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うだうだ抜かさずうだつを上げて

 あやかしの夜が明け、幻の朝が訪れた。おれは一睡もできなかったのだが、それにしては時間の進みがあっという間だったので、眠ってはいたのかもしれない。感覚としてはまったく眠くなかったし、覚醒しっぱなしだった。質の悪い眠りには悪夢がつきもので、目覚めたときには夕立の中にいたのかおれは、そう思うほど全身びしょ濡れになっているものだが、それすらもなかった。

 午前六時。おれはドライな身体を操縦し、クールに起き上がった。そこからの記憶がぷっつりと途絶えている。気づくと時計の針は午前十時を指しているのだった。曇った白い光がカーテンの隙間から漏れているので、午前で間違いないだろう。これが白い夜でなければの話だが。


 スピーカーからはアンビエントなエレクトロニカがかすかな音量で流れていた。音楽をかけた記憶がまっっっったくない。いったいどうしたというのか。おれはいよいよのっぴきならない状態に全身で突っ込んでしまったのか。フラッシュ的な記憶の欠乏。ごっそり削り取られた時間。煙臭いおれの部屋。

 そもそもおれは言語都市にいるはずだった。と言うか、言語都市ってなんだよ。まったく同じ邦題の小説があるんだよ。チャイナ・ミエヴィルの言語都市だよ。原題のEmbassy Townを直訳すると大使館町なんだけど、それを言語都市にするのが訳者のセンスだ。漢字四文字でかっちりキメながら内容との齟齬もなく、同作者の傑作The City & the City、邦題「都市と都市」と絡めてあるタイトルなんだよね。かっこいい仕事ですよ。まったく憧れてしまう。

 そこまですべてわかっていながら、言語都市を解読せよ、なんてミッションを気軽によこしてくるんだから、こっちはたまったものではない。だがおれは所詮D級エージェント。ミッション内容に文句を言える立場にない。立場にはないが、この場で陰口くらいは叩いてもいいだろう。

 大体がアルファベットのランク分けってどうなんだ。もうすこし持って回った言い方をしてくれたって罰は当たらんだろう。こんなことをされてしまったら、モチベだだ下がりもいいとこだ。きみの階級が上がったぞ。今日からきみはC級だ。おめでとう! こんなことを言われたって嬉しくもなんともない。せめてランクではなく、ロールで呼んで欲しいね。エンフォーサー、スカウト、みたいな感じで。ポストプロセッサ、略してPP、なんていうのも悪くないじゃないか。


 だがまあ。おれに目立った功績がないことは確かだ。目立たない功績もないかもしれない。死ぬほどケツが重いことも認める。やる気はあるのだが。すこし粘り強さに欠けているきらいもある。けど比較的、頭はキレる方だと思う。キレすぎてあれこれ余計なことまで考え込んでしまうのが玉に瑕。

 おれはこの仕事に向いていないのだろうか。いつまで経っても、うだつの上がらないD級エージェント。陰ではめちゃくちゃ馬鹿にされていることくらいは、おれだってとうの昔に気づいている。そういう勘は鋭い方なんだ。なんたって頭はキレる。うだつの上がらないの、うだつってなんだ。上がったり下がったりするものなのか。それとも上がり始めれば上がる一方なのか。

 こんな疑問は検索フォームに入力すれば一発で解消だ。だがいちいちそんなことをおれはしない。そんなことを知ってなんになる。ウェブから仕入れた知識を夜の女にひけらかすのか? ねえ、うだつの上がらないの「うだつ」の意味知ってる? なんてな。勘弁してくれ。そんなやつは一生うだつが上がらないままに決まっている。夜の女にも、うざっ、そう思われる。

 つまるところ、おれに向いている仕事などはない。当たり前の話だ。だからこそ、おれはこの仕事を大切に扱わなければならない。後生大事に墓の中まで仕事を持ち帰る覚悟がある。そうだ。しっかりするんだ、スーパーD級エージェント。おまえはスーパーなんだろう。つまりは超イケてるってことだ。おれにはおれのやり方がある。うだつが上がろうが下がろうが、うだつの意味がなんだろうが、知ったことかよ。


 それでも一応、うだつの意味を調べてみた。ふーん、あっそう、って感じだった。


 おれは見栄を張ったりはしない。お、いま気づいた。ハッタリってこういうことか。だがおれの考えるハッタリは見栄を張ったりするのとは少し違う。見栄を切り捨てるような感じだ。まあ個人的な感覚などどうでもいい。なにしろ、うだつなどを上げたってしょうがないってことだ。まったくしょうもない。しょうもないことばかりで嫌になってくる。

 別の職業について考えてみようとした。脳が拒否した。気難しい脳を持つと気苦労が絶えない。なにもかも上手くない。世界中から愚弄されているような感じがする。おれはそこまで嫌われるようなことをしただろうか。なんだかなにもかもどうでもよく思える。元気が失せてきた。言語都市を解読せよ。そう言われてもな。おれにどうにかできる話ではないと思うのだが。

 それでも給料分は働かなくっちゃな。働かざるもの食うべからず。嫌な言葉だ。おれは食ってから働きたいタイプなんだ。空きっ腹のときは部屋でじっとしているに限る。あいにくいまはそれなりに腹は満たされていた。仕方ない。自分から出た言葉には責任を持つ。おれの数少ない美点だ。だが自分の美点はなかなか自分では気づかないものだ。おそらくおれが考えているよりもおれの美点は多いはずだ。


 外はぬるかった。じとっと湿っていた。歩いてすぐの道ばたに犬のクソが転がっていた。これだから嫌になる。幸先が悪いったらない。それでもまあ、元気を出して働きましょう。おれはできるだけ爽やかに、自分に言い聞かせてみた。


 そのあとのことは話しても仕方ない。別に嫌なことがあったわけではない。なにもなかった。なかったんだ、なにも。だってなかったのだからどうしようもないじゃないか。それじゃあなにかい、何歩歩いたとか、何分列車に揺られたとか、途中の駅でようやっと座れたとか、運動不足解消のためにエスカレーターではなく階段を上がってやったぜとか。そういうことまで逐一文章として書かなければいけないってのか。冗談じゃない。やってられるか、そんなこと。省略、省略! なにもなかったんだよ。それで納得してもらうしかないんだって。


 帰りの列車の中、おれは生きる意味ってやつを考えていた。どうしてこんなに虚しいんだろう? おそらく自分がなにをしているかわからないからだ。なにをすればいいのか、さっぱりわからないからだ。やるべきことをやる。そう言ってみたってやるべきことの見当がつかないのだから話にならない。

 おれはこのミッションを降りるべきなのだろうか? だがこのミッションがおれの最後の踏ん張りどころのような気がする。なにかこう、試されているような。むしろ嫌がらせのような。クソッ、なんだかむかっ腹が立ってきた。なぜこんなわけのわからないことで悩まなければならないのか、そこのところがぜんぜん理解できない。普通はもっと具体的なものがあるものだろう? 謎めいた女とか。部屋のドアに差し込まれた謎のメッセージとか。突然の謎の来客とか、近所の謎の中華屋のオヤジとのなにげない会話に隠されたヒントが、とかでもいいよ、もう。

 なにか、あるだろう? なにもないのか? 本当になにも?

 おれはこのミッションを降りるべきではないだろうか。それと同時に別の職業についても考えようとしてみた。すべてに拒否された。ありとあらゆるものすべてから。これが絶望という名の地下鉄ってやつか。そう思った。

 ところで、絶望という名の地下鉄ってなんだったっけ。かっこいいよな。もちろん欲望という名の電車のもじりであるのはわかっていますよ。おれはまあまあ博識なんだ。ただちょっと忘れっぽいところがあるかもしれない。そのあたりは元気と頓知でカバーしている。なんたっておれはスーパーD級エージェント。超イケてるんだから。

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