次の駅まであと何分?
なにごともなかったように文章を書こう。実際のところ、なにもなかったのだ。ただおれの心は揺れていた。揺れながら、ぶれながら、それでもまあ仕方のないことだ、そういった諦めの気持ち、それに対する自身の行動に対する責任感の欠如への非難、と同時にそこまで深く考えるほど大層なことではないだろう、そんな感じで揺れながら、ぶれながら、眠気と戦っていたのだけど、眠気のヤツは強かった。
気づいたら、雪がそぼ降る街の中でひとり、晩の食材を求めてさまよっているのだった。贖罪のような気分を抱えたまま、足元はスノーシューズで雪対策はしっかりとしているくせに、重みでたわむビニール傘を持つ手は手袋を忘れて、剥き出しの素肌を寒気にさらすというポカを盛大にやらかしていた。右手と左手を交代交代でダウンのポケットに突っ込みながら、それにしても、晩飯はどうしよう。考え続けていた。なにも決めずに外に出ていたのだった。野菜を食べたい。栄養がとりたい。健康になりたいわけじゃない。嫌な気分になりたくないだけだ。すっきりとクリアな意識を保ちたいだけだ。それが健康だというのであれば、それでいいさ。なんだっていいさ。おれの身体に、いまのおれに足りない成分、つまりいまのおれが欲している味覚を尋ねてみる。おれには何が足りないんだ?
返ってきた答えは、レッドブルだった。あのメタリックな後味を心ゆくまま味わいたいと、おれの身体がそう言うのだった。だからおれは、今晩は鍋にすることにして、ついでにレッドブルを二本購入した。いま、レッドブルを飲みながら、この文章を書いている。雪はとっくに止んでいて、あちこちで溶けてゆく雪の滴がぼったんぼったん落ちる音が、耳にうるさい。一向に翼は授かりそうにない。それでも、なにごともなかったように文章を書かなければ。
まるで鏡の世界に迷い込んだようだった。ふと思いついたというほどのことでもない一節を唐突に書いてみたけれど、次になにを書けばいいのかまるでわからないまま、途方に暮れている暇はおれに許されていない。溶けてゆく雪の滴が時を刻んでいるからだ。おれを急かしているからだ。おまえはいつまでそこにいるんだ? そう問いかけてくるからだ。おれの両手はキーボードに伸びているので、耳を塞ぐわけにもいかずに、なぜだか胸の鼓動が速く打つ。鏡の世界では、光が延々と反射し続けているような、永遠に終わらないような、照明が明滅するリズムに合わせて瞬きをするような、気が狂ってしまいそうな、そんな想像をしてみても、おれには想像力が絶望的なまでにないのだった。光というものは消えるのだろうか。それともどこかに行ってしまうのだろうか。そんなことすらわからないほど、おれには学がないのだ。ただ、消えないのではないかと予想する。その根拠は? 太陽とか、星とか、宇宙とか。動物とか、植物とか、海とか。海の底の方にいる、巨大なイカとか。そいつの目玉とか。そのあたりのことを考えてみれば、光は消えないという予想が一応は成り立つものの、その予想が正しいのかどうか、おれがそれを知る機会は訪れないだろう。おれは正解を求めていないからだ。そんな知識はおれに相応しくない。おれごときが知っていいものではない。おれのような蛮人には、知られちゃいけない秘密というものがあるのだ。
おれに相応しい世界。ドヤ街。橋の下。裏路地。一杯飲み屋。窓の磨りガラス。湿気を含んで重くなった布団一式。蒸れた靴下。電話ボックスに貼られたチラシ。下手くそなグラフィティ。高架下。日に焼けた文庫本。吹きさらしの自転車。油の浮いた水たまり。
眼球の痛みはディアブロ2の狂おしいほどのおもしろさの代償だ。身を削り、電脳遊戯にどっぷりドープに、身を浸す。ドーパミンに侵食された脳が、早く、早く文章を書き終えておくれよう、そう訴えてくる。もはやおれに最前線に赴く理由はない。いつだって、なんだってそうだった。すこし錆び付いたものがしっくりくるんだ。懐古とはちょっと違う。物心がついた時から時代遅れなだけだ。陳腐化を乗り越えた前時代の遺物が放つ鈍い輝きに新鮮な驚きを感じてしまう性質なんだ。そんななか、ビデオゲームだけは、時代とともに歩んできたのだけど、ついにトップ戦線から脱落したというわけだ。だって最新作よりも、旧作の方が胸がときめくのだからしょうがない。滑らかな質感よりも、ごつごつとしたヘヴィデューティーな手触りで幸せになれるのさ。このままのんびり行こう。スクープもスキャンダルも、おれにはもう手に余るものだ。喧噪に背を向け、ひとり我が道をゆくさ。そのうち懐かしい故郷のあの山にぶつかることもあるだろう。
さて、すこしギアを上げようか。急かすつもりはまったくないけど、いまのコンディションで夜明けを拝んだら目が潰れてしまうよ。太陽の光がここいらをすっぽり包み込む前に、さっさと棺桶に潜り込まなければ。夜の住人になってからもうずいぶんになるけど、そちらお変わりありませんか。こちらはいつも静かで過ごしやすく、気分もだいぶ落ち着いてきました。たまに自分でもよくわからない行動をとることもありますが、結局は幼稚ないたずら心が騒いだ結果であり、稚気と機知がぶつかり合うと、秒で稚気が勝ってしまうのだから困ったものです。結局、自分の胸がチクチクと痛み続けることになるというのに。そんなことを繰り返し、繰り返し、繰り返すのはもうウンザリだ。里に下りて悪さをするのはもう止めよう。いつか粗暴な里のガキどもに叩き殺されちまう。オラまだ狸汁にはなりたくねえだよ。寂しいけど、山に籠もるよ。すでに片眉は剃り落とした。これなら恥ずかしくて人前には出られまい。この山籠もり方法はおれのオリジナルだからパクっちゃダメだぜ。しかし山に籠もってどうしようか。仏像でも彫るか。仏像を彫るのと、瞑想、どっちがいい? 瞑想! なぜなら仏像を彫る方法がわからないから。もちろん瞑想だって方法はわからないけど、脳内には一応個人的に似たような感じなんじゃないかなって状態を保存してあるから、その状態を引き出せるように試行錯誤していればいいような気がする。ふとした瞬間にその状態になっている時があるんだよね。気づいた瞬間にその感覚は霧散していくんだけど、あの感じを長続きさせるのが鍵だと思うんだよ。でも大変だろうな。まさに苦行だと思うよ。すごく肩が凝りそう。おれは落ち着きがないから、じっとしていると肩がすごく嫌な感じになるんだよ。ビートたけしの首をクイックイッてするような動きをしたくなってしまうのだった。実は肩が凝るって感覚がわかっているようでよくわかっていないのだけれど、あの動きをしたくなる感じってことで合っているでしょうか。肩が痛い、腰が痛い、背中が痛いって感じがよくわからない。筋肉痛とは違うらしい。知らない人に身体を触られるのが嫌いだから、マッサージに行く人の気持ちがわからない。なにもわからないんだ、おれなんて。わからない状態を良しとして、なにもわからないまま文章を書いているだけだよ。
学ぶ方法がわからないんだ。勉強ってものをしたことがないから。嘘のような本当の話。本当に生まれてから一度も勉強をしたことがないんだ。できる、できない、とか以前にしたことがないんだよ。勉強ってなんだ。どうすれば勉強になるんだ。おれはいままでどうやって生きてきたんだ。なぜおれは言葉を理解できるんだ。いや、おれは果たして言葉を理解できているのだろうか。わからないね。わからないことしかないね。でもそれでいいんだ。だっておれはギターウルフが好きだから。