洗濯が頭から離れなくって
おれたちの見ている現実は、なにかしらの仮面を被っており、人々はその仮面は取り去られなければならないという思いに駆られるし、中には力づくで引っ剥がしてやろうと鼻息荒く腕まくりをする力自慢も出てくるが、それでも仮面は強固でびくとも動かない。間違いなくなにかが間違っている。およそすべての人々がそんな確信を持っていることは間違いなく、実際のところ、決定的になにかを間違えているのは間違いのないところだ。
間違いは必ず正されると、そう盲信するのは大間違いだ。冒された瞬間に自覚的になれる失敗と違って、誰かがその存在に気づかない限り、間違いは間違われたまま、転がり、巻き込み、膨らみ続ける。おれたちは日々そんな光景を当たり前のように見ているのだが、あまりにも巨大なので個人の認識できるレベルをとうに超えているのだった。
もはやなにが間違っているのか、仮面をつけているのは現実なのか、おれの方なのか、それとも最初からこうあるべきだと決まっていたのか、なにかが間違っていると思い込むのが間違いなのか、仮面の下にある同じ顔をした仮面をつけて笑っているおまえは何者なのか、この仮面劇はいつ終わってくれるのか、幾層もの仮面をつけた仮面劇とは一体どんな仮面劇なのか?
ゴミ出しは済ませた。目に痛いほどの眩しい陽光、ベランダの日当たりは良好、洗濯をしよう今日こそ。買い物、風呂掃除、トイレ掃除、家事はすべて午前で終わらせよう。
まあ、なんだ。おれは真剣だったんだよ。そしておれの人生はそろそろ幕を閉じようとしている。こんなふうに毎日文章を書いているのがその証拠だ。あらゆることから、以前よりもずっとスマートに切り抜けることができるようになったのも証拠のひとつだ。選択肢はすべて使い果たしてしまったように思えるし、もはやこれ以上なにもできないようにも思える。気分は躍らないし、文字で遊ぶこともなんだか……間抜けなことになってきた。それでもこうして文章を書き続けるのは、自分自身への反骨心のようなものだ。おれは他人をおちょくり、世界をおちょくり、そして最後は自分をおちょくって死んでいきたい。ほらな? 大したものじゃなかっただろう? まるっきりふざけた話なんだよ、ただただ過ぎ去っていくものを見つめているだけの、趣味の悪い冗談だ。絶望をする価値もない。愛する理由もない。さっさと煙になりたいぜ。
皆、口では正しいことを言って、そいつはまったく清く正しくて、おれのようなやつからするとそれは尊敬すべきことで、しかし実践となると、なぜだろう不正ばかりだ。皆が皆、そんなもんなんだから、もう口で正しいことを言うことを止せばいいのに。しかし不思議なことに、連中は嘘をついている、自分の言葉とは相反することをしている、そんな自覚がないときているのだからまったく大したものだ。人間が生きるってことは、こういうものなんだ、本気でそう思っていやがる。そんないんちき連中の行進が滑稽ではないわけがない! まったく滑稽だ。不正が明るみに出たとしたって、到底通用しそうにない理屈で突破しちまうのだから、大笑いしないわけにはいかないだろう。馬鹿にしない理由がないだろう。連中はなにをしているんだ? とんち合戦か? カリカチュアめいた腐敗をこれみよがしに見せつけて、いったいなにを期待しているんだ?
なんなんだよ、まったく。こちとら食わなきゃ生きていけないっていうのに、おにぎりひとつで150円くらい吹っ飛んでいくんだろう? 一方で1本40万のシャンパン入れて喜んでいる馬鹿がいる。その40万を、ひとつ150円のおにぎりを食べることもままならないやつにあげたらどうなんですかね。っていうさ、真っ当なことを言うと、共産主義者扱いですよ。狂ってるね。人を生かそうという気がないのかしら? 狂ってるね。若者はファストファッションにファーストフード、おれの母親はモンクレールのロングダウンを着て業務用スーパーでお買い物。狂ってるね。とにかく狂ってるね!
とにかく書くことがないのであった。無理やり捻り出そうとすると、ご覧の通り、反日左翼の独り言になってしまいます。はやく書き終えて洗濯をしたいのです。それが世界の選択です。エル・プサイ・コングルゥ……です。今井麻美さんの金属のような声は癖になります。ぼくもずいぶん声優に詳しくなりました。結局は、合い言葉はBee! ってことなんだよね。最近ダントツに好きな声優さんは黒沢ともよさんですね。彼女の不機嫌そうな感じの演技というか、抜けの悪い日常に溜まった鬱屈の表現というか、なんといいますか、なにしろ最高ですね。ソウルハッカーズ2なんて彼女の声がなかったら、遊べたものではないですよ。あとはAIインソニウムファイルのちっちゃい子の演技は最高でした。ぜんぶゲームです。アニメは見ません。しかし、ぼくの妻がフルート吹きで、響け!ユーフォニアムに嵌まっているので、それだけは見ます。見せられます。百合っぽい表現が苦手です。ケツがむずむずします。タマがキュンッとして、赤面しちゃいます。
知ってるかい? 小説はなにを書いてもいいんだ。一般的には、ストーリーがあって登場人物がいて、なにかが起こったり起こらなかったり、山あり谷あり、そういうものが小説だと思われているけど、それは物語であって小説のひとつの要素でしかない。実際、狂っているような、わけのわからない小説はいっぱいある。おれはべつに狂ったような小説を書きたいわけではない。実は最近、やっぱり物語もいいよなあ、そう思っている最中だ。中上健次だったっけ。店の中で物語を始めるな、そう言っていたのは。おれはやっちゃうのよ。店の中物語。っていうか飲み屋だよね。気づくと飲み屋にいたり、飲み屋から始まるんだ。おれは人と会うって時も大体が飲み屋だもんね。酒なしでは人と会話すらできなくなっている。そういうところだよね。パターン化する生から、どう抜け出すか。なにを打ち破り、なにを守るのか。そしておれはなにを書いているのか。やはり夜なのか。夜の魔力がおれには必要なのか。それすらもパターン化と言えるわけだけど、しかしやはり夜の夜中に文章を書いていると、その時間帯でしか、書くことのできない、書かれることのない文章ってあるよ。そう思うよ。日の出ているうちに書かれた文章は、今日のように、まるで酷いものになる……。
まるでつまらないね。退屈極まる人生であり、今日の文章だ。調子が悪いとかそういうのではない。おれという人間がつまらないだけだ。単純にそういうことなんだ。大抵の文章がつまらなくて下らないのも、そういう理由である。自分をデザインしていないやつが、魅力的な文章を書けるわけがないのであった。そしていい加減、このスタイルで書き続けるのに無理がでてきたということだ。そろそろ物語っていこうかな。どうしようかな。迷い中。いや、迷い中とか言うけど、おれは物語とか本当に考えられないからね。物語ってどこから生まれるのでしょう。脳のどのあたりを使うのでしょう。意識をどこに繋げるのでしょう。漠としたイメージすらもないのだから、逆に大したもんだ。ただ現実世界を舞台にするのはごめんだね。仮面をつけない仮面劇なんて、いったい誰が読みたがるんだ? 現実を揺さぶらない小説を読む理由がどこに? おれからすると、なろう系とかも一緒だよね。舞台が現実世界みたいなものだよね。たとえ魔物とか魔法が出てこようと。たとえ貴族や王族が出てこようと。生臭い現実を踏襲している、橋田壽賀子ドラマみたいなものでしょう。声変わりした後のえなりかずきの演技みたいなものでしょう。ただ舞台設定をコンバートしているだけでしょう。生臭い価値観はぴくりとも動きやしないんだ。




