矛盾の間で痺れていたい
昨夜からこの文章は小説にメタモルフォーゼした。だって純文学だから。純文学は小説なのだろうか。文学は小説とは限らない。文学が純化すると小説になるのか。小説ってそんなに偉いのか。おいおい、質問が多すぎるぜ、ベイビー。ジャンルには拘らない、カテゴライズなんてされたくないと言いながら、そういったことを人一倍気にしているおまえはいったい誰なんだ。おれは彼で、彼は螺旋状の少年さ。おれと彼は、かつては同一人物だったのだ。時代の波に流されて、おれと彼は道を違えた。意図したことではなかったけれど、違えざるを得なかった。そういう状況だった。だけどずっとお互いがお互いを意識して、ずっと気にして、ずっと罪の意識に怯えている。彼の罪はおれの罪だ。でもおれの罪は彼の罪ではない。悪いのはずっとおれだ。いつだってそうだったんだ。
その瞬きも、その囁きも、そのときめきも、その一時も、螺旋状の風に巻かれて、すれ違って、どこかに消えていった。ますますの受難と恐怖と醜さといやらしさと、ますますの不平不満と、ますますの不幸を兼ね備えた人間がますます数を増していくのを、少年は決然たる態度で見送り続けていた。その硝子のような眼を、決して逸らさずにだ。覚悟なしではできることではない。おれもそろそろ覚悟を決めるべきだ。迫り来る、狂った結末をしっかりとこの目で見届ける、そんな覚悟を。
また知性なき扇動者がくだらないことをわめいている。SNSで醜いゴシップを飽きずに見続けてきたことが、やつのプライドの源泉らしい。自虐の陰に隠しているつもりでも、おまえの汚れた魂は丸見えなんだよ。醜くも悲しいやつだ。一生涯、140文字の電脳屑籠でゴミを漁っていればいい。それでおまえの魂が救われるのであれば、おまえはそういう生き物なんだろう。そしてこういうやつが一定の賛同を集めるということは、そういう生き物がこの惑星にはそれなりの量で生息しているということなんだろう。
ここらで一発、小惑星でも激突して、こういう連中を一掃してくれれば。なんて思わないでもないけれど、それだときっとおれも小動物も昆虫も巻き込まれてしまうから、縁起でもないことは願わない方がいい。それはそうなんだ。それでもだ。憎しみはなにも生まないが、憎まずにはいられない。なにしろ憎むべき対象はいちいち探さなくたって、やつらのほうからやってくる。ヤーヤーヤー! という感じで。そして、それを見てしまった以上は、こうした文章を書かずにはいられない。見たことを端折ってしまうことは自分への裏切りだ。裏切りを重ねることによって、人は社会的生物としての立場を確保していくものなのかもしれないが、それはただ現実への認知を歪めているだけに過ぎない。
誓って言うが、おれは憎みたいわけではない。問題は、憎むべき相手には困ることがないのに、愛すべき相手はよくよく探さなければ見つからないこと。その過程で、どれだけのスカを掴まされ続けることか。その過程で、どれだけの人が失望してしまうことか。めげて、諦めて、自分の殻の中に閉じこもってしまうことか。踏みとどまれ、なんて軽々しく言うことはできない。それでも言わなければならないのだから辛い役目だ。踏みとどまれ。そして、歩き出せ。
目的地を決めず歩き出すことはよくあるけれど、徒歩で自分の縄張りから抜け出すのは大変だ。歩いたことのない道に入ったって、結局は見知った風景に通じているし、実際問題、通じてくれなければ困る。そのままパラレルワールドに迷い込むなんて展開はフィクションではよくあることだけど、本当にそんなことが自分の身に起こってしまったら、パニックどころの騒ぎではないよ。まずは自分の正気を疑ってみるだろう。なぜなら、おれたちはそれだけパラレルではないこのワールドを信じている。このワールドに信頼がおけなくなってしまったら、それはそれで正気ではない。しかし自分の正気なんてものを疑ってみたって、問題ない、おれは正気だ。あるいは、間違いなく、おれは狂っている。なんていうふうに簡単に自分の中で結論が出るような疑問ではないのだった。しかしながら、目の前の光景はおれの理解の範疇を軽々と超えていて、おれの知っている常識とは違う常識が、堂々とまかり通っているのを実際にこの目で見てしまうと、おれの揺らぎは一瞬で限界に達して、結果おれは狂ってしまうだろう。しかし、目の前の連中からすると、おれは最初から狂っているのである。元々狂っている男が、更に狂ったからといって、そこにどんな違いがある?
おれはこの2年間、主夫としての活動をこなしてきた。主夫という肩書きは理解のある男っぽくていいだろう? だが間もなくおれはこの肩書きを失う。理解のない男になる。上等だ。理解なんてしてたまるか。いつかおれは妻の仕事に理解のない主夫になりたい。ああ、妻じゃない。パートナーな、パートナー。
それから、ワインを傾けていると、料理の話になった。目の前の赤っぽい液体に浸かった牛ホホ肉のことではなく、日々の料理のことだ。主夫の料理の話だ。
「なに作ってんの? やっぱパスタ?」
その言葉に、おれは目を剥いて驚愕した。おれといえばパスタという発想は、おれがひとり暮らしをしていた20年くらい前のことだ。おれのイメージが20年以上も刷新されていないという現実におれは打ちのめされた。いったいなんのためにおれはこの2年間ほぼ毎日料理を作り続けていたのだろうか。
生活のためだった。毎日外食をするわけにもいかないし、毎日出前館というわけにもいかないし、毎日出来合いの惣菜というわけにもいかないし。それでもなにかを食べ続けなければ、生きてはいけないのだから、料理を作るでしょう、そりゃ。金銭面、栄養面、気分面、色々な面を考慮すると種々様々な料理を作らないわけにはいかないでしょう、そりゃ。ではパスタを茹でないのかと言われると、そこがまた厄介なところなんだ。だって、おれはパスタを茹でるからね。茹でることもあるからね。月に一度は確実に茹でるからね。だから、やっぱパスタ? という乱暴な質問に、おれはどう答えたものかと考えあぐねているというわけだ。そもそも、おれはパスタなんて言わない。スパゲッティ。そう言う。だってパスタって言うと、ほら、村上春樹が出てくるでしょう、どうしても。村上春樹と言えばパスタを茹でるでしょう。村上春樹からしてみたら、きっといい迷惑だとは思うけど、それでもパスタの破壊力と浸透力は半端ではないのであった。なにせ20年以上も固定化されるイメージだ。パスタのなにがそこまで脳に焼き付いてしまうのか。皿に盛った感じが脳みそを想起させるからだろうか。
いずれにせよ、主夫様に向かって、どうせパスタを茹でて料理とか言ってるんだろう、みたいな態度は侮辱以外のなにものでもないので、控えていただきたい。ジャガイモだって茹でるし、ブロッコリーだって、アスパラガスだって茹でるよ。一度、さっと茹でたものをこちらに置いておいて、炒め物の最後に投入するとか、そういう面倒くさいことだってしてるんだよ、こっちは。
しかし、反省点はある。また村上春樹の名を出してしまった。これはもう止めたい。おれは村上春樹をおちょくれるほど、彼についてなにかを知っているわけではない。だからもう、村上春樹の名を文章に出すのは止しておこうと思う。この二日間でふたつの禁則事項ができた。ネコと村上春樹について書かない。こうしてじわじわと、おれの書ける範囲を狭めていく。言葉が悪い。無駄を削っていくということだ。しかし、無駄のない文章を書いて、なにが楽しいと言うのだろうか。小説なんて、そのほとんどが無駄で構成されている。無駄のない小説を読んでなにが楽しいと言うのだろうか。もっと言ってしまえば、この世界なんて、無駄でしかないじゃないか。無駄のない世界で、誰が生きていたいと願う? 自分自身すら無駄であると、そう言えなくもないというのに?




