王都の小さなパン屋には、毎朝一頭の竜がやってくる
王都セレスティアの朝は早い。
市場に野菜を運ぶ荷車が石だたみを走り、竜便の飛竜が空を横切り、通りの店々から少しずつ明かりがもれ始める。
そんな王都の南通りに、小さなパン屋があった。
店の名前は《麦の灯》。
店主は、二十九歳のマルク。
父から店を受けついで三年になる。
朝四時に起き、生地をこね、火を入れ、町が目を覚ますころには最初のパンを店先へ並べる。
毎日、ほとんど同じことのくり返しだった。
ただ一つ。
半年前から、朝だけ少し変わったことがある。
「……来たな」
店の外から、かりかりと扉をひっかく音がした。
マルクは焼き上がったパンを棚へ置き、扉を開ける。
そこには、一頭の竜が座っていた。
大きさは大型犬くらい。
赤茶色のうろこに、小さな翼。
頭には短い角が二本ある。
「おはよう、ポル」
「きゅる」
竜は短く鳴いた。
「今日も同じか?」
「きゅる」
「わかったよ」
マルクは店へ戻り、棚の下から小さな丸パンを一つ取った。
まだ少し温かい。
何もぬっていない、ごく普通のパンだ。
「熱いから気をつけろよ」
店先の皿へ置く。
ポルと呼ばれた小竜は、少し待ってからパンをくわえた。
そして、その場で食べ始める。
「毎日よくあきないな」
「きゅる」
「俺も毎日焼いてるから、人のことは言えないか」
マルクは笑った。
これが半年続いている。
最初にポルが来た日は、大雨だった。
朝、店の前で小さな物音がした。
扉を開けると、ぬれた子竜が軒下に丸くなっていた。
野生なのか、誰かに飼われているのかもわからない。
「おい、大丈夫か」
近づくと、子竜は弱々しく鳴いた。
お腹が減っているようだった。
竜に何を食べさせていいのか知らなかったので、マルクはとりあえず焼きそこねた丸パンを一つ置いた。
少し形が悪く、店には出せないものだった。
子竜はにおいをかぎ、おそるおそる食べた。
そして全部食べると、どこかへ走っていった。
それで終わりだと思っていた。
次の日の朝。
また来た。
三日目も。
四日目も。
いつの間にか、毎朝一つだけ丸パンを出すのが日課になった。
名前もないと不便なので、マルクが勝手にポルと名づけた。
本人が気に入っているかは、よくわからない。
「また来てる」
朝七時。
店を手伝っている妹のリナが、店先を見ながら言った。
二十三歳で、会計と接客を担当している。
「毎朝来るよ」
「知ってるけど、ずいぶん慣れたね」
ポルは店の横の日なたで丸くなっていた。
パンを食べ終わると、少しだけそこにいる。
客が増え始めるころには、いつもどこかへ帰っていく。
「看板竜にしたら?」
「勝手にしていいのか」
「本人に聞いてみたら」
マルクは店の外へ顔を出した。
「ポル。うちで働くか?」
「きゅる」
「だめだって」
「今のでわかったの?」
「なんとなく」
リナが笑う。
ちょうどそこへ、近所に住むおばあさんが入ってきた。
「あら、今日もいるのね」
「毎朝です」
「この子を見ると朝って感じがするわねえ」
おばあさんはポルへ手を振った。
ポルは顔だけ上げた。
「ほら。もう立派な店の一員じゃない」
「何も働いてないぞ」
「お客さんを呼んでるじゃない」
たしかに、子どもたちはポルを見たくて店へ寄るようになった。
ただし、勝手にさわらないようマルクが何度も注意している。
竜は人と共に暮らしている。
だからといって、全部の竜が人間の言うことを聞くわけではない。
ポルも、あくまで自分の意思でここへ来ているだけだ。
その日の昼。
見なれない男が店へ入ってきた。
きれいな服を着た、四十歳くらいの男だった。
「こちらが《麦の灯》ですか」
「はい」
マルクは頭を下げた。
「何をお求めですか?」
「パンではありません」
男は店の外を見た。
「ここへ、小型の赤い竜が来ていると聞きまして」
マルクとリナは顔を見合わせた。
「ポルのことですか」
「ポル?」
「俺が勝手につけた名前です」
男は少し驚いた顔をした。
「その竜を見せていただけますか」
「朝しか来ません」
「そうですか」
男は少し考えたあと、一枚の紙を出した。
そこには小さな竜の絵が描かれていた。
赤茶色のうろこ。
短い角。
小さな翼。
どう見てもポルだった。
「探しているんですか」
「ええ」
「飼い主ですか?」
「正確には違います」
男は名乗った。
名前はオルド。
王都の竜保護所で働いているという。
「その竜は、半年ほど前に保護所からいなくなった個体です」
「半年……」
ちょうどポルが店へ来るようになったころだった。
「逃げたんですか?」
「そうなります」
オルドは困ったように笑った。
「ただ、少し事情がありまして」
ポルは生まれてすぐ、王都の外で保護された。
親の姿は見つからなかった。
体も小さく、飛ぶこともできなかったため、保護所で育てられていた。
「人になつかなかったんです」
オルドは言った。
「え?」
「職員が近づくと逃げる。食事も人がいる間は食べない。ずっと部屋のすみで小さくなっていました」
「でも、うちには毎日来ますよ」
「だから驚いているんです」
半年ほど前。
王都をおそった大雨の日に、保護所の古い窓がこわれた。
その時、ポルが外へ出てしまった。
何度も探したが、見つからなかったという。
「生きていることは時々目撃されていたのでわかっていました。ですが、人を見るとすぐ逃げてしまって」
「それがパン屋には毎朝来ると」
「はい」
マルクは腕を組んだ。
「連れて帰るんですか?」
「本来なら、一度保護するべきです」
オルドはそう言った。
胸の奥が少し重くなった。
毎朝来るのが当たり前になっていた。
パンを食べて。
少し日なたで休んで。
気が向けばこちらを見る。
それだけの関係だ。
それでも、明日から来なくなると思うと、さびしかった。
「でも」
オルドが続けた。
「無理に連れて帰ることが、本当にこの子のためなのかは迷っています」
「どういうことです?」
「小型竜は、人間と暮らす個体もいれば、自分で居場所を選ぶ個体もいます」
竜は人間の持ち物ではない。
アステリアでは、それが当たり前だった。
「元気で、食べ物もあり、人へ危害を加えていない。本人がここを選んでいるのなら、その意思を大切にする方法もあります」
「じゃあ」
「明日の朝、私も来ます」
オルドは言った。
「その子自身に決めてもらいましょう」
次の日。
いつもの時間。
かりかり。
扉をひっかく音がした。
「来た」
マルクは扉を開ける。
「おはよう、ポル」
「きゅる」
いつも通りだった。
店の少し離れたところには、オルドが立っていた。
ポルが気づく。
体が固まった。
すぐには逃げなかった。
けれど、マルクの足元へ少し近づいた。
オルドはしゃがんだ。
「久しぶりだな」
ポルは何も言わない。
「迎えに来た」
手を差し出す。
ポルはその手を見る。
それから、マルクを見る。
「俺を見るなよ」
マルクは困った。
「お前が決めろ」
ポルは首をかしげた。
マルクはいつもの丸パンを皿へ置いた。
「ほら。朝飯」
ポルは食べ始めた。
オルドは待った。
パンを食べ終わるまで、何も言わなかった。
やがてポルは顔を上げた。
オルドを見る。
ゆっくり歩いていく。
「あ……」
マルクの口から声が出た。
ポルはオルドの前まで行った。
においをかぐ。
オルドがやさしく手を伸ばした。
しかし。
「きゅる」
ポルはくるりと向きを変えた。
マルクの店の前へ戻ってきた。
そして、いつもの場所へ座った。
「……そうか」
オルドは笑った。
「ここがいいんだな」
ポルは答えない。
けれど、逃げもしなかった。
オルドは立ち上がる。
「しばらく、このままにしましょう」
「いいんですか?」
「定期的に様子は見ます。病気になった時の連絡先も渡しておきます」
「それなら助かります」
「それと」
オルドは少し笑った。
「パンだけでは栄養が足りません」
「やっぱり?」
「やっぱりです」
リナが後ろで笑った。
それから《麦の灯》には、竜用の朝ごはんが一つ増えた。
小さな肉。
少しの野菜。
そして、最後に丸パンを一つ。
「パンは必要なんですか?」
リナが聞いた。
「こいつが一番楽しみにしてるからな」
「きゅる!」
「ほら」
マルクは笑う。
ポルは今でも毎朝やってくる。
店の中では寝ない。
客へ愛想を振りまくこともしない。
看板竜として働く気もないらしい。
ただパンを食べて、店の横で少し休み、好きな時にどこかへ帰っていく。
それだけだ。
けれど、王都の南通りを歩く人々は、朝になると自然に店の前を見るようになった。
「あ、今日はもう来てる」
「ポル、おはよう」
「きゅる」
竜と人が一緒に暮らすというのは、きっと大げさなことばかりではない。
同じ家に住むことでも。
契約を結ぶことでも。
背中に乗って空を飛ぶことでもない。
毎朝やってくる相手のために、一つだけパンを残しておく。
そんな小さなことも、たぶん共に暮らすということなのだ。
「ほら、ポル。今日の分だ」
「きゅる!」
朝日が差しこむ王都の片すみで、今日も一頭の竜が、焼きたてのパンを待っている。




