だからないものはない
もはやなにもない。なにもないところから始めましょう。いや最初からだ。最初からなにもなかったんだ。それから? それから。それからもなにもない。あらあら。おやおや。それからどんどこしょ。ああ、あった、あったよ、いろいろな。にこにこぷん。ドレミファどーなっつ。ぐーチョコランタン。モノランモノラン。ポコポッテイト。ガラピコぷ~。なぜか定期的にみている、おかあさんといっしょ。ブンバ・ボーン!
みていて苦ではないTV番組はおかあさんといっしょぐらいのものだ。それと、いないいないばあっ! も良い。
昔はよかった。テレタビーズが日本でもみることのできた時代があった。テレタビーズは学校に遅刻してでもみる価値があった。なぜおれは幼児向け番組が好きなのか。それはな。サイケだからだ。
ウゴウゴルーガは好きではなかった。あれは……なにか業界の匂いがした。コロコロコミック的な下品さを出しておけば、ガキなんておもしろがるっしょ。そんな浅はかな思惑が透けて見えて嫌だった。だが、流行った。実際にガキどもはおもしろがってしまった。人間に対してのほんのりとした失望と怒りが芽生えた、阿部千代10歳。蛇と毛虫と血と内蔵が嫌いだった。小人はいるとどこかで信じていて、山に入っては石をひっくり返して探していたものだ。
山といっても所詮は千葉県だ。世界基準では山ではなく丘なのだった。おれがよく入っていたエリアは、いまではゴルフ場になっている。そういう意味で、おれはゴルフが大嫌いだ。だがおれの同級生が三人そこで働いている。クソ田舎に仕事を供給している一面もあるわけだ。
愛着のある土地ではあるが、もともとおれの家は余所者だ。戦時中にはすでに祖父母が住み着いていたが、それでも余所者なのだ。そういう土地柄だ。そしてもう、おれの血縁者はそこにはいない。山を削ってゴルフ場にしたからといって、おれが怒る筋合いはない。そこで生活している人間たちがまだ存在している。彼らにはそこでの生活がある。だが住処を追われた生き物や小人たちの怒りはどうすればいい? おれが請け負うしかあるまいよ。
請け負ったはいいが、おれにできることはなにもないのだった。なんでも安請け合いして痛い目に遭うのがおれの常だ。種々様々な精霊との契約不履行によって、おれはもう世界から信用されなくなっている。毎日が呪いとペイバックとの戦いだ。地味な嫌がらせが続いていて、おれの精神はすり減っている。ついにはちびっ子女郎蜘蛛さえおれを見限ってベランダから消えてしまった。後片付けくらいしていけよな、そうぼやきながら、彼女の脱ぎ散らかしっぱなしの衣服、劣化した巣の残骸を掃除していた。
放っておくとキップルは増殖していく。そしておれの精神をも侵食していく。荒れ果てた荒野と化した精神にはこんな文章を書くことすら許してくれない。だからこうして掃除をするのだ。だが無尽蔵に勢力を拡大し続けるキップルのある風景には、退廃的ではあるもののある種の人間を惹きつける魅力があるのは否定できない。不法投棄されたゴミの山に這う蔦のツルは、キップルと生命の戦いの小歴史だ。そしてその頂上できょとんとしているルリビタキ。そういうものを見ると、おれは涙を流してしまうのだが、実際にそんな光景を見たことはない。一日中カーテンを閉め切っているので、外でなにが起こっているのかもわからない。
ちなみにキップルはディックの考えた造語だ。勝手に使わせてもらった。できれば許可をとりたいところだが、あいにくディックはもう死んでいるし、生きていたとしたって彼へのアクセス方法がわからない。英語もわからない。なにもかもわからず、しれっとキップルを使って黙っていようと思っていたというか、別にそれが悪いこととも思っていなかったというか、いまでも悪いことだとは思っていないが、突然に気が変わった。キップルはディックの考えた造語。今日はそれだけ覚えて帰ってくれ。そんな常識はおまえに言われんでもわかっとる。そういう人が当然どこかにいることもわかっている。あんたらのことは大切に思っている。すまん、嘘だ。あんた誰だ。おれはあんたのことなど知ったこっちゃないよ。
しかしまったくの骨折り仕事だ。この文章の話だ。それでもこれ以上に意味のない労働をたくさん経験してきた。労働というものは抽象性が高ければ高いほど、無能が集まるようにできているようだ。そしておれが比較的心穏やかに従事できた労働はそういう類いのものだった。無能者たちに囲まれる毎日。
彼らの理屈は有能者たちと比べてもほぼ変わらないように思えた。彼らは偉くなりたがっていた。ちやほやされたがっていた。自らを恥ずかしい存在だと信じ込んでいた。諦めながら夢想していた。無能者と有能者を分かつものはなにか。結局は運なのだろう。だって同じものを同じ理屈で求めているのだから。
彼らの求めるもの、そこに魅力を感じるのはわからないではない。おれだって、ちやほやされたり特別扱いされたら相応に気分が良い。だけどやっぱり、それは面倒くさそうなのだった。気分が良い状態に飽きて、それが通常の状態になったとき、おれはその面倒くささに耐えられるだろうか。到底無理だろう。
まあでも生きること自体が面倒くさいわけで、そう考えるとどうなろうと行き着く場所は一緒、結局はこういう文章を書いているのだろう。
おれの名誉のために言っておくが、おれ自身はおれのことを無能だとは思っていない。有能だとも思っていないが。ちょっと嘘だ。有能だと思っているフシはある。だがそれを発揮したことはない。
勘違いしてもらいたくないが、決しておれは無気力な人間ではない。やる気に満ちあふれている。元気いっぱい。こうと決めたら真夜中だろうが動き出す。よく笑うし、よく喋る。煙草も吸う。たまには酒も飲む。料理だってするし、ゴミも欠かさず指定の曜日に出している。金遣いだって豪奢なもんだ。あくまでも比率上の問題ではあるけれど。
文章だってできるだけ毎日書いてしまうよ。書くことがないと言いながらも、それなりのレベルの文章を毎日だ。駄文だの雑文だのと予防線を張ることもなく、驕り高ぶっているわけでもなく、謙虚という安全圏に逃げるような情けない真似もしない。そういうおれの態度は、おれからの一定の評価を得ている。おれがおれである限り、おれは安心する。それから? それから。それだけだ。おれがほかの連中より劣っていないところはそれくらいのものだ。でも元気があるだけ大したものだよ。そうは思わないかい?
なにもない場所を徘徊し掘削し、そのなにもなさにうんざりしてはいるが、それでもここにはなにかが眠っているんだ。眠っていないかもしれない。そんなことは誰にもわからない。有り、無し。おれは有る方にベットした。実際にこれだけの量の文章を書けているんだ。こんな芸当、おれ以外に誰がやるってんだ。まあ誰がやろうがやるまいがおれには関係のないことではある。でもこんな文章を他の人が書いているとしたら、おれはそれを読んでみたいよ。たぶんおれの読みたい文章ってのはこれなんだ。
なにも起こらない、なにも書いていない、あたかも書いていることで先に進んでいるような錯覚が芽生えるが、そんな錯覚は所詮錯覚なので強く拒否。螺旋状の少年は小説を書かないことで成り立っている小説だ。言葉にしてみると、めちゃくちゃありがちですね。ありがちでもおもしろければいいんだろう? そんなことを抜かしているやつらばかりじゃないか。おれは違うぞ。そんな連中とは一線を画す。どこがどう違うのかは、また別の機会で。




