ないものはない
書くことがない。とうとう冒頭でストレートに言ってしまった。だけどそうそう書くことなんてあるわけがないじゃないか。もうもうとたちこめる煙草の煙の中で、なにかあるだろう? 自分に優しく問いかけてみるけれど、そんなものはないよ。
文章を書く人間が書くことがないと書くのってすごくありがちだし、一時期の中原昌也もそんなことばかり書いていたけど、もちろんおれは中原昌也の真似をしているわけではない。こうやって、書くことがない、そう正直に書くと、なぜか文章がスムーズに進んでゆくのだ。書くことがないということを書くのは文章の最後の砦。
おれもまあ、ちょくちょく、しばしば、書くことがないということを匂わせてはきたが、ここまではっきり書くことがないと書くのは初めての経験だ。これはなかなか気持ちがいいね。くせになりそうです。正直に言えばいつだって書くことなんてなかったよ。人の悪口以外は……。クソ野郎どもへの憎しみ以外は……。ところがそういう怒りの感情も、最近はもう虚しさへと変わってきつつあって、なんというか、もううんざりって感じになってしまっているわけだ。だって差別主義者どもはいつだって元気いっぱいだし、わけのわからない理屈をこねるアホどもは無敵気分で人を見下していて、連中になにを言ったってやったって、無駄なんですよね。おれだけがムキになって顔真っ赤www。うるせえよ。wwwじゃねえんだよ。だって怒ってる。マジでムカついている。そりゃムキにもなるわいさ。しかしさきほども言ったとおり、おれはもう虚しい。ムカついてもムカついても、にやにや笑い顔でいなされる感じ。だってwwwだもんな。こっちがいくら本気で殴りかかったって。連中は余裕なおれちゃんってポーズを崩さない。のれんを全力で殴り続けていたらそりゃ疲れる。虚しくもなる。糠の中の釘はすぐに錆びる。たぶん。科学的根拠はない。上手いこと言いたいだけ。
こんなことを書いているけど、おれはwwwなんて喰らったことがないのだった。すべてはおれの想像の中での話。他人がそういうのを喰らっているのを目にして、自己同一化しているだけの話。だっておれのインターネット活動はここ小説家になろうがすべてだ。そもそも小説家になろうでだってほとんど他人とコミュニケーションをとらないのだった。当たり前だ。だってほぼすべてのやつがクソだし。ごめんなさい。でももうしょうがない。本当のことだから。どうしてそんなにつまらない文章を書けるの? ねえどうして? おれを勘違いさせたいの? おれは天才だって勘違いさせたいの? ふん。騙されるか。文章偏差値の低い場所で比較的読める文章を書いているからなんだってんだ。おれは天才ではない。だけどまあまあいい線いってる。最近、なんだかおれの文章を読んでいる人が増えている気がする。おれの地道な文章活動が実を結びつつある。そんなときにこんなことを書く。アホは寄ってくんな。アンビバレントなおれの心。読まれることだって文章を書く大事な理由のひとつだ。読んでくれた人から高評価を得られると、やはり嬉しいし、励みにもなる。おれの文章を評価する人間が、間違っているはずはない。いや、間違っているかもしれないが、少なくともある程度の量の文章を読んできた人間であることは確かだ。文章を発表する場であるこの場所で、そういう人間が少数派である事実が、この世は地獄だということを物語っている。もう一度言う。アホは寄ってくんな。ぼくはまあまあの大学を出ているからアホではないですね。そう言ってめがねクイッ。そういうやつも寄ってくんな。文章を読める人間。文章を読もうとする人間。そういう人におれの文章を読んでほしいんだ。おれは傲慢だ。めちゃくちゃワガママだ。どうしても書くことがないと、こういうことを書き始める。それはただの八つ当たりだ。
こんなもんでおれの気が済むわけではない。いや、八つ当たりで収まる怒りなど怒りではない。それでも、おれがただ怒りに任せておれがこんな文章を書いているのかというと、それも違う。おれは冷静すぎるほど冷静だ。なにしろ書くことがないのだ。怒り自体はおれの中で本物の怒りとして暴れてはいるが、それは文章を書くこととはあまり関係のないことなのであった。わかってほしいのは、いっときの気分の高ぶりや勢いでこんな文章を書いているわけではないということ。おれの綴る言葉が、どのような効果を及ぼすのか、どのようなおかしみを醸成するのか、人にどのような影響を与えうるのか。瞬時にそういった計算をしながら、おれは文章を書いている。ただし、その計算どおりにことが進んでいるかどうか、それはちょっとわからない。おれが読む分には上手くいっていると思いますよ。そりゃ書いたのおれだから。おれはおれの意図を汲んでやれるから。でも他の人はどうなのでしょうね。どうもこうもないのでしょうね。それこそwwwって感じなのかもしれませんね。それならそれでいいのです。あなたにはなにも期待していませんから。あなたの頭の中にはいつだってwwwが渦巻いているのでしょうから。嘲笑をすることでしか、精神の平衡を保てない人間たち。嘲笑のできる立場に自分が立っていると、信じられることさえできれば、それだけで安心してしまう人間たち。嘲笑さえしていれば、自分が勝利者側にいることができていると思い込んでいる人間たち。それ、全員クソ野郎です。頭沸いてます。情けないです。あまりにも脆弱です。自分が弱いということから目を背け続ける臆病者です。ぼくはそれ、病気だと思います。
こんなことだって何度も何度も書いていることだった。ファイナルファンタジーXIIIが最高のゲームであることと同じように、何度主張したって主張したりないのだった。あらゆることは繰り返し、繰り返しの余韻の中に日々はある。日々の残滓を味わいつつ、おれはまた押し入れからPS3を引っ張り出してセイクリッド2をプレイするのだった。シャドウウォリアー、ハイエルフ、インキュイジターと順番に触って、結局はテンプルガーディアンに戻ってくるのだった。セイクリッド2は最高だ。Switchで出してくれたらもっと最高なのに。そう思うが、すでにアスカロンは倒産しているので、そんな望みが叶うことはおそらくないのだった。
アンニュイな日曜日。おれはアンチアンニュイ。おれはなにを信じているのか。そこが肝心なところなんだ。否定するものには困らない。おれを嫌な気分にさせる物事や人間がとにかく多すぎる。いまのおれを温かい気持ちにさせてくれるのは、カープの矢野と、セイクリッド2と、螺旋状の少年くらいのものだ。それだけを糧に生きている。すべては脳が作り出した錯覚だ。錯覚に誑かされて奇妙なダンスを踊っている。おれは脳の言いなりにはなりたくない。身体は完全に脳の支配下にあるが、魂だけは渡したくない。あんなグロテスクなうねうねした肉塊がおれだとは思いたくない。脳が作り出した錯覚に反旗をひるがえす。それがおれの文章活動であり、螺旋状の少年だということだ。であるからして、たとえ書くことがなかろうが、おれは文章を書き続けなければならない。書くことがないということ自体が錯覚だからだ。だって見てくれ。このとおり書けたじゃないか。書いてみせたじゃないか。おれはなにを信じているのか。つまりは、おれは文章を書く、ただそれだけを信じているということだ。




