おれ殺し殺し殺し
やっぱりな。おれには小説なんて書けるわけがなかった。悲しいことだが。とても悲しいことなのだが。これだけ文章を書き続けることができるのにな。資質の問題なのか、姿勢の問題なのか。思考の問題なのか、指向の問題なのか。嗜好の問題は確かにあるな。自覚があるな。知覚に頼りすぎているのか、知覚が近くにありすぎるのか。四面四角の三角形。そういう小説をおれは書いてみたいのであった。
とにかく、おれはおれの視点から離れることができない。それはおれがあまりにも自分に真摯であり、自分の倫理を裏切ることへの抵抗がありすぎるゆえ。それは間違いなく、おれの美点ではあるけれど、小説を書く上では邪魔なものでしかないのだ。この文章が小説になるには、やはりおれという存在の抹殺は不可欠であると考える。考えるだけで、実行には移せない。ラスコーリニコフが殺害を実行するまで、いや実行してからすらも、自分自身が人間を殺そうと考える、殺す、殺した、殺してしまったことがどこか他人事であったのと同じように、おれはおれを抹殺したとしても、そこから目を逸らし続けるのかもしれない。
おれがおれの頭を斧で叩き割ったとしたって、その割れ目から、またおれが顔を出してくるのだろう。おれが目を離した隙にだ。この文章はモノローグではない。おれが書いている文章なのだ。この文章は台詞ではない。おれが書いている文章なのだ。おれがおれに書かせている文章なのであった。どこまでいっても、止まっても。
おれは覚悟を決めねばならない。それでも小説を書こうとするのか、おれとして文章を書き続けるのか。どちらにせよ、書かれたものに大した差が生まれることはないのかもしれないが、それでもおれは覚悟を決めねばならない。
ひとりの日本人としてのおれは、現在の日本国を破綻した国家として眺めている。なにを信じていいのかさっぱりわからない異常な状態だ。だからといって、精神安定のために到底信頼できないものを無理やり信じようとすると、ネトウヨみたいなアホ丸出し間抜け野郎になってしまうし、精神安定のためにすべての裏を探ろうとすれば、陰謀論者のような馬鹿丸出しのホゲホゲ野郎になってしまう。
こいつらは同一の存在だ。信じていることが、混じり合うこともあるし、反発することもあるが、本質としてはまったく一緒なのであって、個としての自分があまりにも弱いというか、無、なので、超簡単に他人に操られてしまう。雰囲気に飲み込まれてしまう。自分の中に基準を設けていないから、倫理が芽生えていないから、悪辣なことが目の前で行われていてもなんとも思わないし、どれだけ理屈としておかしくたってなにも気にしやしない。無、なのだ。こういう連中は。だから無敵なんだ、こういう連中は。
ひとりの日本人としてのおれは、愛国者としてのおれは、こういう連中が潜在的にどれだけ存在するのかと考えると、悲しくなってしまうが、ひとりのおれは、もうそんなことはどうでもいい。勝手にしやがれ、って感じだ。むしろ荒れ果てていく世界を見ていると、SF小説を読んでいるような気分になって楽しくなってくるくらいだ。
人間なんてそんなものなんだ。人類の敵は人類でしかない。ポピュラーが世界を蝕む。ひとりのおれは、そんな光景を眺めて、こんな文章を書く。
絶望してしまうが、おれは絶望しない。絶望の淵、最後の最後で、おれは踏みとどまる。手抜かりに手遅れを重ねた状況を見つめて、にやりと笑う。こんな文章はお遊びに過ぎないと言われてしまうかもしれない。しかしすべてはお遊びでしかない。そう考えることだってできる。なにをするのであれお遊びになってしまうのかもしれない。もっともそんなこと、おれはこれっぽっちも信じちゃいないけれど、そう考えておいて間違いはない。
問いを投げかけることはあまりにも簡単だ。疑問はいくらでも湧いてくる。端からわからないこと、理解を拒むこと、疑わざるを得ないこと。しかし答えを出すことはあまりにも難しい。いわゆる、でしかない答え以外の答えを出そうとするのは。いわゆる、つまりは自分以外から出た答えを、自分の答えとして信じ切っている人間に、おれはなりたくない。なりたくはないが、おれもそんな人間のひとりであるという事実があるという自覚もある。そういうところでおれは苦しみ、悩み、文章を書いている。あまりにも単純なところで、おれは立ち止まり、一歩も進むことができずに、進んだという錯覚だけを頼りに、螺旋状の思考と、螺旋状の錯覚と、理解なき理解と、答えの出ない答えを抱えて、困り果てている。
言葉がおれを虐めるんだ。誰か助けて!
おれは助けを求める手を伸ばした。そう書いてはみるが、実際にはおれの手はタイプしているだけなのだし、仮に実際に手を伸ばしたとしたって、この手を掴んで引っ張り上げてくれるような力強い手が現れることはないし、仮に現れたとしたって、その手の主は詐欺師のいんちき野郎に間違いないので、現れ次第に叩き殺しておいた方が賢明だ。結局はそういうもんだ。おれ以外のやつがおれを助けられるわけがない。そしておれの手にはおれが手に余る存在なのだ。助けを求める相手を間違えると痛い目に遭う。おれの悲劇は、おれであるということ、まさにそれが悲劇なのであった。
少年は少年であることが悲しい。少年は無力であまりにも取るに足らない存在だから。外に出ようと、内に籠もろうと、牢獄に投獄されているのと一緒のことだ。それでも脱獄を諦めることは出来やしない。それこそが少年のたったひとつの生きる理由であるからだ。気の遠くなるような時間を費やして、あらゆる手を使って、脱獄を試みるだろう。螺旋状の鉄格子。どこまで高く続いているのだろう。この向こうにはなにがあるのだろう。素晴らしい期待をしているわけではない。大体の想像はついている。きっと、同じだ。こことなにも変わりはしない。牢獄の外も牢獄なのだ。それでもだ。脱獄を諦めることなど出来やしない。永遠に続く入れ子構造の中、命の尽きるまで、いや、命が尽きたとしたって、脱獄を試み続ける。それこそが。それこそが少年の生きる意味だと、少年は自らそう答えを出したのだった。生まれて、生きて、やがて死にゆく意味は、そこにこそあるのだ、と。
奇跡は起こらない。起こらないからこそ奇跡だ。円環が崩れることはないし、たったひとつの惑星の生命が死滅したとしても、それはそれ、だ。たったひとつの惑星に生命が誕生したことと同じ、それはそれ、だ。
それでも少年は少女とふたり、この風景を見たことを、見ることができたことを、とても幸せなことだと思った。少女は既に息をしていなかったが、少年もそのことは重々承知していたが、それでも少女の骸を少女であると、強く信じていた。少年が少年であることと同じことだと、少年がそうだと思えばそうなんだと、そしてこの風景を少女とふたり、見ることができたのは、とても幸せなことなのだと。それこそが奇跡なのだと、おれはそう思う。強くそう思う。沈みゆく太陽を見ながら、とても落ち着いた心で見送りながら、少年は幸せだった。心の底から満足していた。それでも少年は脱獄を諦める気はさらさらなかった。
奇跡は起こらない。起こらないからこそ奇跡だ。それでも少年が幸せだと思えた瞬間、そんな瞬間が訪れたことは奇跡であるという立場を、おれは譲る気はない。絶対に譲る気はないのであった。




