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いつだって苦しいよ

 そのあと、じっくり考えてみた。おれの人生における問題ってやつを。ごろり横たわって居座って、なかなかどいてくれない厄介なやつのことを。ただまあ、考えてみただけだ。解決しようってつもりがない。そんなこと思いつきやしないんだ。ただただ、おれの人生における問題ってやつのことを、じっくりと考えてみただけだ。

 いけてるやつは、問題を問題のまま、放っておいたりしない。ささっと、しばいて痛めつけて、鮮やかな手口で息の根を止める。どうしてそんなにすばしっこく動けるのだろうか。おそらく小動物の霊でも取り憑いているのだろう。おれにはなんの加護もありゃしない。頼れるものはおれだけ。そのおれは、どうにも頼りない。じっくり考えてみるだけで満足してしまう。あとはなるようになるさ。結論はいつもこれなのだから、結局のところ、考えることだって無意味なのだった。

 それでも、なんとかしたりなんとかなったりするんだ、どうせ。だからやっぱり、人生における問題ってやつのことを考えるだけ無駄なことってことだ。それでもたまにはこうやって考えてみるんだ。まあいいじゃないか。誰に迷惑を掛けているわけでもないのだし。


 世の中にはどうしようもないことだってある。たとえば人が人を殺すこと。きっと誰もがよくないことだとわかっていながら、それでも人が人を殺すことを止めることはできない。もし目の前でそんなことが行われていたら、おれは身体を張ってでも止めたいと思うけれど、そういった心持ちで生きていたいと願うけれど、実際そういう場に立ち会ったらどうでしょうね。

 ピンクのモヒカン頭をした明らかなポン中がウイスキーの角瓶で、おれの大嫌いなやつの頭を思い切りどついていた。ゴンッって鈍い音がして、おれの大嫌いなやつは、「うっ」って少し呻いて頭を押さえてしゃがみこんだ。音的にはめちゃくちゃ地味だった。ゴンッ。うっ。悲鳴とかも上がらなかった。みんな呆気にとられていた。みんな引いていた。空気が一気に冷えた。おれの大嫌いなやつの押さえていた手の間から、濃ゆい血が、おもしろいくらい溢れ出して、夕立の降り始めのように、赤黒い大粒が、ポツ、ポツ、ポツ、と。

 おれは一歩も動けなかった。そのときのおれは、殴られたのがおれの大嫌いなやつだったから動かなかったと、そう思い込もうとしていたけれど、実際のところは思いっきりびびっていた。ピンクのポン中の仲間たちが駆けつけて、ポン中を羽交い締めにしていた。そのあと、いろいろあって、最後はポン中が泣きながら謝っていた。おれは最後の最後まで、固まったままだったし、ひとことも発することができなかった。なぜあいつは殴られたのか。それはいまでも謎のままだ。あいつの名前すらもう忘れてしまった。いや、ごめん、それは嘘だ。大嫌いなやつの名前はいつまでも忘れられないものだ。なぜだろう。


 世の中にはどうしようもないことがあるって話はもうしたっけ。そうか。じゃあいいや。忘れてくれ。近頃じゃ忘れたいことは絶対に忘れられなくて、覚えておきたいことが忘れてもいいことに変わっていく。気づくとキャッシュカードの暗証番号まで忘れかけているのだからたまったものではないよ。信じられるかい。たった四桁の数字をだぜ?

 なんだか自分がどんどん透明になっていくような気がする。感情ってやつが、怠けだしている。驚くようなことがないし、笑えるようなこともない。だけど、いつだって……。なんだろうな、この感じ。おれは消えたがっているのかも。だがおれは消す方の人間だ。闇から闇へとひそやかに飛びまわり、法で裁かれることのない悪人に鉄槌を下す、善意のスーパー暗殺者。善意で動くが善人ではない。だって人を殺すことは善くないこと。どんな悪人だって決して殺されるべきではないんだ。おれを必要悪と呼ぶようなやつもいるが、そんなことはない、ただのいかれた殺人者だ。そして、いつかそのツケを支払うハメになる。きっと、おれは殺されるだろう。殺されるべきだ。そうでないといけない。むごたらしく、みじめに、涙と鼻水と糞尿を撒き散らしながら、みっともなく殺されなければならない。

 菜の花の匂い。むっとくる、生命の匂い。菜の花体操で身体をほぐしながら、おれはそんなことを考えていた。じっくりと考えていた。


 道具は大型犬のリードがいい。丈夫で軽い。仕事の話だ。とは言っても、依頼があるわけではない。依頼を受けるだけが仕事ではない。自らの使命を全うすることこそが仕事だ。おれだって仕事なんてやりたくないさ。でもそういう役目で生まれてきてしまったのだから仕方ないじゃないか。こんな文章だって、書きたくて書いているわけではないんだ。書かなければならないから書いているだけ。このあたりのことを説明してみたって、誰もわかってくれないんだから。本当、失礼しちゃう。じゃあ聞きますけど、あなたたちはなぜ文章を書いているの読んでいるの。好きだから? なんだそりゃ。わけがわからない。

 わけのわからないまま、わかったような顔はしたくない。わからないことはわからないんだ。わかってもらえないことは、絶対にわかってもらえないんだから。たとえあんたが、「あ、それ、なんかわかるかもー」そう言ったとしたって、なにもわかっちゃいないことをこっちはちゃんとわかっているんだから。本当、失礼しちゃう。なぜ母親は、失礼しちゃう、と言うのだろうか。これは別に、おれを産んだ特定の女性のことを指しているわけではない。ほぼすべての母親たちに当てはまることだ。

 母親が、失礼しちゃう、と言い出したら用心するべきだ。みっともないことをしかねない。ママ、ママ、お願い、無理筋のクレームをつけるのを止めて! 失礼しちゃった母親たちの怒りは凄まじい。彼女たちの怒りを鎮めるにはどうしたらいい? 大型犬のリードでキュッと締めちゃう? 駄目だ、目撃者の数が多すぎる。こんなの暗殺とは言えない。一作目のアサシンクリードじゃないんだから。いや、目撃者の有無は暗殺に関係ないだろう。山上のアレだって暗殺だし。ヒットマンシリーズに感化されすぎじゃないか? 誰にも気づかれず、悟られず、不幸な事故として処理される。それだけが暗殺ではない。確かにそうだ。だが、暗殺者として生きるのに、一発で捕まるわけにはいかない。暗殺も奥が深い。独学ではちょっと無理くさい。生まれてすぐに然るべき機関とかで教育を受けないと。ここでも親ガチャかよ。ママはモンスタークレーマーだし、あたしの人生もう詰みです。積み重なった罪の重さに潰れてしまいそう。


 ママはママ、きみはきみ。言葉でそう言うのは簡単だが、そこまで吹っ切ることのできる人間は珍しいらしい。よくわからない。血族の絆なんて大したものではない。そんなものは気のせいだ。別にテレパシーでわかりあえるわけでもないのだし。大事なことはきみがママを愛しているのか、それだけだ。いいえ。それだけではありません。愛しているし、憎くもあるから、あたしはこんなに苦しいの。単純化はやめてください。こりゃあ一本取られた。人間って複雑なんだね。面倒くさ。じゃあ、まあ、頑張って……。

 頑張ってほしいのは本当だ。おれからすれば、苦しむべきでないことに苦しんでいるように思えるけど、彼女の苦しみは嘘ではない。ところで、彼女って誰なんだろう。誰でもない。誰でもないが、誰にでもなりうる。おれかもしれないし、あなたかもしれない。苦しみの原因は、本人にだってわからない。いや、本人にこそわからない。外から見て、苦しみの原因が明確であったとしても、原因を取り除いたからといって、イコール苦しみが取り除かれるといったことにはならない。それが苦しみなのだから、他人がおいそれと口を挟むことではない。

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