「時間の無駄」と効率を重視する婚約者、ではこちらも切り捨てさせていただきます。
「――というわけだ、ルクレティア。週末の茶会への同行はキャンセルさせてもらう。今月の定例報告会は以上だ。次は来月の終わり頃に顔を合わせよう」
執務室の冷たい空気が、整えられた書類の音とともに引き締まった。
目の前に座る婚約者――アルフレッド・グレイス伯爵令息は、無駄のない動きで懐中時計をしまい、手元のスケジュール帳にペンを走らせる。
「……はい、アルフレッド様。お疲れ様でした」
私は微笑みを貼り付けながら、静かに頭を下げた。
アルフレッドは我が王国の次期宰相候補と謳われる、若き天才官僚である。
彼は日頃から無駄を嫌い、業務を効率化させてきたその手腕は政界でも評判だ。
だが、私――公爵令嬢ルクレティアに対する態度も、まったく同じ『必要最低限な事務的』なものだった。
私たち二人の婚約は、お互いの家柄の利益のために幼少期から決められていた。
アルフレッドにとって結婚とは『人生における義務的なプロジェクト』であり、私というパートナーはその共同運営者にすぎない。
そのため、彼との関係は極めて淡泊で事務的なものだった。
月に一度の『定例報告会』と称したお茶会。
世間体を保つための最低限の社交。
それ以外の一切の私的な交流は、アルフレッドによって「非効率」として切り捨てられ、恋人らしい事などしたことがない。
「おい、ルクレティア。そんなにじっと見つめてどうした? まさか、追加の交流を要求するつもりではないだろうな」
冷徹な灰色の瞳が、私を射抜く。
「……いえ、そんなことはございません」
「当然だ。我々はすでに婚約という契約を結んでいる。お互いの家門の安定という目的は、この必要最低限の交流で十分に達成されている。それ以上に私的な時間を割くことは、人生のリソースの無駄遣いだ。賢明な君なら理解できるはずだ」
アルフレッドはこともなげに言い放つ。
政略結婚に、本当の愛情を求めていたわけではない。
しかし、婚約者である私を『スケジュールを圧迫する非効率なノイズ』のように扱うその姿勢は、何度経験しても胸の奥を冷たい氷が滑るような不快感を伴った。
(――本当に、この男と一生を共にするのかしら?)
ふと、そんな疑問が頭をよぎる。
いいや、違う。
私は心の中で首を振った。
一生を共にする?
そんなもの、こちらから願い下げだ。
「アルフレッド様のお考え、深く理解いたしました」
私はこれまでにないほど穏やかな、そして一切の澱みのない笑みを浮かべてみせた。
アルフレッドは「話が早くて助かる」と満足げに鼻を鳴らし、次の公務のために足早に部屋を去っていった。
扉が閉まる音を聞きながら、私は静かに呟く。
「時間の無駄、か……。本当にその通りですね」
私は自分の手帳を開いた。
そこには、アルフレッドが知らない私のスケジュールが、着々と、そして完璧に書き込まれていた。
それから一ヶ月間、私は『プロジェクト・フリーダム(自由化計画)』を推進した。
まず、私の実家である公爵家を動かした。
「我が家とグレイス伯爵家の婚姻について、将来的なリスクを再評価すべきです」
父と母は私の突然の進言に驚いたが、私が提示した客観的なデータ――アルフレッドの極端な家父長制的な価値観、私に対するモラハラ気味の言動、そして何より『妻を人間扱いせず道具としか見なしていない証拠の数々』を見せると、激怒した。
「公爵家としての誇りにかけて、こんな無礼な男に愛娘をくれてやる必要はない」と父の決断は早かった。
次に、王家への根回しだ。
幸い、私は学園でも成績優秀な卒業者であり、王宮内にも多くの味方がいた。
婚約解消の調停に向けた根回しは、アルフレッドが気づかないうちに完璧に整えられていた。
そして、私の人生の次のステップ。
隣国からの密かな誘い――王立アカデミーからの特任研究員としての招聘。
私の専門である古代魔導言語の研究に没頭できる環境が、そこには待っていた。
アルフレッドと結婚していれば、彼の「妻は家の奥に引っ込んでいればいい」という方針のもと、研究など絶対にお蔵入りさせられていただろう。
すべては、準備万端だった。
そして迎えた、定例報告会。
私はいつも通り、しかしどこか晴れやかな顔をしてアルフレッドの執務室を訪れた。
「ルクレティア、時間通りだな。褒めてやろう」
アルフレッドは相変わらず机に向かったまま、顔も上げずに言った。
「では、本日のアジェンダに入る。来期の社交シーズンにおける我が家の動向だが……」
「アルフレッド様」
私は彼の言葉を遮った。
アルフレッドの手がピタリと止まり、不機嫌そうな視線が、私をとらえた。
「なんだ。私が話している途中に遮るなど、君らしくもない」
「申し訳ありません。ですが、本日は報告ではなく、私の方から最終決定事項をお伝えに参りました」
私は持参した一通の分厚い封筒を、コツコツと音を立てて机の上に置いた。
「……なんだ、それは?」
「『婚約解消およびそれに伴う諸権利の破棄に関する合意書』です。すでに我が公爵家の当主である父の署名、および王家への届け出の受理証も添付されております」
アルフレッドの表情が固まった。
灰色の瞳が大きく見開かれ、彼は封筒と私を交互に見据える。
「……は? 婚約解消? 君は何を言っているんだ。冗談にしては質が悪いぞ」
「冗談ではありません。極めて真面目な、効率的な判断です」
私は微笑みながら、彼の論理をそのまま綺麗にオウム返ししてやった。
「アルフレッド様にとって、私との交際や結婚生活は『人生のリソースの無駄遣い』であり、必要最低限以外の接触は『非効率』なのでしたわよね? でしたら、いっそ婚約そのものを解消してしまえば、アルフレッド様は私に割く時間すらゼロにできる。これ以上の効率化はありません」
「っ……! なんだと!?」
アルフレッドがガタッと椅子を蹴飛ばすように立ち上がった。
その顔には、先ほどまでの余裕や冷徹さは微塵もなく、ただただ困惑と、理解不能な事態に対する焦りが浮かんでいた。
「待て、ルクレティア! 一体どういうつもりだ!? 我々の婚約は家門同士の重要な取り決めだぞ! そんな勝手に……!」
「勝手ではありませんわ。あなた様が常々おっしゃっていたではありませんか。『無駄を削ぎ落とせ』と。『合理的に生きろ』と」
私は淡々と、しかし一言一言を突き刺すように続けた。
「私は気づいてしまったのです。あなたと一緒にいる未来こそが、私の人生において最も非効率で、最も生産性のない『時間の無駄』であると。だから、損切りすることにしました」
「そ、損切り……? 私を……?」
アルフレッドの声がわずかに震えた。
彼は優秀だった。
だからこそ、この状況が何を意味するのかを瞬時に理解してしまったのだ。
私がどれだけの根回しをし、どれほど完璧な手続きを踏んでこの場に立っているのかを。
「そんな馬鹿な……! 君は私に依存しているはずだ! 私以外の男に見向きもせず、私との交流を待ちわびて……」
「待ちわびて?」
私は思わず吹き出しそうになった。
「アルフレッド様、お間違えなく。私はただ月に一度の義務的な作業をこなしていただけです。あなたが私に関心を向けてこなかったように、私もあなたに一片の恋心すら抱いておりませんわ」
「なっ……!」
「それに、私は来月から隣国の王立アカデミーに赴任することが決まっております。そこでは私の研究が存分に活かせる。あなたのおかげで自分のキャリアに集中する決心がつきましたわ」
アルフレッドは顔面蒼白になり、机に手をついた。
「ま、待ってくれ、ルクレティア……! よく考え直せ! 確かに私は少し……いや、言葉足らずだったかもしれない! だが、結婚すれば、お互いに干渉し合わない理想的な夫婦になれると――」
「お断りします」
私は冷たく言い放った。
「あなたの言う『理想的な夫婦』とは、ただ形骸化した契約を押し付け、互いの心をすり減らすだけの牢獄ですわ。私はもっと、温かみのある、無駄話を笑い合えるような人生を送りたいのです。あなたとでは、それは一生不可能ですから」
「ルクレティア……!」
アルフレッドが手を伸ばしてきたが、私はそれをヒラリと躱し、背筋を伸ばしてドアノブに手をかけた。
「それではアルフレッド様。今後のあなたのスケジュールに私はもう存在しません。どうぞ、誰の邪魔も入らない、完璧で効率的な孤独の人生をご堪能くださいませ」
「待て! 行くな、ルクレティア――!」
パタン、と。
私を遮るものは何もない、軽やかな音とともに執務室の扉が閉まった。
数ヶ月後。
私は隣国の青空の下、王立アカデミーの広大な中庭を歩いていた。
風が心地よく、私の研究成果をまとめた論文は、現地の学者たちから高い評価を受けている。
毎日のように新しい発見があり、知的で温かい同僚たちとの議論が弾む。
そこには「時間の無駄」と切り捨てられる怯えも、冷たい孤独もなかった。
一方、噂によると――。
アルフレッドは、かつての私の完璧なサポートがごっそり失われたことで、公私のバランスを完全に崩したらしい。
定例報告会も、スケジュール管理も、彼を支える人間がいなくなった途端、彼の膨大な業務量は処理しきれなくなり、周囲からの信頼もガタ落ち。
焦った彼が私との復縁を求めて公爵家に押し掛けたものの、父によって門前払いを食らい、今や王宮の片隅で、誰とも目を合わさずにひたすら書類を処理するだけの『機械』に戻っているという。
「……まあ、自業自得ね」
私は空を見上げ、ふっと笑った。
無駄を嫌ったはずの男が選んだのは、人生の『最大の効率化』ではなく、意味のない『無駄な足掻き』だったのだから。
私は新しい未来に向かって、軽やかな足取りで歩き出した。
※この作品はaiちゃんとの共同作品です。




