ナチョスを素手で食う男
なんだか阿部千代人気が高まりつつある。データーがそいつを立証しているし、そういった雰囲気をおれ自身が肌で感じてもいる。だがこういうことを書くと、途端にそっぽを向いたり悪意を向けてきたりするのが他人というやつだ。おれはオリンピアンでもないし、うたのお兄さんでもないんだ。増長するのもはったりを吹かすのもおれの勝手。毎日毎日、こうやって風を吹かせている。それはそよ風もそよ風かもしれないが、風が風を呼び、いずれはどこかで嵐を巻き起こすこともあるだろう。そう、バタフライエフェクトってやつだ。
ただそんなこととは関係なく、おれは粛々と文章を書いていくだけだ。大事なことはそれだけなんだ。おれはどんなに蔑まれようと持ち上げられようと、螺旋状の少年を見失うようなことはしない。おれの立っている場所、おれの価値、遥か遠くおれが眺めているところ、すべてをはっきりと見定められている。だがそれらはほんの些細なことで揺らぎ出す。ほんの一瞬、よそ見をしただけでだ。なぜならおれもまた愚かな人間の一員であるから。貧弱で冷酷で軽薄な血を受け継ぐ者であるから。
人気者になる準備はとうにできている。とっくの昔に覚悟は完了してある。あとはきみたち次第だ。おれは大きいことも小さいことも言葉にすることを躊躇いはしない。偽物の謙虚さなどは見飽きてしまったよ。おれは過小な評価に晒されすぎた。それでもおれのおれへの評価は揺らぐことはない。頼もしいやつだ。おれがおれであることに安心する。これは慢心ではない。空振り三振でも絵になる男。それが阿部千代なんだ。
こいつ何様のつもりだムカつくわ、そんなふうに感じるナイーヴな読書諸兄もいらっしゃることだろう。おれはこういった態度を表明することを、古今東西のラッパーたちから学んだ。彼らのそういった物言いは、単なる自信過剰、自意識過剰のなせるわざではない。もちろん自分の磨き上げてきたスキルに対しての絶大な自信がある。だが同時に彼らは知っているんだ。ぶち上げた後の不自由を。吹き上げたからには、半端なことをするわけにはいかないということを。自分のラップがリアルになるかフェイクになるかは自分次第なんだ。そういう場所で彼らは闘っている。
だから、まあ、おれもそれの真似をしているってわけだ。
文章において、リアルかフェイクかってことはそこまで重要なことではない。ただ文章を書く人間として、おれ自身がリアルかフェイクかということにはこだわっていたい。なにしろ少なくない数のフェイクどもがどデカいツラして大股で歩いている。気に食わないどころの騒ぎではない。やつらの顔面に一発お見舞いするには、やっぱりきみたちの協力が不可欠なんだ。
螺旋状の少年たちに告ぐ。おれを担ぎ上げよ。おれは、ちやほやされたいわけでも、金を稼ぎたいわけでもない。ただ単にムカつく連中をおびやかしたい。こんな文章を書く動機はそれだけだ。これが本物の謙虚さってやつなんだ。チープなフェイク連中の襟を正してやろう。ドープな方向からのバークアウトでびびらせてやろう。さあ、一発食らわせてやるんだ。
やっぱりアジるっていいね。気持ちがいい。アジテーションの文言を考えるバイトとかないかしら。いや、ダメだ。そんなお手軽に扇動者の一味に加わるわけにはいかない。ましてや金をもらうなんてこと。デマ飛ばし三流雑魚ライターでしかなかった石井孝明が、クルド人ヘイトでヒットを飛ばしてデカいツラしている姿を見たまえ。扇動で金を稼ごうとする者の醜さを。てめえは穢らわしい憎悪をこれでもかと撒き散らすくせに、少しの怒りを向けられると途端に被害者ムーブだ。情けないやつ。本当に情けない。同じ人間として情けない。そしてこんなデマ飛ばし屑野郎に乗せられるゼノフォビアの皆さん。情けないよ。恥ずかしいよ。
ここ小説家になろうでは、一人称が熊のやつがいるな。あいつが小狡いのは、まとまった文章では自分のそういった部分は出さないところ。つまりはまあ、無自覚に差別的な言説を垂れ流すやつよりかは、自分の差別意識に自覚的なんだろう。だからこそ厄介だとも言える。だがおれはおまえの正体を知っているぜ、ヘイト野郎。
たまに思い出したようにヘイトスピーチを垂れ流しては、そのあと怒涛のリツイートで誤魔化すおまえの手口。誤魔化すくらいなら、どうしてあんなことをするんだ? 反応を伺っているのか? それともたまには差別をしないと息が詰まってしまうのかな? ツイフェミ叩いて、ネトウヨや暇アノンと一緒にキャッキャウフフしてるだけで満足していろよ。創作界隈とかいう謎の界隈ではしゃぐだけにしておけよ熊野郎。
左、中、右。知らないよ、そんなこと。おれには関係のない話だ。おれをラベリングしたいのなら勝手にするがいい。左翼。リベラル。反日。売国奴。なんだっていいぜ。好きにしてくれ。どうみなされようがおれはおれのままだ。おれのやり方で、おれの文章を書くだけだ。あなたたちの影響を受けることはない。反発することはあるかもしれないけれどね。
インスピレーションは蓄積からもたらされる。蓄積された様々な形状の欠片たちが、怒りの熱に揺さぶられ、時の流れにより熟成され、いつしか馥郁たる香りを放つ。そいつを言葉に変換して綴っているんだ。苦手なやつは苦手だろうな。ろくなものを読んでいないやつには特に。その臭みにえぐみに、顔をしかめてしまうかもしれない。きみには少し早かったようだ。いろいろとお勉強してから出直しなよ。それか、口当たりのいいものだけで一生満足していなよ。おべっか使いのケツを舐めまくって、お互い気持ちよくなって昇天しっぱなしでいろよ。グロテスクな自意識と発達しない無意識を、丁寧にタオルで隠しながらぬるま湯に浸かっていな。
こういうことならいくらでも書いていられる。品の良い悪態を吐くことに関しては、一芸を持っているつもりだ。しかし、こんなことばかりを書いているわけにはいかない。所詮はこんなものは小手先だけの遊びなんだ。おれも遠慮と慎みってやつを一応は知っているつもりだ。そして慈しみの気持ちを持って文章は書かれるということも。優れた文章には、あらゆるものが宿るんだ。書かれている文章の内容がどうであれ、言葉のチョイス、リズム、そのほかいろいろ。そういったものが、一斉に束になってきみに襲いかかる。きみの感情を揺さぶる。もちろんきみの感度がよければの話だけど。
言葉の冒険に終わりはない。どんな時代だって冒険の旅に出る者は後を絶たない。身を任せることだ。いつだって文章は結果として書かれるものであり、自ら強引に書こうとしてねじ伏せるものではないということ。創作論やメソッドなどに頼ろうとする連中はへっぽこ極まりないし、そんなものを自ら語ろうとする連中は掛け値なしの馬鹿野郎なのは明らかだ。堂々と見下してやろう。
そしてそろそろ船が出る。港は人でごった返していて、とても騒がしく、気がついたらきみはみんなとはぐれて一人っきり。泣いてはいけない。寂しがる必要もない。きみが乗るべき船はちゃんとわかっている。ベイビー、乗り遅れるんじゃないぜ。きみひとりで旅立つことを恐れている場合ではない。まごついているやつらは置いて行こう。大丈夫。連中は頼りになりやしない。大事なことはたったひとつだ。きみを見失わないこと。きみ自身から目を離さないこと。螺旋状の少年がイタズラしないように見張っていること。さあ、大騒ぎが始まる。その具合のほどは、これからご覧じろ。これからご覧じろ。




