飛びだして轢死
頭をひねってもどうにもならないときがある。ほとんどすべての日がそうだと言ってもいい。煩わしさのない毎日など想像もつかない。極大極小、様々な災禍がおれを苛む。すべてを思うとおりに、すべて思うがままに振る舞えたとしたら、そんなものは三日で飽きるだろう。三日後には人類は滅び去る。もう一度、猿からやり直せ。何度やり直したって同じことだ。繰り返しの果ての無が安らぎをもたらしてくれるまで。
阿部千代帝国の綻びは、すでにそこかしこに、見過ごすことのできない疵が、あちらこちらに。崩壊は至るところで進み、誰もがそれに気づいていながら、見て見ぬ振りを決め込んでいるが、目を逸らすものは誰もいない。崩壊は運命、運命は死。せめて腹一杯で死にたい。一杯の白湯が命を繋ぐこともあることは理解しつつも、せめて、せめてこの子だけは。後生ですから。
最後の晩餐は滞りなく進み、あとはメインディッシュを残すのみ。肉にしますか、魚にしますか。おれはヴィーガンだ。だが、肉を選ぼう。なにしろこれが最後だ。せめて最後まで墜ちた英雄らしくあろうじゃないか。皇帝、阿部千代の最期。人生とはなんと儚いものよ。だが、おれなりに彩った。おれなりに塗り込んだ。おれなりに巻き込んで、おれなりに巻き起こした。悔いはある。すべてだ。おれなりにすべてを悔やんでいる。それでも時間は巻き戻せない。巻き込んだものも、巻き起こしたことも、今となってはすべて。
阿部千代のテーブルマナーは出鱈目もいいところだった。だが、気品はあった。堂々としていて、気後れする様子もなかった。これが初めての最後の晩餐とは信じられないほどだった。実際のところ、初めてではなかったのだ。阿部千代は最後の晩餐を繰り返していた。
なぜそんなことが可能だったのか、歴史家の間ではいまだに議論が絶えないが、現代では阿部千代タイムリーパー説が有力視されている。
歴史家など所詮は後付けの理屈こね屋だ。伏線回収と称して思いつきを実行する小説家となにも変わらない。もちろんそれが悪いことだと主張したいわけではない。そこまで威張ることでもないだろう。そういうことだ。
おれは伏線回収を神聖なものとして扱う風潮には長年疑問を持っている。だってそんなもの自由自在じゃないか。なんだってありじゃないか。王大人が死亡確認したって、実はそのあと蘇生術を施していましたで済む世界だ。王大人への信頼が揺らぐだけで、それでなにも問題はない。だが、王大人は江田島平八よりは話のわかる男で、飲酒には寛容なのだった。
しかし、嬉々として魁!!男塾を語る人間は多いが、男組について語る人間がほとんどいないのは、これはどうしたことなのだろう? みな劇画魂をどこかに置き忘れてきてしまったようだ。悪夢の80年代がすべての元凶だとおれは考えている。アニメ漫太郎がバクダンに一撃K.Oされるのは宮下あきらの心の叫びだったのだろうか。汚れちまった悲しみをおれたちに教えてくれたのは中原中也ではなく、アニメ男塾の主題歌を歌っていた一世風靡SEPIAだったという事実を歴史の闇に葬り去ってしまっていいものだろうか。
真の歴史を、歴史家の手から奪い返せ。そして、歴史から飛びだせ。PANTAが頭脳警察で伝えたかったのは、つまりこういうことだったのだ。
頭をひねらないとこうなる。悪い見本の良い手本がここにできたというわけだ。だがそんなものができたからどうだというのだ。おれは見本や手本を書きたいのではない。小説を書きたいのだ。いや、書いているのだ。D級エージェントという肩書きはあるが、そんな活動は学生気分のバイト感覚だ。おれの本業はこっちだ。まあ、ネトウヨはクソだが。折を見てこういうことも書かないといけない。文脈を無視してでもだ。それは折を見ていることになるのかならないのか、そんなもんどっちゃでもええ。つまらない言葉遊びはもうたくさんだ。うんざりなんだ。すべてが煩わしくてたまらない。でも自棄をおこすわけにはいかない。ぎりぎりのところで踏みとどまる。鎮まれ、荒ぶる魂よ。己の姿を見よ。そろそろ髪を切った方がいい。そう思うなら、そうせよ。書くことを要求されている。そう思うなら、そうせよ。
書かれた文章が心地よい律動を刻む。もしそれを感じとることができていないのなら、あなたは読み方を間違っている。書くことは保存することではない。備忘録などクソ食らえだ。おれから遠ざかっていく言葉たち。その意味を、価値を、問うたとしても、淘汰されて消化されるだけだ。等価交換などを望んで文章を書いているわけではなく、ただ出てくる言葉を文章へと昇華したいのだ。
声に出してみろ。抑揚をつけてみろ。身体いっぱいを使って表現してみろ。それから、振り返ってみろ。
顕現する言語都市に、おれは息を呑む。巨大だ。あまりにも巨大過ぎる。
悪意に基づいた換骨奪胎、拷問による構造抽出、単細胞のアナリストたちがパラメータ化した数字の暴力。新しいブツが入ったぜと囁き、陳腐化した骨董品を押しつけるプッシャー。昼夜問わずに犯罪的行為が横行している魔都だが、そんなことはいまに始まったことじゃない。遙か昔から繰り返されていることだ。所詮連中のやっていることなど馬鹿なガキのお遊びに過ぎないのだった。目障りではあるが、目くじらを立てるほどではない。
結局、おれは今日も大通りに出ることはなかった。小便の臭いのする路地裏でネズミと一緒にため息をついていただけだ。おれはネズミ相手に愚痴ってさえいたのだった。ネズミは、うんその気持ちすごくわかるよ、そう言いたそうな顔をしていた。それでおれの動揺もすこしは和らいだ。だがこれからどうしようという方針が固まったわけではなかった。おれは迷っていた。道はもちろん、進むべき方向性に関してもだ。
おれは狙われている。そんな不吉な妄想が拭えなかった。妄想ならまだマシなのだが。本当に問題なのは、これが妄想ではなかった場合だ。そのあたりの判断がイマイチつかないまま、おれは一歩も動けずにいる。ネズミくんもおれを置いてどこかに行ってしまった。きっと家族の元に帰ったのだろう。
こんなことになるのなら、部屋でクロスワードでも解いている方がまだマシだった。こんなことになるのならと言ったって、どんなことも起きてはいないのだが、どっちにしろクロスワードを解いていた方がいいのは間違いない。
おれはクロスワードは達人級の腕前だ。自慢できるほどの能力ではないので、あまり積極的に言い触らしはしないが、こればかりは自信がある。クロスワードの懸賞で生きていこうかと本気で考えたこともある。その考えは一瞬で却下したが。だって想像してみてほしい。各種クロスワードマガジンを定期購読しているやつを。一日中、クロスワードを解き続けるやつを。そんなチマチマしたやつにおれはなりたくない。生きていけるのなら、やり方はなんでもいいってわけじゃない。
それでも今この状態は、そんなチマチマしたやつになった方がまだマシだと、そんな風に考えてしまう時点で、おれの追い込まれっぷりがわかろうというものだ。
なにもわかってくれとお願いしているわけではない。ただ唯一の理解者であるネズミくんを失って、おれは少々弱気になっているのかもしれない。
心細さに胸が張り裂けそうだった。ちなみに、胸が張り裂けそうという陳腐なイディオムをおれが文章の中で使っている場合は、馬鹿にしきった半笑いで使っているのであまりマジにとらないように。だが、おれのいまの寂しさはマジだ。
おれは迷子になっていた。ガチの迷子だった。いまにも半べそをかきそうなくらいだった。それでもじっと耐えていた。耐えていたと言うよりも、途方に暮れていた。ただただネズミくんの再訪を待ち望んでいるのだった。




