どこまでもニュータウン
さあ、文章を書こうというときに書き出しで詰まるのは、つまりはいつもと違う感じで書き出してみたいというおれの欲求、昨日ともいままでともまったく違う書き出しを求めているからだ。ところがそのようなものはない。おれの頭が硬化しているのか、そもそもおれは文章を書くということをまったくわかっていないのか、おれにはなにもないのだろうか。そのようなことを考え始めて、たった一行が、いつだって手元にあるべき最初の一行が遙か遠くにあるもののように感じてしまう。
だがここでいつまでも悩んでしまっては、なにも進みやしない。そのままここに留まって、自分が納得いくまで考え続けるのもひとつの手だろう。もしかしたら、おれはそうするべきなのかもしれない。そういうふうに文章は書かれるべきなのかもしれない。しかし、おれは自他共に認めるせっかち者なのだった。
そういうわけで、今日だってこんな感じでぬるりと文章を書き出す。言い訳めいて見えるかもしれないが、実際に言い訳なのだから仕方ない。本日の螺旋状の少年は言い訳から始まる。
一般に言い訳というものはあまり良いものとは捉えられていないように思う。だけど言い訳くらいさせてくれたっていいじゃないか。言い訳くらい聞いてあげたっていいじゃないか。あらゆる言い訳には聞くべき部分がある。言い訳と説明を恣意的に分けるべきではない。言い訳をするのは恥ずかしいことではない。もちろん誇るほどのことでもないけれど。
静かな暮らしだ。トラブルに巻き込まれることもなく、厄介なやつに目をつけられることもない。おれはずっと敵を求めて生きていた。長い間、おれの人生の問題のひとつは、敵がいないことだった。うっとうしいやつらは佃煮にしてやりたいくらい溢れているのに。だが連中だって個人になってしまえば、皆それなりに気のいいやつらなのだった。おれと同じくらい性根のねじ曲がったやつだって、ふたりになってしまえばちゃんとおれに気を遣ってくれるのだ。そういう意味でも、人間はやはり個人のままでいた方がいい。確かに連帯は人間を強くするかもしれない。しかし、連帯の中に発生する力学は、多くの場合において悪い方向に働くように思える。おれは、おそらくそういったことが本能的にわかっていたのだ。
集団の中にいると、おれは収まりが悪い気分になる。ずっと演技をしているような、演技をしている間に両手をどこに置いたら自然なのか、そういうことをずっと気にしているような、そんな気分になってしまうので、おれは集団を離れ、葉っぱをめくって昆虫を探したり、野鳥のさえずりに導かれて森の中へと迷い込んで行くのだった。その後、おれの姿を見た者はほとんどいない。
だが、阿部千代はどっこい生きている。倦怠のアウラを纏いながら、今日もチョコレート菓子を我慢したりしている。おれはどうやらクソ野郎と言い過ぎていたらしい。わかってほしいのは、おれがクソ野郎と言うとき、それは特定の誰かを指しているのではないということ。おれが特定の誰かを標的にして悪口を言うときは、ちゃんと個人に対しての悪口だと明確にしている。と思う。
おれのいうところのクソ野郎とはおれがいままで実際に見聞きした醜い連中の総体であり、それはおれの物心がついたときから絶えることなく燃えている怒りの炎が映し出すダイモーンだ。
そんなことは自明の理だと思っていたが、確かに考えてみれば、すべておれの中で起こっていたことであり、他人からすると知ったことではないのであった。
これもまた、言い訳なのだ。本日の螺旋状の少年は言い訳がましいと思う向きもあるかもしれないが、さきほども述べたとおり、人類は言い訳にこそ耳を傾けるべきなのだ。おれが主張したいのは、こんなにおしゃれに言い訳をしている人間を、あなたは見たことがあるか? そういうことだ。
おれはなにかを打ち負かしたいわけではない。ただ踏みにじられたくないだけだ。同時に踏みにじられている人間を見聞きしたくないだけだ。それさえなければ、みんな個々で好き勝手にすればいい。悪辣なやつは罰を恐れず暴れまわればいいし、ひょうきん者は笑いを狙っていればいい。そういう人間たちとおれが出会ってしまったら、その都度その都度でどうにかするだけだ。なるべく鉢合わせしたくはないから、なかなか森から出てこないとは思うがね。おれが妖精と呼ばれる所以だ。そう呼んでいるのはおれだけだが。
妖精といっても、ティンカー・ベル的なそれではない。どちらかといえばプーカ的なやつだ。それも、伝説上の恐ろしいプーカではなく、カートゥーンチックな間抜けなやつのイメージだ。おわかりいただけるだろうか。別にわかってもらえなくとも、なにも問題はない。ちなみに螺旋状の少年は、ネクロスの要塞のダークエルフと、山下和美の不思議な少年のイメージのミックスだ。なんとなくおわかりいただけるだろうか。もちろんわからなくてもぜんぜん良いんだ。なにも気にすることはない。
それにしてもネクロスの要塞のイラスト担当はどなたなのだろうか。おれはあの人の絵が昔から大好きなんだ。ネクロスの要塞以外の仕事はまったく知らないが。そもそもネクロスの要塞が通じる人がどれだけいるのだろうか。おれはビックリマンなんかよりも、断然ネクロスの要塞に夢中だったんだ。昔からアンチポピュラーな姿勢を貫いているのがわかって、自分でも気持ちがいいくらいだ。
そろそろ菊池と秋山は限界だと思う。ウエスタンでモノの違いを見せている佐藤啓介を支配下登録して、セカンド佐藤、サード小園、ショート矢野がベストだと思うのだが、どうだろう? ごめんなさい。藤井ヘッド、新井監督への私信です。
とうとう書くことが見つからないのだった。また書くことないって書いてる! 少し言い方を変えてみてはいるんだけどね。いや、本当にこのレベルの文章を毎日書くって大変なんですよ。まあ大変ってほど大変ではないんだけど、書くことがね。書くことさえあれば、いくらでも書けるんですけどね。なにしろ書くことが。でもこういう書き方を選んだのはおれだから、こればっかりは言い訳できない。書くことなんてどうでもいいこと。書くことがなくても書くこと。書くことがなくても書くことができること。ことことうるせえなあ、おまえはシチューか! こんなことは近頃じゃ若手お笑い芸人でさえ言わない。むしろ、志の高い若手芸人こそ、こういうことは言わないだろう。日本のお笑いも脱構築がずいぶんと進んでいる印象だ。このままいくと、わけがわからなくなりそうだ。文学みたいになるかもしれない。それはそれで見たいかもな。モロイを下敷きにしたコントとか。いや、あるな。たぶんだけど、これはもうあるだろう。ゴドーを待ちながらと勘違いしてない? いやおれが実はモロイを読んだことがないのは内緒だ。だって本が高いんだもの。しかし市場に物があるうちに確保しておかなければという気持ちもある。ああいう代物は資本主義と不景気に飲み込まれつつある。世界的名作であろうと、金にならないものは容赦なく斬り捨てられる。実際、ベケット三部作が書店に並んでいなかった時期が結構長く続いていた気がする。いつでも買えると思ったら大間違いだ。ボードゲームと海外文学は特にそうだ。迷ったら買っておけ。買えるうちに買っておけ。なに、帳尻なんてどうとでも合わせることができるさ。金は失うためにある。それにおれは金がなくならないと働き出さない。早く働きたいのはやまやまさ。だけどまだお金がちょっとだけあるもんで。ゼロからのスタートってやつがおれは好きなんだよ。




