意識と無意識の境界線 ~ Flava Mesaĝisto
※転載、翻訳禁止。
また、あの家だ。
見覚えのある間取り、見覚えのある光の差し方。だが実際に住んでいた場所ではない。それでも私の体はここを知っている。以前にも来たことがある、と骨が記憶している。
空のハチの巣が、ふたつ。
部屋の片隅に、誰かが忘れていったように、ひっそりと。六角形の穴がいくつも口を開けたまま、住人のいない静けさを湛えている。初夏の気配が窓の外にある。以前もここには蜂がいた、という記憶が、どこかから染み出してくる。記憶なのか予感なのか、私には区別がつかない。
そしてやはり、蜂がいた。
黄色い。大きい。羽音が部屋の空気をかすかに震わせている。
内心でキイロスズメバチだと思った。その言葉が頭の中で静かに点灯する。
外に出さなければ、と思う。傷つけてはいけない、挟まれてはいけない。窓のサッシに細い体が挟まれる光景が頭をよぎり、私は慎重に、慎重に、窓を開ける。一匹は外へ出たはずだ。出たはず、という曖昧さのまま、私はもう一匹を探す。
周囲の誰かが気づいた。
まだいる、と声がする。
蜂は私のほうへ向かってくるだろう、とわかった。理由はない。ただわかった。予感というより確信に近い、静かな了解として。
案の定、キイロスズメバチは私めがけて飛んできた。
逃げろ、という声が聞こえた気がした。遠い。まるで水の底から届くような声だった。
蜂は私の左肩へ、すっと降りた。
髪が長い。その下へ、蜂は滑り込むように隠れてしまった。気をつけろ、と自分の内側で何かが言う。刺されるかもしれない。それとも、この蜂は刺すつもりがないのかもしれない。どちらかわからないまま、私は目を覚ました。
不安だけが、残った。
目覚めてから数時間後、私は助手席にいた。
夫が運転している。いつもの夫だ。顔を知っている、声を知っている、癖を知っている。なのに今日の彼は、どこかずれている。夢の中の誰かのように、輪郭がわずかに滲んでいる気がする。
スマホのカーナビが、左折を指示した。
夫は直進した。
あれ、と思う間もなく、私は声に出していた。違う、そっちじゃない。夫は次の交差点で左折し、元のルートへ戻ろうとする。脇道から、バスも通る片側一車線の道へ出た。信号はない。
止まるだろう、と私は思っていた。
当然、止まるだろうと。
だが夫は止まらなかった。右折しようとした。直進してくる車が、二台。
止まれ、と私は叫んだ。止まれ、止まれ。声が喉を破るように出た。
夫は突っ込んだ。
直進車が急ブレーキをかけた。
金属が軋む音。タイヤが路面を掴む音。それだけで、衝突はなかった。私は助手席から深く頭を下げた。止まってくれた見知らぬ人へ向かって。ありがとう、という言葉は声にならなかった。
夫は言った。お前が声を出すから混乱する、と。
私の言葉が、彼を乱すのだと。
その言葉を聞きながら、私はふと思った。夢の中で、蜂が肩に降りてきたとき、私は声を出さなかった。息を殺して、ただじっとしていた。それが正しかったのか間違いだったのか、今もわからない。
五十メートルほど先に、信号があった。
赤だった。
夫はそのまま進もうとした。
止まれ、と私はまた叫んだ。止まれ、赤だ。
今度は止まった。急ブレーキだった。
交差点に人はいなかった。対向車もなかった。それだけが、救いだった。
何をしているんだ、と私は怒鳴った。声が震えていた。怒りなのか恐怖なのか、自分でも判然としなかった。
夫は、指摘されることが何より嫌いだ。それを私は知っている。知っていながら、叫ばずにはいられなかった。
センターラインのない細い道を、夫はゆっくりと走った。両側に歩道があり、人が歩いていた。対向車もある。私はずっと、息を浅くしていた。
ようやくパーキングに着いた。
夫は右折禁止を無視して入った。
駐車券を取らなかった。私が指摘して、初めて気づいた。
*
ラーメンは、おいしかった。
噂通りだった、と夫は言った。うん、と私は答えた。
窓の外に、初夏の光があった。
ふと、左肩が重い気がした。
蜂はまだそこにいるのだろうか。髪の下に潜んだまま、息をひそめているのだろうか。それとも、あれはとうに飛び去って、今頃どこか遠い場所の花の上にいるのだろうか。
どちらともわからない。
ただ、肩だけが、かすかに重かった。
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※転載、流用禁止。




