サアァァァ――と、様々な音が彼の耳に入ってくる。それらは、ひとつは小鳥、ひとつは葉擦れ、ひとつはそよ風、と一種類に留まることなく、その部屋の外からやってくる。では、部屋の中には舞い戻ってきた音は存在しないかと言われれば、そうでもない。
シャ――ススス――ペロシャ、と言う音は、彼以外にこの部屋にいた存在が、自らが読みふける本のページをめくる音である。不規則にもたらされるその音に重なり、彼自身の衣擦れの音と、木と木が擦れる音が新たに生まれた。理由はいたって単純で、彼が今まで座っていたイスから立ち上がっただけなのだが。しかし、それに伴い、ふとページをめくる音が止んだ。どうしたのかと巡らせた彼の視線の先には、彼を見つめる、煌く銀色の瞳があった。
『出かけるの?』
ふわり、と癒される、少女の声がそう問いかける。同時に小首をかしげる様は、十四歳ほどに見える少女らしく、実に愛らしい。ただ、そのふわふわとカーブを描く銀色の長髪が、今は窓や扉を閉めきっているこの部屋で、彼女の動作と関係なく揺れる様子は、彼女が普通の少女ではないことを示していた。
「あぁ。――今回は、《神獣の森》へ行ってみようと思うのだけど……構わないかな? リネステ」
事実、彼女――Linesuteは、本来〝彼女〟と表現することさえも不相応である、精霊と呼ばれる存在であった。リネステ専用につくられたのであろう、小さめの木のイスからふわっと降り立つその周囲には、穏やかなそよ風が舞い、華奢な身を包む白い子供用のドレスをわずかにはためかせている。精霊言語で〝休息の歌〟を意味するその名の通り、安らぎの風をまとい、無邪気な笑みを見せるその姿は、美少女と言って過言ではない。
ところで、そのリネステへと小さく微笑む彼もまた、目を見張る美貌の持ち主であった。
無造作ながらも綺麗に首元で揺れている、淡い蒼にも似た白銀の髪。小さな微笑みをたたえる中性的なその美貌には、深く澄んだ湖を思わせる淡藍の瞳が、穏やかに瞬いている。色白で細身の身体を、白を基調とし、青の模様や水色の飾り布で装飾したローブにて包む様は、どこか優雅さをかもしだしていた。先のリネステへと紡がれた、成人したばかりの若い青年らしい爽やかな美声もまた、彼の魅力の一つだろう。通常の黒色とは正反対なものの、ローブを身につけているということは、彼が魔法使いであるという証だ。そしてその証は必然、彼らが住むこの場所が魔法という力によってなされていることをも表していた。
壁や床がすべて古き木で出来ているこの部屋は、木造の館の中の一部屋である。館の外では樹々や花々が緑豊かに館の周囲を彩り、館自体もただ木の表面を見せているのではなく、保護色とでも言うべきか、所々にツタや花が装飾を施しているため、自然とその場に馴染んでいた。古き森の館、と称することは、その館に流れた時間相応としては正しい。
ただ一つ、その地が、通常の大陸よりも上空にあることをのぞけば。
浮遊陸地、とそう語るものが少なくないその地は、円形の陸地が正しく空へと浮き上がり、とある王国の王都、その少し外れにて浮かび続けている、まさに魔法がかかった場所であった。
当然、このようなことは普通ならばできない。通常の強いと語られるだけの魔法使い程度ではできない芸当をして見せているところに、この館の主人である彼の強さが垣間見える。加えて、一般的に人族である人間とは行動を共にしないはずの精霊リネステがそばにあるということもまた、彼が普通ではないことに拍車をかけていた。
もっとも、若い青年に見える彼の実年齢がすでに五百を超えているという時点で、そもそも普通とはかけ離れているのだが。
『もちろんいいわ、アルフィス! 行きましょう?』
実のところ、その幼く愛らしい美貌に満面の笑みを咲かせ、ふわりと浮き上がって見せるリネステもまた、人型を取り、更に言葉をも操ることのできるほどの実力ある精霊、つまり上級精霊であるのだから、アルフィスと呼ばれた彼が一体何者であるのかはともかくとして、その実力はもはや考えるまでもない。
「よし」
そう、たんに小さなうなずきと共に発せられた穏やかな言葉でさえ、背景の実力を知ってしまえば、魔法の発動なのではと疑う者も少なくはないだろう。現に、聡い者ならこう口にする。
すなわち――《賢者》と。
そして、この浮遊陸地の眼下。己が名をレルーヴァ王国と名乗るその国は、その呼び方が真に正しいことを知っていた。
他国より〝宝石の国〟と呼ばれるその国において、アルフィスは正しく、建国に関わった《賢者》と呼ばれる存在なのである。元々は名も無き村の一青年であった初代レルーヴァ王の隣に立ち、襲いくる近隣の国からこの地を護りぬいて王と共に国を建てたその偉業は、世界に認められるほどの存在ではなくとも、一つの国が誇るには値する。幼い子供でさえ創国記の御伽噺にて名を覚えるその魔法使いアルフィスを、レルーヴァの民はこう語る。我らレルーヴァのもう一つの宝石。《蒼白銀晶の賢者》、と。
また、他国の者たちはこう呼び語る。すなわち、宝石の国の銀宝石、と。
金の王家、銀の賢者。国の始まり、その当初よりそう呼ばれてきた伝統は、今もなお、途切れることなく続いている。
そして今、その永続性は、アルフィスとリネステの生活にも、共通していた。
トコトコと音を立てて歩くリネステが自身の側へと寄ってきたのを確認したアルフィスは、一つの魔法を発動する。足元からすぅ――と巨大化して広がったのは、内に文字が描かれた輪、魔法陣であった。青色に輝くその円は、自身の内側に立つものを彼方へと移動させる、転送の魔法を宿している。
「行こうか」
『はーい!』
穏やかな期待と、華やかな好奇心。美貌の青年魔法使いと、風をまとう人型の上級精霊の小旅行は、いつもこうして幕を上げるのだ。
続きが読みたい方とか、いらっしゃるんだろうか……?