朝までとことん殴り合おうぜ
酒は本当に身体を痛めつける。たかだか半日飲み続けただけで、まるで激しい殴り合いをした後のように、全身に疲労が行き渡っている。ビールは飲まなかった。ジンをつかったカクテルと白ワイン赤ワイン……それにマティーニも飲まされた気がする。冗談みたいに大きい牡蠣を食べた。そして、記憶に残らないおしゃべり……煙草をたくさん……猫にちょっかいをかけて噛みつかれた……。
酔いがまわってくると話題もぐるぐるとまわる。おれがいかにろくでもないやつだったか。あるいは相変わらずろくでもないやつであるか。あんなことやこんなこと。同じことを繰り返し、また次の機会にも同じことを繰り返すのだろう。だが次の機会があるかどうかは誰にもわからない。おれたちは年をとり、言葉を選ぶようになった。直接的に友を傷つけたり、否定したりするようなことを言わなくなった。いや、おれたちはではなく、おれは、だ。
グラスのワインをじっと睨んだ。頭の中身がすこし揺れはじめている。おれはそいつを片付けてしまうべきかを考えた。
それから飲みにかかった。
そして気づくと夕方を過ぎていた。まったく。こんなペースで進まれてしまっては、ついて行くことすらできない。ただ見送るだけしか。今日の文章に取りかかろうとした。そうすると、なにかが邪魔をする。それでこんな時間になってしまった。ようやっとおれは解放されたというわけだ。生活というあれやこれやから。まるで様になっていない、継ぎ接ぎだらけの生命活動から。
書くことがない。なんてことを書いたおかげで、本当に書くことがなくなってしまった。文章を書くことよりも、いろいろと細々したことが気になるようになってしまった。余計なことは書くべきじゃない。それは強い影響力を持ち、おれを脅かす。おれを恐喝する。おれからすべてを奪い取ろうとしてくる。その手には乗らないぜ。しっかりとこうして文章を書いている。今日も。ちゃんと。やっと。
昨日の置き土産がおれを悲惨な目に遭わせている。身体はとても怠く、頭の回りはすこぶる遅い。おれが錆び付いているみたいだ。こんなことは放り投げてさっさと眠ってしまいたいが、せっかく夜眠れるようになったのだから、この時間は文章を書くことに充てよう。どうなんだろう。これってちゃんと文章になっているのかな。言葉が風船のようだ。おれの頭も風船ガムだ。いきなり破裂したりしないだろうな。これってちゃんとした文章になっているのかな。ちゃんとした文章。そんなものを書いてそれがなんになる。
まるで終わりが見えない。おれの機嫌はかなり悪い。だけど最悪ってほどではない。何年か前の大雪の日はもう本当に最悪だった。それと比べればこれしきのこと屁でもない。しかしドライヴしていかない。とっかかりをまるで見出せない。つるつるの壁を自力で登れと言われているようなものだ。おれはヤモリではないというのに。
もうくだらない代物は読まないことにしよう。ほかにも読むべき文章はたくさんある。おれの手元にだって、途中で放り投げた書物、何度だって読みたい書物、まだ読み始めてもいない書物、いくらでもある。しかしそれらの文章を読むにはパワーが必要だ。じっくりと粘り強く文章と対峙しなければならない。集中も要する。しっくり馴染むまで同じ部分を何度も読み返したりすることを求められることもあるだろう。ファストな感覚では到底太刀打ちできない。
くだらない文章はそんなものを求めてはこない。小指の先ほどの根気もいらない。誰にでも読むことのできる文章。そんなものが素晴らしいはずがないだろう。おれたちのレベルに落としてある、あるいは書いたやつがおれたちと変わらないレベルに留まっている、そんな文章を読む必要がどこに。まるで退屈で、ただ単に読むことができるというだけの文章。そんな文章を読んで安心したり共感したりするようではもうおしまいだ。もはや救いようがない。
読む必要のある文章は膨大な量あるように思えて、実はそこまででもない。それを読み尽くしてしまえば、あとは自分で書くだけだ。ゆっくりと苦労しながらコンピューターに向かう。苦労に見合うものが書けることなど期待してはいけない。苦しみ抜いて書かれた文章のあまりの酷さに目眩がするかもしれない。そうだ。一度そこでぶっ倒れておけ。しばらく気を失っておけ。そしてまた立ち上がる。のそのそとコンピューターの前に行き、また書き始める。それは例えばこんな文章をだ。
おれのタンクにガソリンがどれだけ残っているのかはわからない。そいつが尽きたとき、螺旋状の少年の続きが書かれることは二度とない。続き? なんだよ、なんか文句あるかよ。螺旋状の少年はひと繋ぎの数珠のようなものだぜ。いつだって各エピソードが干渉し合い、牽制したり影響を受けたりしている。螺旋状の少年をもっと巨大に成長させるか、それとも丁度いいところで螺旋を止めるのか、そういう迷いがあるのは事実だが、個人的に螺旋状の少年というタイトルがお気に入りなものでね。もうすこし螺旋状の少年の謎を追いかけていたいし、いずれはその謎だって解き明かしてみせたい。もちろん大それた望みではある。夢物語のような話だ。物語らない夢物語はどのように書かれるべきなのか。その答えをいつも探し求めている。
いずれ夜は更け、更にその先、夜は明けるだろう。それまでに書き終えていればいいのだが。この音楽が止まるまでには。それが無理なら次の音楽が流れている間には。
サイレンが鳴る。すぐ近くだ。サイレンが聞こえるだけまだましだ。もしサイレンが鳴っているのに聞こえなかったら、それは自分のためのサイレンだからだ。いつかどこかで読んだ文章で見かけた部分を丸パクだ。こんな気の利いたことをおれが思いつくわけがないじゃないか。だがサイレンは鳴っている。サイレンの音がこんな文章をおれの記憶から引っ張り上げたというわけだ。おれの記憶は稼働しているだけまだましなんだ。
近頃じゃ、なにもかもが薄れていく。現実感がなくなっていく。実際にあったこと、なかったことの区別が曖昧になって、実際にあったのか、なかったのか、そんなことに拘る意味すら不明瞭になってしまっている。おれは現実に、ダブルシンクを目撃している。驚くほどすんなりと、やつらはそれをやってのけた。驚くほど従順に、やつらはそれを受け入れた。当然、おれは驚いている。そして人間の柔軟さに乾杯だ。教育。システム。メカニズム。なにもかも完敗だ。
こんな日だって、腹が減る。なにかを食べないといけない。たとえ気分が優れなくても。たとえ機嫌が悪くとも。空腹を放っておくのはいい選択とは言えない。状況が良くなることはないだろう。選択肢があるだけ、おれはまだましなんだ。それはそうだが、だからと言って、このままでいいとは到底思えない。すべての人間に当たり前のように選択肢があった方がいいに決まっている。しかし選択肢は少なければ少ないほど良いと考えているやつらがいるようだ。選択肢は取り上げるべきものなのだ、と。
剣呑で、やかましく、物騒な夜なのに、誰ひとり文句を言い出さないのは何故だろう。こんな夜には息を潜めて、透明な存在になっていた方がいい、そういうことなのか? おれは腹が減った。そろそろ夕食の準備に取りかかろう。巨大な炎を操り、三つ目の化物を丸焼きにしてやろう。近所の連中にもお裾分けをしてあげよう。おれだけで食べきれる量ではないからね。




