表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
86/99

ランゲージシティ

 じっと春を待っていた。しかし訪れてみた春は、想像していたような歓喜に溢れたものではなかった。謀略、簒奪、捕食。ここ最近、悲鳴のあがらない日はない。ただ暖かい陽光だけが無慈悲に降り注ぐ。光が乱反射し、あらゆる方向から網膜を傷つけていた。くりっと可愛い硝子のような眼すらも、光の反射に利用されている。

 光はあらゆる場所を指し示していた。それは本来は入ってはいけない場所など存在しないのだ、そういうことを示唆している。分け入る勇気さえあれば、それだけで入れる場所であるならば、入ることを躊躇する必要はまるでない。本来ならば。

 だが領域は象られ、まるで可視化されているように、それぞれの領域が、それぞれ不可侵であることを主張するのだった。その根拠というのが、まさに言葉だ。人間は言葉によって縛られ、言葉によって存在を許される。

 目の前の都市は言葉で象られていた。言語都市。その圧倒的な存在感を前にしておののかない者はいない。自分はおののいていないと嘯く人間は、「おののく」という言葉を理解していないだけに過ぎない。もちろんおれも、しっかりおののいている。必要以上におののいているかもしれない。

 言語都市を解読せよ。それがおれに与えられたミッションだった。

 まるで雲を掴むような話だった。だが先方は雲は掴むことができる、そう言うのだ。雲を掴め、そう言って背中を叩いてくるのだ。もちろんこのようなZクラス・ミッションに、おれのようなD級エージェントが単身で挑んでいるはずがない。おびたたしい数のエージェントが雲を掴もうと、蜘蛛の子を散らすように言語都市の路地という路地に放たれたに違いない。大通りはエージェントどもでごった返している。まるで祝祭だ。


 おれは我先にと功を争うタイプではない。ティピカルなエージェントどもとは違うのだ。だがそのタイプこそが、おれをD級に留めている原因であることは理解していた。理解はしているが、このスタイルを変えるつもりは毛頭ない。そして、このおれのスタイルこそが、このようなミッションには最も適していると、おれはそう分析している。

 とは言え、具体的な方策があるわけでもなかった。どこから手をつけていいのやら、さっぱりわからない。決してやることが多すぎるわけではない。とっかかりがまったく見つからないのだった。言語都市はあまりに巨大過ぎるのだ。

 結局、言語都市に一歩も足を踏み入れることなく、おれはこの部屋に帰って来たのだった。今日のところはってやつだ。言語都市を一望できただけでじゅうぶんだ。ぺろっと一望したくらいでは全貌は到底うかがい知れないということが再確認できた。それだけでじゅうぶん。おれはツーリストではなくエージェントだ。闇雲に内部に入り込んで迷子になるわけにはいかない。自分の立ち位置はしっかりと自覚しておく必要がある。今日は何人のエージェントが言語都市に飲み込まれて行方不明になっただろうか。その数を想像して、おれはケケケと笑った。それから、グラスの中身を一気に飲み干した。麦茶はすっかりぬるくなっていて、ほんのすこしだけ個体っぽかった。


 目覚めは快適だった。もうちょい眠れたような気がしないではなかったが、腹八分目的な考え方を適用した。満たされると人間は駄目になる。いつでもなにかに飢えておくことが肝要だ。特におれのような仕事をしているやつはそうだ。額面通りの幸福は足枷になる。幸福の前に降伏してしまう。そして行方不明となる……。自分の立ち位置はしっかり自覚しておかなければならない。その感覚を鈍らせるわけにはいかない。先端を研ぎ澄まし、どこにでもずぶりと分け入っていくことのできる鋭さを維持しなければならない。いつでも躊躇なしにしがらみを断ち切ることのできるように刃先を立たせておかなければならない。おれは孤独だ。だれもおれを愛してはいない。それでもおれはこの仕事を愛している。おれにはすべきことがある。言語都市を解読せよ。おれ以外に誰ができるというのだ。史上最高のD級エージェント。それがこのおれだ。


 ほんのすこし気を抜いた瞬間だった。おれの脳は痺れ、視界はブラックアウトした。気がつくとおれはベッドに横たわっていて、全身びっしょり汗をかいていた。枕には大きなよだれの染み。どうもおれは疲れているようだ。無理もない。無理難題を押しつけられているのだから。言語都市を解読せよ? できるわけがないだろう、馬鹿が。

 それでもおれは時間を無駄にしたわけではない。脳を整理する時間が必要だった。その時が今だった。それだけのことだ。おかげですべてがクリアになった。もうすこしでなにかがわかりそうだった。ほんのすこしの差でなにもわからなかった。たったほんのすこしだけの差で。

 おれは熱いシャワーを浴びながら、言語都市について考えていた。厄介な案件を抱え込んでしまった。D級エージェントの手に負える代物ではない。だが先方はおれを指名した。もちろん無数のエージェントが指名されているのだろう。それでも本命はこのおれだ。なんだかそんな気がした。

 このミッションを請けたエージェントの中で、いまだに言語都市に足を踏み入れていないのなんて、おれぐらいのものではないか。そう考えると、おれはやはり特別なのだ、そう思えて仕方がなかった。

 やるべきことをやるだけだ。おれはスーパーD級エージェント。はっきり言って、半端じゃない。すべきことをするだけだ。それだけでじゅうぶんなんだ。


 夕方頃からあいにくの雨が降ってきた。おれはいつでも調査に出る準備万端で、ずっと空模様を気にしていたのだが、思ったとおりに雨が降ってきたのだった。これでは満足な調査は望むべくもない。

 なにかがおれを阻んでいる。いつだってそうだった。おれはツキには恵まれていない。だがツキをこの手に掴む覚悟はいつでも完了している。

 おれはじっと手を見た。なんだって掴むことができたのかもしれないこの手を。そうだ。なんだって掴むことができた筈なんだ。月だって太陽だって、もちろん雲だって。だがいつでもなにかがおれを阻んでいた。もう阻まれるのはごめんだ。おれがいつまでも受け身のままでいると思うなよ。自ら掴みに行ってやるさ。阻めるものなら阻んでみろ。

 だが自然は手に負えない。自然だけはどうしようもない。雨のそぼ降る中、のこのこと外に出て行くほど、おれは馬鹿ではない。たまの休息だっておれには必要なんだ。そうとも。おれは冷静に状況を把握できている。動くべき時とそうではない時の判断が的確にできている。どんな時でも自分の立ち位置はしっかり自覚している。そこさえ押さえていればおれは大丈夫。なんの心配もいらない。


 おれは孤独だが、寂しくはない。そりゃ相棒がいたこともあったさ。上手くいっていたこともあった。深刻な問題なんぞはなにもありゃしなかった。だがおれから見ればしょうもないことが、相棒の目を通すとシャレにならないことになるのだった。ほんのすこしの立ち位置の差。ほんのすこしの見ている角度の差。そのギャップを埋める方法をおれたちは知らなかったし、また埋めるべきでもなかった。それぞれがそれぞれに、やるべきことがあった。

 雨音を聞きながら、そんなことを考えていた。すこしは言語都市のことも考えなければ。だが考えてどうにかなるというものでもないのだった。おれは真面目な自分に安心したいわけではない。やるべきことをやり、すべきことをするだけだ。

 明日には雨が上がっているだろう。でももしかしたら雨が続くかもしれない。明日のことなどわからない。予想を立てることくらいはできるが、明日になればわかることをいちいち予想してもしょうがない。だからもう寝てしまおうと思ったのだが、昼間のうたた寝の影響でまったく眠気がきてくれないのだった。

 うだうだしていても仕方がないので、一杯やることにした。まったく気づかぬうちに雨は上がっているのだった。ぬるい風と星空が心地良い。言語都市を解読せよ。もちろん。仕事は順調だ。もう少しでなにかがわかりそうだった。光はあらゆる場所を指し示していた。ほんのすこしの差なんだ。すべてが。なにもかも。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ