柿だけは食えない
なぜドラクエは皆から良い子良い子とよしよしされて、ファイナルファンタジーはキモいとか終わったとか虐められてしまうのだろうか。おれはもう比べるまでもなくファイナルファンタジーの方が圧倒的に偉いと思うのだけど、特にXIIIは日本のゲームの最高峰だと思うし、XVだって狂っていて最高ですよ。まあそれくらいしかやったことないんだけどね。
ドラクエっていまだに壺を割るじゃない。タンスを漁るじゃない。魔法を使うとペラリラって言うし、レベルアップの音はいまだにテレレレッテッテッテーでしょう。マップ切り替えはザッザッザだし。老舗のこだわりぶっているけど、単に演出がチープなだけですよね。あまり使いたくない言葉だけど、思考停止って言葉がドラクエにはふさわしい。ドラクエがドラクエたらしめているのは、そんなガワの部分なの? っていうさ。
それを言ったら、ポケモンもいい加減に声をつけろよって思うね。だってプロモーションアニメでは、ナンジャモちゃんがちゃんと喋っているのに、本編では声なしって、それもう意味がわからない。どっちかにしろよ。というか、声をつけろよ。天下のポケモンがいったいなにを怖れているんだ?
ゲームおじさん。普段はこんなことばっかり考えている。文章を書くときばかりはもうすこし自分の内面をえぐっていくようなことを考えるふりをしているけど、今日はもうそんな気にもならない。
正直に言ってしまうと、おれはゲームが一番好きだよね。ゲームで遊んでいるときが一番の幸せ。しみじみと、噛み締めるように、おれっていま最高級の幸せを感じているよなって自覚するときは、いつだってゲームで遊んでいる最中。それも一生懸命カチャカチャ操作している瞬間ではなく、大体が移動中だね。ゲームの中で次の目的地へと移動しているとき、一段落して心が安まっているとき。ホワイトランからマルカルスへと徒歩で向かうとき。ロスサントスの郊外で自転車を漕いでいるとき。
そんなおれには小島監督のデス・ストランディングは最高のゲームになりうると予感していたのだが、いまだに遊んだことがないのであった。
だがゲームで遊ぶだけの日々は本当に虚しい。それだけがゲームの弱点だ。人生を支えてくれるほどの強度がない。信仰になり得ない。あ、基本的におれのいうゲームとはソロプレイです。オンラインマルチプレイは好きじゃない。人と足並みが揃えられない。効率プレイができない。みんな働き者だよなって思っちゃう。
唯一の例外でLEFT4DEADはめちゃくちゃ嵌まって、おれって世界でも有数のサバイバーじゃね? ってくらいに腕にも自信があったけど、あれの良いところは、基本が助け合いなんですよね。おれなんてもう、みんな助けちゃうからね。自分の身なんていくらでも捧げちゃうから。誰ひとり脱落させたくない。おれに構わず先に行け。
しかし、ゾンビー……L4D内では感染者ではあるが、ああいうやつらって元は普通の人間なんだよな、ってそう思ってしまった瞬間、ゾンビーをゲーム内で殺戮するのが途端に嫌になった。それからはゾンビーを殺しまくるゲームはプレイしていない。気持ち悪いくらいにナイーヴなおれ。ゲームはゲーム、現実は現実。んなこたあわかってる。ゾンビーゲームが嫌いなわけではないし、有害なものだとも思っていない。それを遊んでいるおれ自身が嫌になったんだ。おれの中でなにが発動しているのかを見て、それを自覚して、嫌になったんだ。だから自主規制したんだ。
人間はいくらでも残酷になれる。ということは、おれだってそうだということだ。虐殺の例はいくらでもある。ルワンダ虐殺は他人事じゃない。おれがその状況にいれば殺す側にいたかもしれないし、その逆だったのかもしれない。人間の、自分自身の残虐な部分に自覚的でいることが、悲劇を繰り返さないために必要なことではないだろうか。
説教臭おじさん。……こんな話をしたかったわけじゃねえ! 今日はもうのんきなことを書いてラクしようと考えていたのに、おれってやつはなんなんだ。そういうとこだぞ。おれが家族や友人にさえ、面倒くさいやつと言われてしまうのは。
でも、おれ間違っているか? 正しいとか間違っているとか、そういう問題ではないのです。人間をもっと信用してみましょう。あなたが自分を信用しているように、他人のことも信用してみましょう。言葉にしていないからといって、みんななにも考えていないということではないのです。そして、あなたが自分を信じていないように、他人のこともみだりに信じないようにしましょう。言葉にしているからといって、それを実践しているかはまた別の話です。みんな大体一緒です。みんな同じで、みんなクソです。例外はありません。しかし同時に、みんな違って、みんないいのです。それらは両立します。すべては同時に起こっているのです。どちらの針にも振れています。どちらも人間で、どちらも自分です。残虐と慈愛は仲良く同居しています。ルームメイトです。ふたりが仲睦まじく暮らすその部屋があなた。部屋を掃除しましょう。あなたは部屋を散らかしてしまう悪癖があります。すっきりと整理しましょう。カラーボックスを活用しましょう。デッドスペースを作っていませんか。平面ではなく立体として部屋を捉えましょう。100円ショップは宝の山です。リサイクルショップを賢く利用しましょう。貧乏人は格好つけて暮らすのはやめましょう。野良犬のような眼つきですれ違う人の顔をいちいち見るのもやめてください。わたしのもとにクレームが殺到しています。これでは仕事になりません。いますぐ人を増やしてください。割に合う仕事とは到底いえません。キミとはやってられんわ。ありがとうございました。
狂ったAIがやわらかい合成音声で喋っているようなイメージで書いていたのだけど伝わりましたか。やっぱり前提がないと伝わらないのかな。どうもきみとはわかり合えないみたい。
そしておれは螺旋状の少年が小説だということをすっかり忘れていた。まったく気楽なものだ。世の自称小説家たちは、懸命にプロットを組んだり、魅力的なキャラクターを生み出そうと四苦八苦していたりするというのに、おれといえば好き勝手に書き散らして、たまに思い出したようにこれは小説だよ、そう書けばそれでいいと思っているんだから。
まあでもおれが小説だと言ってしまえば、結局のところそれは小説なんだ。小説であれば内容はどうでもいいと言うなら、それでいいと思うよ。そうは言っていないだろう。そう言っているように聞こえるが? もういい、やめよう、これじゃ水掛け論だ。
水掛け論をNGワードに指定したい。水掛け論という言葉が飛び出す場は、どちらか、あるいは両者ともに聞く耳を持っていないことが多い。水掛け論という言葉を口に出す前に、考えてみよう。自由に思考してみよう。その自由さの前にはどんな議論だって、どうでもいいじゃん、なんだっていいじゃん、そういう結論に陥りがちだが、そこでもう少し踏みとどまってみよう。そこからなにが見える? なにも? 本当に? きみは想像以上の頑固者だな!
さて、そろそろサヨナラの季節だ。花に嵐のたとえもあるさ。あるさ、と言われてもさ。そんなたとえは聞いたこともないおれのような人間は、その言葉をどう捉えていいのかよくわからないのですが。まあいいじゃん。なんだっていいじゃん。どうだっていいじゃん。さよならだけの生涯を送ってきましたってことでいいじゃん。




