螺旋上の饗宴
すべては螺旋状に絡みつき、やがては螺旋状に収束してゆく。ミクロの世界もマクロの世界も、スケールは違えど同じように働き、繰り返している。かつてはいつか。ここはそこ。明日は今日で、いつかも今日だ。
きみとおれは辿る経路が異なっていても、きっといつか同じ場所に到達するだろう。いつかは今日で、今日は明日だ。いつかくる今日に、いつかはサヨナラを告げなければならない。そして、それがたまたま今日だったというそれだけの話だ。
螺旋は永久に上昇、もしくは下降してゆく。だが上昇も下降も見る角度の違いだけ。あらゆる角度から、螺旋は確認できるだろう。どんな場所にも隠された螺旋は存在している。時の流れさえも螺旋状だということが最新の研究で暴かれつつある。確かなことは、螺旋はループではなく、不可逆性を持っているということ。少なくとも螺旋上にいる限りにおいては。
だが、おれたちは精神でもって螺旋を逆に辿ることもできるだろう。精神の中に螺旋を発生させることだって。螺旋を巡る旅は、しばしば混乱や混沌に喩えられるが、そうではない。これほど秩序立った筋道も珍しいくらいだ。人並みの分別と落ち着きをもってさえいれば、なにも問題はないのだ。それがこれだけ問題になるということこそが、逆説的にほとんどの人間の分別のなさと落ち着きのなさを証明してしまっている。
まずは分別を持つことだ。落ち着いてくれ。きみは誰だ? きみはどこから来た? きみはどこにゆく?
最終回予告など、おれはしない。ある日唐突にその日はくる。それは今日、あるいは昨日、もしかして明日だったということだ。おれは文章を書き、あれこれと思いを巡らす。誰かが辿った轍を、獣道を、舗装された国道を、打ち捨てられた廃線路を、入り組んだ住宅街を、夜明け間近の繁華街を、荒川の土手を、蝉時雨の農道を、そしてかつての少年が歩いた帰り道を。
二度と戻ることはないだろう。おれは不可逆性の中にいる。とても悲しいことだが、すべては過ぎ去り、まるで自分ひとりが置いてきぼりをくらったみたいな気持ちになってしまうが、勘違いも甚だしい。おれだって過ぎ去ったんだ。誰もが過ぎ去ってしまったんだ。それは本当に悲しいことだが、避けられることではない。自分ひとりだけが停滞できるわけがないじゃないか。きみが停滞しているのなら、おれも停滞している。おれが過ぎ去ったのなら、きみも過ぎ去っている。だからだ。なにもかもが悲しいのは。
悲しさは大前提だ。誰もが悲しく、虚しい存在であること。誰もが儚み、悔やんでいること。誰しもが深い悲しみからは逃れられないこと。そこが立脚点であるということ。
すべてはそこから始まっているということを、理解した上で、旅を続けなければならない。残酷な運命を、手に負えない定めを、甘んじて受け容れることだ。嘆きながら、悪態を吐きながら、それでも彷徨わなければならない。迷わず行けるものかよ。行ったってなにもわからない。わかった気になっていたって、旅を続けていればいつかはわかる。なにもわかっていなかったことを。だが、それだけわかればじゅうぶんじゃないか。旅に出た甲斐がある。きみはそうは思わないか。
つまり救いはない。いや、あるか? あるにはある。条件付きの救い、断片的な救いなら。だが本質的な救いはない。おれを救うものはなにもない。どこまででもついてくる影を振り切ることなどできるわけがないのだった。影こそが救いだと言うやつもいる。だけどそんなことを言ったら何でもありだ。そんなもん、あんた、ただの言葉遊びだよ。おれは結構まじめにやってるんだ。茶化さないでほしいな。
もちろんおれは言葉遊びの名人でもある。達人よりはちょっと劣るが。そのちょっとがとてつもない差なのだが。だがまあ、このまま研鑽を積めば、達人級にはなれるのではないか。そんな期待がおれにはかけられている。期待を重圧に感じないでもない。どこかで期待を裏切ってやりたいような、そんなイタズラ心もあるけれど、かといって邪道に堕ちたくはない。そこらへんのバランス取りがなかなか難しい。なにしろすべて感覚でやっているから。
理論を学ぼうとしたこともある。だがおれの学びたい理論が見つからないのだった。あるのは、論理的な文章の書き方、みたいなやつだけ。ふざけているのかね? おれが論理的な文章を書きたいわけがあるか。
だからもう、ぜんぶおれの勝手でやってるのだが、それってどうなの。これってどうなんだい? そう訊いたって誰も答えてくれやしない。応えて欲しいのであれば、もっと具体性を持って質問するべきだ。そういう意見があるのはわかる。だがおれは具体的な答えなどは求めていないんだ。感情を求めているわけだ。パッションをぶつけてくれ。情緒まみれで水分たっぷりの文章をおれに喰らわせろ。小賢しいのは嫌いだよ。そういうやつは大抵、いいや確実に、絶対に馬鹿なんだから。知能は高いのかもしれない。勉強はできるのかもしれない。知らないよ、そんなことは。だけど馬鹿は馬鹿なんだ。悲しいけどしょうがない。
馬鹿におまえは馬鹿だとはっきりと言ってあげたい。でも馬鹿は馬鹿と言われることをすごく嫌がる。場合によっては酷い嫌がらせを返してくる。あまりにも低俗な嫌がらせを。これがまた腹立つんだ。そこまで嫌なことをよくできるもんだ。馬鹿の上に嫌なやつ。それって最低だよ。
おれはなにも馬鹿にしようとしているわけではないんだよ。きみは自分が思っているよりもよっぽど馬鹿だよ、そう教えてあげたいだけなのです。でも馬鹿は本当のことを知りたくないみたい。だから馬鹿のままなんだ。いつまでもずっと。とても悲しいことだけど、しょうがない。
そして、いつかまた会うと思う。いつかの明日に。
おれはまた火を焚く。狼煙を上げる。秘密の丘から煙が一筋上がっていたら、それが合図だ。戦闘準備を怠るな。闘志を萎えさすな。萎えさすって日本語として合っていますか。一発で変換できないと不安になってしまう。萎えさせるなら一発で変換できる。こっちが正解っぽいが、おれは通す。それは危な過ぎるだろうって牌すら大胆に切る。そして見事に喰らう。麻雀の考えるべきポイントがいまだにわからない。もういちいち面倒くさい、どうでもいいやって気分になる。そして見事に負ける。手持ちのチョコがごっそり減る……。おれはもっとテーマのあるテーブルゲームがやりたいんだ。麻雀って結局なにがなんのために争っているんだ。なんで麻雀の話になっているんだ。
そういうわけで、螺旋状の少年は本日をもって完全終了だ。おれは結局、螺旋状の少年の尻尾すら掴むことすらできなかった。だがおれだってなにも本気で少年を捕まえることができると思っていたわけではない。皆さんが思っているよりもずっと、おれは気楽にのんびりとやっているんだ。皆さんがどう思っているかなど知るよしもないけれど。
繰り返しになるが、いつかまた会うと思う。見かけたら、遠くからでもいい、手を振ってくれ。必ずや手を振り返すと約束しよう。そしてまたお互いの道を辿ってゆく。遙か彼方に続く螺旋状の道を。途上でもしかしたら硝子のような眼をした少年と出会うかもしれない。そのときは、阿部千代がよろしく言っていたと伝えてくれ。別に伝えなくてもいい。なにしろ好きにすることだ。勝手にするさ。いつだってそうしてきたのだから。そうだろう? そうだろう、友よ。そうだろうとも。




