第三幕 俺の名は
早朝、二匹が並んで歩いている。ギンとカイジだ。
ギンは響子が学校へ行くのを見送るとカイジの家に向かった。
目的の設計事務所は隣街にある。だがそこへ行くということは他の縄張りに入るということで、一匹で行くには危険があった。
そのため、誰かを一緒に連れて行くと昨夜のうちに決めていた。
とりあえず二匹いればどちらかに何かあっても、もう片方が仲間の元に走ればいいと考えたからだ。
「危険だからってギンの兄貴が俺を頼ってくれるなんて光栄ッス」
歩きながらカイジが目を細めて言ってきた。
カイジは白い毛並みだが、左目の周りだけ黒い。
そのせいか妙に間抜けに見える。
カイジを誘ったのは単純な理由だった。
誘いに行ったときに確実に家にいると分かっていたからだ。
誘う相手に会えないんじゃ元も子もない。
その点カイジはタマキに外出禁止令を出されていたため、家にいないという心配はなかった。
それに短い説明で納得してくれる『単純ところ』もカイジを選んだ理由だ。
頼られたと思い込んで嬉々とするカイジを横目で見て、ギンはそれをいちいち否定するのは止めた。
幸せな勘違いならさせておいた方が良い。
「外出禁止のときに悪いな」
「平気ッスよ。タマの親分だってギンの兄貴に頼られたっていうなら文句は言わないッスよ」
「でも今度はなんで外出禁止を食らったんだ?」
そうギンが聞くとカイジはバツの悪そうな顔をした。
「いやぁ……夜な夜な家を抜け出してたら家のママさんがね、どこぞの雌に会いに行ってると疑いまして……それで心配して去勢しようかとパパさんと話し合ってたんで、しばらく外に出るのを控えたいから緊急集会に出れないって言ったんです。そうしたら……」
カイジはそう言って頭を低くし、上目遣いにギンを見た。
「それでタマキの怒りをかったのか」
ギンは呆れてカイジを見ると、カイジは「へへへ……」と笑って前足で頭をポリポリと掻いた。
「で、実際は夜な夜などこへ出かけてたんだ?」
「いや、実際に雌のとこに行ってたッス。でへへ」
「……」
ギンはそれ以上聞くのを止めた。
隣街へ伸びる橋へ差し掛かると二匹は一度歩みを止めた。
「この橋を渡ったらほかの縄張りッスね」
カイジが鼻をヒクヒクさせながら言う。
「あぁ、隣街のやつらに出くわしても無視しろよ」
「うぃッス。……そういやその設計事務所とやらの場所は分かるんですか?」
「それはまかせておけ」
設計事務所の場所はタスケから昨夜聞いておいた。
タスケは情報収集には長けていて、新しい話ならまずタスケの知らないことはない。
そもそも設計事務所で世話になっているらしいタマキの旧友が情報の発信源なのだから、タマキに聞くのが一番てっとり早かったが、それはしなかった。
設計事務所に偵察に行くと決めたのが昨日の今日ということで、時間がなかったということももちろん理由としてはあった。
しかしそれよりもタマキに聞いて「無茶をするな」と止められる恐れがあったから…と、いうほうが理由としては強かった。
それでもタスケの情報網は見事なもので、設計事務所の場所を確定するだけなら十分な情報をすでに持っていた。
「うえっ」
橋を越えるとカイジが顔をしかめた。
急激に匂いが変わったからだ。
それは他の縄張りに入ったことを意味する。
その変化にギンに緊張が走る。
その時、ギンの視線の端でなにかが動いた。
ギンがその方向を見ると一匹走り去って行く後姿が見える。
ギンたちが橋を越えたのを見て、見張り役がその報告に行ったようだ。
「出来るだけ急いで用事を済ませたほうが良さそうだ」
ギンがそう言うとカイジが無言で頷く。
二匹はギンを先頭に走りだした。
「う〜む……」
タマキはタスケの話を聞いて、茶色のトラ柄をした大きな身体を震わせて低く唸った。
設計屋がすでに仕事に入っているという話よりも、ギンが隣街に向かったというほうがタマキには問題だった。
「まったく若いやつは無茶をする」
そう言ってタマキかじろりとタスケを睨む。
「あのぉ……やっぱり止めた方が良かったでしょうか?」
タスケが身を小さくして上目遣いに聞いた。
「おまえが止めてもきっと行ったさ」
その言葉を聞いてタスケはホっと胸をなで下ろす。
「でしょうね。そもそもギンは元野良だから協調性に欠けるんですよ」
タスケはそう言うと「あっ、もちろんタマの親分は別ですけど」と慌てて付け加える。
タマキも元野良だ。
「とにかくあの街は危険だ。この街とは違って派閥がいくつもあるせいで縄張り意識がかなり強い。だから勝手な進入者を絶対許さない」
タマキはそう言うと、隣にいる子分に何か耳打ちをする。
子分は頷くとくるりと向きを変え走り去って行った。
「無事だといいが……」
タマキはそう呟くと隣街の方角の空を見た。
何を見てるか分からなかったがタスケも一応同じ方角を見た。
「無事に着きましたね」
設計事務所の前まで来てカイジがゼイゼイ息を荒げながら安堵の声を漏らす。
たどり着くまでに三度絡まれ、二度ほど有無を言わさず襲われた。
そのどれも無視してひたすら走り抜いてやり過ごした。
「それにしても…無茶なやつが多い…街ッスね」
カイジが必死に呼吸を整えている。
「で、これからどうしましょう?」
一度ゴクリと唾を飲み込むと、ギンを見て訊ねる。
ギンは目の前に立つ建物を見上げ、人はいるか?開いてる窓はないか?それらを注意深く観察したが、そのどちらも期待通りとはいかないようだった。
今後のことを考え込んだほんの数秒後、後方からの声で2匹の身体がビクッと跳ね上がった。
「ここにいたぞ」
塀の上から叫んでるやつがいる。
考え込んでいるうちに周囲の気配から気がそれてしまっていた。
ただぼーっと突っ立ているだけだったカイジに文句の一つも言いたかったが、そんなヒマも無いうちに周りを囲まれてしまった。
数で七、八匹…カイジだけでもなんとか逃がすか…
ギンはそう考えたが、塀を背にして囲まれているためにそれすら難しそうだ。
頭を低くし、腰を上げてしばらく睨み合っていると左前方の二匹がスっと道を開けた。
その間から灰色の毛並みに黒のトラ柄のある猫が現れて、悠然とギンたちに歩み寄ってくる。
目つきはかなり鋭い。
「いかにも悪そうなやつッスねぇ」
カイジがギンに耳打ちする。
「おまえたちか?俺たちの縄張りに勝手に入ってきてるのは」
目つきの悪い猫が、少し顔を上げて見下ろすように言ってくる。
「カァー!!あぁいう見かたをするやつって自己陶酔型が多いッスよ」
カイジが小声で言って顔をしかめる。
「なんだ?口が利けないのか?それとも恐くて話すこともできないか?」
後半部分は仲間の方を振り返り言っている。
他のやつらがまるで事前練習していたように、一斉に同じ笑い方をした。
カイジの言ってることは普段あまりアテにはならないが、今回の分析だけは当たってそうだ。
「おまえたち隣街から来たんだろ?タマ一家か?」
一家という呼び方にギンは思わず吹き出しそうになる。
「おまえたちはなんだ?訊ねるときは自分から先に言え」
ギンは相手を睨みつけたまま答えた。
その台詞に、自己陶酔猫は一瞬不快な顔を見せたが、すぐに余裕の表情に戻る。
「フン、俺の名はリン。このあたりを仕切ってるキラ一家のNO2だ」
リンはのけぞって自信満々答えるが、どうしても一家という呼び方がギンには笑えてしまう。
「で、おまえたちはタマ一家か?」
リンの質問にギンは相手を小馬鹿にする顔を見せ
「俺たちはタマと愉快な仲間たちだよ」と返す。
その言葉にリンが、馬鹿にされたと気付いたようで顔を歪める。
「タマのとこのやつなら黙って返すわけにはいかねぇ。やっちまえ」
その言葉を合図に他の連中がギャ〜オと唸りながらさらに身を低く構えた。
「はわわわわ!!」
カイジが慌てたようにギンの後ろに隠れる。
リンの仲間が一斉に飛びかかろうとするそのとき……
「こっちよ!」
背にした塀、その一ブロック分に突然穴が開いた。
ギンは迷うことなく、自分の後ろにいたカイジの首筋をくわえ込むと、そのまま穴に飛び込みカイジを中へ引きずり込んだ。
目の前の出来事にリンたちは呆然と立ち尽くしていた。