表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
83/99

ほとんどビョーキ!

 そうだ、おれも42歳になったことだし。ということで、ピエール瀧の体操42歳をみて笑っていた。

 緩んだピエール瀧の身体と突き出しつつある己の腹を見比べながら、だらしない身体になっていくというのも決して悪いことではないのかもしれない、そんなふうに自己正当化を図る阿部千代なのであった。

 それでもチョコ菓子を我慢するのはなぜか。なぜだろう。本気で痩せたいのであれば運動をするべきだ。だが運動などをしている暇はおれにはない。だってなんだかよくわからないうちに一日が終わっていくのだから。野放図に伸び続ける髪をうっとうしく思いながら、ただ日々は過ぎていく。運動の入る余地などあるわけがない。それに運動は身体には良いものかもしれないが、精神には良いものとは言えない。病的にポジティヴになって、筋肉は嘘をつかないなどと言い出してしまう。実際にそんなことを言い触らしていたかつての阿部千代だった。

 それでも思い出したように腕立て伏せなどをしてみることもある。十回もやれば、もう結構。もうたくさん。もういいです。そういう気分になる。運動など貧乏揺すりくらいでじゅうぶんだ。自己正当化の波にのみこまれ、おれは肥えてゆく。そしてそのうち消えてゆく。


 自己正当化できるうちはまだいい。まだ頭がまわっている証拠だ。いまの自分に満足しようとしている限り、過激な行動に出ることはないだろう。おれは他人に迷惑を掛けてまで自我を貫こうとは思っていないが、頭がおかしくなってしまったなら、話は別だろう。もしおれが積極的に外へと出掛けて、他人との距離を縮めようとするとしたら、そのおれはもう目も当てられないくらいに狂っている。だがそんなふうに狂ってしまえ、そうせっついてくる連中がいる。狂わないと社会復帰させませんよ、そうくるんだ。

 勘弁してくれ。おれは元々こうなんだ。ずっとこれで生きてきたんだ。なぜいまさらおれをキチガイにさせようとする? 付き合ってられない。マジで付き合ってられないぜ。

 付き合ってられないから、適当にでっちあげる。この日は朝からお散歩に出掛け、そのあと図書館に行って読書、あとはええと、よく覚えてないけどいろいろやりましたよ。もちろんコミュニケーションもばっちり。人とぶつかったらごめんなさいと謝ることもできたし、コンビニの店員さんにはどうもありがとうってちゃんと言いました。巡回中の警察官どのには、いつもご苦労さまですって敬礼。ご近所の皆さんにもしっかり挨拶。どうです、完璧でしょう。

 こんなに狂ってるアピールをしているのに、野郎、もうひと息ですね、なんてあっさり言いやがる。なにがどう、もうひと息なんだ? これ以上なにをしろってんだ? おばあちゃんの手を引いて横断歩道を渡るとか? そんなおばあちゃんはきょうび外に出てきやしないし、困っているおばあちゃんに声を掛けるやつなんて、かっぱらいか詐欺師に決まっている。


 野郎の陰気な目つき。どっちが病気だかわかりゃしない。というよりも、おれは別に病気ではない。そんなことはおれが一番わかっている。本物のうつ病をおれは間近で見ていたんだ。ベッドから一歩も出ることができず、ジャバ・ザ・ハットのように太っていた。おれの老人嫌いは彼女からきていると言ってもいい。彼女のいる部屋の臭い、空気。彼女の体臭と、簡易トイレに溜められた糞尿、爺さんの使う油絵の具の混ざり合った、あの臭い。

 少年野球の練習のお弁当として、おにぎりを作るおれに、珍しく部屋から這い出してきた彼女が声を掛けてきた。わたしにも……おにぎり……ちょうだい……。かぼそく掠れた声で懇願してくる。おれが感じたのはダイレクトな嫌悪と恐怖だ。脂肪の塊がにじり寄ってくる……! 立ち上がったジャバ・ザ・ハットは妖怪百目だった。

 言われるがまま、おにぎりをふたつ作って、ベッド脇の丸椅子に置いてやった。呼吸を止めながら。大嫌いな空気を吸い込まないように。でかいカンバスには夕暮れの漁港の絵。あんな地獄のような部屋の中で、なんの変哲もない風景画を描いていた爺さんはいかれている。

 練習から帰ってきてから、そっと部屋を覗いてみた。おにぎりは手をつけた形跡もみられず、そのまま置いてあった。彼女はベッドの中で黙って天井を見つめていた。いったいなにを考えていたのだろう。


 人間やめますか。人間をやめることができるのなら、とっくにやめている。なにを打ったって吸ったって、人間を簡単にやめることなどできるわけがない。リアルに感じるのは残酷で陰湿なものばかり。もううんざりだ。何度これは夢だと思い込もうとしたことか。そして、これは夢ではないのだ、そう諦めてしまったのはいつのことだったか。決して諦めずに信じていようとすれば、おれは夢の住人になれたのかもしれない。それがたとえ精神病とカテゴライズされる人間だったとしても、そっち側からみる現実の方がリアリティがある。そこには、希望があり、宇宙がある。

 虚構と虚飾が絡み合って腐ってゆく劣化した現実で苦悩して生きていくのはおれのプライドが許さない。腐った屍体と四苦八苦しながらファックするくらいなら、一生童貞の方がよっぽどマシだ。ファックなんて所詮はファックだ。一瞬の幻だ。そんなものを追い求めてどうする。そんなものに踊らされてどうする。おれはペニスではない。垂れ流すだけが能じゃない。ベッドの中で一日中天井を見つめていたって別にいい。虚構にびびって虚飾を崇めるなんてまっぴらごめんだ。しつこく天井を見つめ続けているとそのうち動き出すんだぜ。リアルな話。


 おれがなにを手繰り寄せているのかは知らない。求めれば求めるほど、それは遠ざかって見える。だからもう最近はあまり考えていない。それでもおれには希望が満ちあふれている。希望がなければ、こんな文章は書いていられない。書く前に死にたくなってしまう。自殺ね。アイディアとしては悪くない。それを支えにかろうじて生きている人間だってきっといる。いざとなったら死んでしまえばいい。おれもまあ、そんなふうに考えていた。いざとなったら盗んで、それでも駄目なら死んでしまおう。

 そのふたつはもう選択肢から外した。なにしろ面倒だし、いろいろと迷惑が掛かってしまうのも面倒だ。本当に面倒なことしかないのだから参ってしまう。文章を書くことくらいのものだ。面倒ではあるけれど、我慢して取り組めるものなどは。だからこうして文章を書いているわけだけど、だからどうしたってこともない。ただ先に進めたいだけだ。

 切り抜けていかなければならない。とにかく……まあ、頑張って。頑張ってどうにかするんだ。しかし頑張るって言葉ほど浮ついたものもないな。いままでなにも意識したことはなかったけど、おれはこの言葉、嫌いかもしれない。だけど世の中、頑張る頑張る、だ。張り切っていきましょう。割り切っていきましょう。頑張っていきましょう。胸張って生きましょう。くたばっちまえ。


 進んでいく、刻一刻。各員の額に刻まれた服従の刻印。どうやら気づかれたらしい、近づいてくるどよもし。地下室に飛び込み、蓋を閉じ、潜める息、流れる汗。枷で繋がれるくらいなら、噛み砕くか、奥歯に被せてあるカプセルを。いいや、まだまだ。切り抜ける手はある。足掻けるだけ足掻く。騙せるだけ騙す。そして曝け出す。夜空を覆った雲がスクリーンだ。分厚い雲に閃光のメッセージ。スクリーム。声なき悲鳴に耳を傾けよ。偉そうな連中に蹴りを食らわせろ。紛い物にはノーを突きつけろ。いまだ、地下から溢れ出せ!

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ