空き容量がありません
つまりおれが言いたいのは、なんでもいいから書き出さなければ一文字たりとも文章は進んでいかないということ。小説であろうが論文であろうが、べつに便所の落書きでもいいけど、誰かがなにかを書き出して初めて始まるんだという、そういうことだ。そこに意思が宿る。ふと横を見ると、ゆみこはヤリマン! そう書いてあったとしよう。それは自然に発生した模様ではなく、誰かが書いた文章なのです。
つまりおれが言いたいのは、なんでもいいから書き出さなければなにも始まらないということ。それが螺旋状の少年であろうが、クラッシャージョウであろうが、ああ無情であろうが、あしたのジョーであろうが、博多っ子純情であろうが、バンジョーとカズーイの大冒険であろうが、なんでもいいよもう。
世界は糖衣に包まれたジェリービーンであり、それはつまりポイフルだった。見上げれば飛行船が飛んでいて、デパートの屋上にはアドバルーン。空の色は昭和臭い水色で、少年の笑顔はまるで小松崎茂のようだ。もはや戦後ではない、誰もがそう信じていたが、終戦はおれが産み落とされるたった37年前の出来事なのだった。
そんなおれがミドルティーンになるころには、すでに携帯電話が世の中に蔓延していて、おれは携帯電話なんかよりトランシーバーが欲しかったのだが、携帯電話にカメラがついたとはしゃぐ連中はすこし頭がおかしいのではないか、というおれの疑問などは、いまやおれにすら無かったことにされている始末だった。
おれが写真を撮ることにまったく興味がないのは、そこにおれが写っていないから、ということに尽きるのだった。自分大好き。文末に、だった。を最近使い過ぎている気がするが、おれにどうしろと? 文章で同じ言葉が並んだりするのは頭が悪い感じにみられるかもしれないが、その他の部分でねじ伏せればいい。
みんな写真を撮ることが大好きで、少しでも感情が動くと写真を撮り出すので、おれなんかは苛々してしょうがない。まあ別におれに関係ないといえば、それはそうなのだけど、なんとなくうるさいのです。おれなどは2024年に入ってから一枚しか写真を撮っていないし、それもメモ代わりの写真であり、すでにメモとしての効力はなくなっている。だが2024年はまだ始まったばかり。おれはまだお正月気分だ。2023年が抜けきっていない。
突然デジャヴがおれを襲った。前にこんな文章を書いたことがあるという強烈な気分。むしろ読んだことがあるという気分。こんな文章に文句を言っていたような気がする気分。しかし文章として書いた途端に、デジャヴは退散していった。デジャヴは本当に不思議な現象だ。いろいろともっともらしい理屈はつけられているが、感覚としてのデジャヴは理屈なんて吹っ飛んでいくほどにリアルである。まあ気のせいということなのだろうが、だとしたら気のせいのパワーってすご過ぎるし、この世界は各々の気のせいで回っていると考えると、こんなに恐ろしいことってない。だけど、それはひとつの真実である。おれは人間社会を地獄だと思っているが、気のせいを原動力に世の中が回っていると考えると、むしろよくこんなもんで済んでいると考えるべきなのかもしれない。それでも、危険はいっぱいだ。プーチンとかネタニヤフとかトランプとか。あいつら、マジでなにを考えているんだろう。いや、ドブ臭い理屈で動いてはいるのだろうけど、理屈だけでは済ませられない不条理さがある。今は亡きシンゾーにもそういうものを感じたものだが、やつは最悪の形で死んでしまったのだった。あの時は、マジで日本終わったと思ったものだが、どうやらもともと終わっていたみたいで、どうもおれの心配は杞憂に終わったようだ。
自分自身でやめようとしない限り、おれは勝手に文章を書き続ける。書くことによって失うものなどなにもない。拒絶も嘲笑もおれをさらに逞しくするだけだ。どんなに出来の悪い文章を書いたとしたって、それがなんだというんだ。おれには傷のひとつもついちゃいないぜ。おれはボロボロになってまで生きたいとは思わないが、ボロボロの基準を年々棚上げしていって、ボロボロになった挙げ句に死ぬのだろう。
最悪を更新し続けるんだ。最悪の文章を書き続けるんだ。それ以外にやりたいこと、できること、なにもない。本当になにもかも、きれいさっぱりなくなってしまった。ジャラジャラ身につけていたアクセサリーも。誰彼構わず振りまいていた愛嬌も。やわい心を頑なに守っていた錠前も。ぜんぶどこかへ行ってしまった。なくしたことも気づかないうちに消えてしまった。けれどもそれでいいのです。最初から大切なものでもなかったから。最初からなにもなかったから。
おれはボロボロになってまで生きたいとは思わない。ラクして生きていたいんだ。ズルして文章を書き続けていたいんだ。それ以外にしたいことがないというのはラクなもんだ。こうして文章を書いていれば今日の仕事はいずれ終わる。あとはぼんやりするだけだ。米を買ったり、キッチン泡ハイターを買ったり、野球の試合をみたり。おれは必要以上に苦しむべきじゃない。
ほかの人間はどうだか知らない。おれから見ればマゾヒストの群れだ。職場での話題づくりのためにテレビのニュースをみたり、バラエティショウをみたりしていると、すこし得意げに語っていたやつ。かつてはラバーソールを履いて爪を黒く塗っていた。おれの記憶が正しければ。おれの記憶は正しくないかもしれないが。いや、きっとおれの記憶違いだ。だってこんなやつ、おれは知らない。
おまえはピーターパンだな。
そう言われたよ。はっきりと。
むかつきもしなかった。ただどこかでピーターパンのことを文章に書いたな、そう思って、なんだかおもしろい気分になった。
羨ましいか? 一緒に行こうよ、ネバーランドへ!
彼はおれの差し出した手を取ってはくれなかった。もちろん。なんの期待もしていないし、中年同士が手を握り合うなんて想像しただけで、オエッ、だぜ。
彼の微妙な顔つきはなにを語っていたのだろうか。期待には応えられなかったかな? そんなことないよ、おれだっていろいろと苦労してるんだよ。そう反論すれば満足だったか? 冗談じゃない。マゾヒスト自慢に付き合っていられるかよ。おれはおまえの予想を外すことに命を懸けているんだ。おまえの。おまえたちの。予想通りに動いてたまるかってんだよ。おれはトリッキーに立ち回るぜ。おまえたちの目をくらますぜ。おれになにを期待していたんだ? よしよし偉い偉いってしてほしかったのか? 甘えるな。自分の肯定くらい自分でしやがれ。
もういいよ。文章を読まないやつらはいかれてるよ。文章を書くやつもいかれてるよ。それで満足だろう? 活字離れなんて知ったことじゃないよ。人間は群がっては離れてを繰り返すものだろう。ひとり置いていかれるのが嫌なんだろう。おれはいいのよ。おれのことは気にせんでください。後から合流するから。うん。先に行ってて。
そう言って、行きたいところに行くのだった。合流? するわけないだろ馬鹿め。でも行きたいところなど、あるわけがないのだった。だからお家に帰ろう。さっさと帰って寝るべし。寝て、起きたら、文章を書く。それはこんな書き出しで始まる。
つまりおれが言いたいのは、なんでもいいから書き出さなければ一文字たりとも文章は進んでいかないということ。




