第二幕 見知らぬ大人
「ただいまぁ」
玄関から聞こえた声に、ギンの耳がピクリと動く。
藤枝宅に二階。ギンはお気に入りの窓際でうたた寝をしていた。
ドタバタと階段を上ってくる響子の足音――響子は藤枝家の一人娘だ。
「ギンちゃん、ただいま!」
響子は勢い良くドアを開けると、ギンを抱き上げておでこにキスをする。響子が帰って来たときの通例行事だ。
気持ち良く寝てるところを起こされて少し不機嫌だったが、ギンはそんな素振りを見せずにとりあえず『ミャア』と甘えた声で鳴いておく。
それも通例行事に含まれているからだ。
「今日ね、淳ちゃんが面白かったの。公園でね――」
通例行事を済ませて荷物を机に置くと、響子は一日の出来事をギンに話始める。これもいつものことだ。
ちなみに、『淳ちゃん』とは響子の友達で、ラーメン屋の息子である淳平のことだ。
ギンは目を閉じ、ウンウンと頷きながらジっと話を聞いている。
響子は、ギンが話を理解していると、本気で思っているわけではないのかもしれない。
会話がしたいわけでも理解して欲しいわけでもなく、ただ話したいから話すだけだ。
それでもギンは響子に合わせ、人間の思い描く『猫』という生き物らしく、人間の言葉が分からないかのようにしながら、時折ニャアと鳴いて相槌を打ってやる。
一日の出来事を語りかけてくるのも、自分に対する響子の愛情からだと解釈しているからだ。
――『ナナシ』それが二年前までのギンの呼び名だった。
名前の由来は、野良猫で『名前がない』ことだ。
街から街を転々としていたが、この街を彷徨い響子に出会った。
響子はナナシに『ギン』という名前と住む場所を与えた。
始めは戸惑ったギンだが、いつの頃からか『響子の期待を裏切ることはしない』と思うようになっていた。
それは、もちろん感謝の気持ちからだ。
最近多い、家から出してもらえないような連中と違い、外出は自由だし食事も決まった時間にちゃんと出してくれる。
それだけでも十分であり、不満があるわけがない。ただ一つを除いては……
それは名前だ。
毛並みが銀色だからギン。
響子の安直なネーミングセンスだけはなんとかして欲しかったが、タマキのように洒落た名前を付けられながら、『タマ』と呼ばれているよりはまだマシだろうと思って諦めた。
響子のいつもと変わらぬ通例行事の中で、一箇所だけギンの興味を引く部分があった。
それは、淳平たちと公園で缶蹴りをしているとき、見たことがない大人が数人で、公園の隣にある空き地を何やら測っていというものだった。
その空き地こそ、昨夜の緊急集会で出た○×番地だ。
ギンは夕飯を済ませると、すぐさまタスケの住む五十嵐宅に向かった。
五十嵐宅は藤枝宅のすぐ近くで、タスケが仲間内でもっとも近くに住んでいるからだ。
五十嵐宅に着くと植え込みを潜り、音も無く庭の中へと進入する。
そこで何度か細く鳴くと、縁側の窓が開いて大人の女性が顔を出した。五十嵐家のママさんだ。
「あら、ギンちゃん?」
そう言ってしゃがんで手を出してきたので、その手に頬擦りをして挨拶をする。
すると、その女性の後ろから黒い毛並みの猫がスっと姿を現した。
ママさんは『タスケに会いに来たの? 仲良しねえ』と言って、窓を多少開けた状態にしたまま中へ戻っていった。
「何だよ、夕飯時にぃ」
と、タスケがうらめしそうに文句を言う。口の周りはまだ微かに汚れている。
ギンはタスケの抗議をとりあえず無視し、すぐに本題に入ることにした。
「どうやらタマキの情報は間違いないらしいぜ。今日、響子に聞いたんだが……」
そこまで言うと、タスケが後を引き継ぐように口を開いた。
「缶蹴りのときに、空き地で知らない大人が――だろ?」
「なんで知ってるんだ?」
「陽一が、帰りが遅くなった言い訳をママさんにしているとき、そのことを言ってたんだよ」
陽一は五十嵐家の次男だ。
「そうか、陽一も一緒に遊んでたんだな――」
ギンは合点のいったように頷く。
「なら話は早い。響子たちの話が本当なら、設計屋がすでに仕事に取り掛かっているってことだ」
「ああ、出来るだけ早く手を打った方が良さそうだな……」
そう言ったタスケは、前脚で顔を丁寧に掃除する。その様子に慌てた素振りはない。
ギンは明日の予定をタスケと決めると、我が家に帰るために再び植え込みへ向かった。
明日の予定とは、『タスケは明日このことをタマキに報告をしに行く』『ギンは問題の設計事務所に偵察に行く』という単純な物だ。
帰り際、植え込みをくぐろうとするギンに、タスケが声をかけた。
「おい、どうでも良いが、次からはちゃんと玄関から来いよ。そんな場所から忍び込んで来たら、まさに泥棒猫だぞ」
タスケはそう言ってさも愉快そうに笑い、ギンは深くうな垂れタメ息をついた……
つづく