水面の虹
四月の終わり、校庭に降った雨は、地面を静かに濡らしていた。
昼過ぎには止んだはずの雨は、どこか空気の中にまだ残っていて、窓をすり抜ける風には微かな湿り気が混じっていた。
桜井結は、教室の隅に一人座っていた。
放課後の喧騒が徐々に遠ざかる中、開いたままのノートの上で、ペンが止まっている。
「将来の夢を書いてください」
担任が黒板に書いた文字は、雨よりも冷たく、重く胸に降りかかってくる。
夢。
みんなはいつから、そんなものを持っていたんだろう。
「保育士になりたい」
「薬剤師になりたい」
「アニメーターになる」
隣の席の子たちは、笑いながらそう言っていた。結はうなずいて微笑んだけれど、胸の内側では、何かがゆっくりと沈んでいくようだった。
誰かみたいに輝く目標があるわけでもない。
誰かみたいに何かに夢中になったこともない。
ただ、娯楽を消費して毎日を「過ごしている」だけの自分。
そんな自分が、この先どこへ向かうのかもわからないまま、時間だけが過ぎていく。
帰り道、結は校庭を横切って、裏門から一人ぽつぽつと歩いた。
空にはまだ灰色が残っていたけれど、雲の切れ間から金色の光が少しだけ漏れていて、それがアスファルトの水たまりに静かに溶け込んでいた。
水たまりの前で立ち止まると、風が止んだ。
世界が一瞬だけ、音をなくしたように感じられた。
そのときだった。
ふいに、誰かの小さな声がした。
「この中にね、空があるんだよ」
驚いて顔を上げると、小さな女の子が水たまりを覗き込んでいた。
ランドセルの赤が、夕焼けの色を吸い込んで、まるで花びらのように揺れている。
「空があるって?」
結が問いかけると、女の子は真剣な顔でうなずいた。
「見てみて。雲もあるし、あの光も、ほら、ちゃんとあるよ」
結はしゃがみ込んで水たまりを覗いた。
そこには確かに、空があった。
どこまでも続いていきそうな空が、逆さまに、けれど確かに映っていた。
「水たまりってさ、動かないのに、なんでも映すんだよね。行きたい場所とか、見たい景色とか」
女の子はそう言って、にこっと笑った。
「今はまだどこにも行けないけど、きっと、行けるよ。だって空があるもん」
その言葉は、あまりに自然で、そしてどこか懐かしかった。
結は知らないうちに、肩の力が抜けていた。
女の子はそのまま水たまりをぴょんと跳ねて、晴れやかな笑顔で振り返る。
「虹、見えるといいね!」
その背中が夕日の中に溶けていくのを見ながら、結は空を覗き込んだ。
水たまりには、少しだけ顔を上げた結がいる。
揺れる空を映す瞳に、まだ知らない未来の光がぼんやりと宿っている。
きっと今は、立ち止まっているだけ。
それでも、この水たまりのように、空を映していられたら。
そのうち、見えてくるのかもしれない。
行きたい場所も、なりたい自分も。
夜、机の上でノートを開いた結は、少しだけ笑ってペンを走らせた。
「将来の夢は、まだわからない。
でも、わからないままでいることを、怖がらずにいたい。
水たまりの空みたいに、静かに、自分を映していられたらいい。」