ヴードゥーガンモ
文章を書く。なるほど。興味深い。続けて。どこから始めればいいのかわからない。どこからでもいいんだ。心の赴くままに、好き勝手にやればいい。もうそういうのはたくさんなんだ。途切れ途切れの意識を、文章を書くという行為に集中させたって、好き勝手になんて書けやしない。なにがどう引っ掛かっているのかは知らないが、今日はとにかくサニーデイ。小春日和なんて言うのはもう時期が遅いよ、これこそが春、春なんだ。ヤドリギに寄生された樹木を見ると、今年は来たのだろうか、ヒレンジャクは。そして、ロキに誑かされて、自分の兄貴バルドルをヤドリギの枝で射殺してしまったヘズのこと。汗ばむくらいの土曜日、カワセミの狩りをしばらく眺めていた。アオサギはそろりそろりと抜き足差し足で獲物に近づくが、アサシンとしては三流もいいところで、ターゲットに肉薄することもできず、遠くの方ではカワウがとにかく数撃ちゃ当たるとばかりに、潜っては浮上して潜っては浮上して。ガビチョウが狂ったようにさえずる中、ふと横を見ると、モズが小さい芋虫を咥えて首を傾げていた。まったく春なんです。
おれはおれの記録を更新し続けなければいけない。昨夜のおれをぶっちぎらなければならない。幸い、昨夜のおれは雑魚だったので、まったく問題にならない。ではその前の晩のおれは? 前の前の晩のおれは? いや、そんな昔のことは覚えちゃいないよ。でも手応えは残っているはずだ。ああ、だったらそっちもまったく問題はない。おそらく雑魚ばかりだ。いくらおれの腹の調子が芳しくなくたって勝負になりはしないさ。第2コーナーでぶち抜いてやる。圧倒的なまでの差をつけてやる。虚しい遠吠えだ。空虚過ぎる言葉を打ち込む気分はどうだい? 最悪に近いね。太陽光線にやられて、おれは疲弊しているんだ。どうして身体を動かした後の煙草はクソ不味いのだろうか。身体中からなんだか埃っぽい匂いがして、いっぺんに調子を悪くしてしまう。そしてやはり頭痛だ。ハレーションを起こした視界に耐えきれず、モニターの輝度を下げた。まったくなにがなんだかわからない。知らない間におれはひどく踏みにじられて害されて、騙されて棄てられて、くたくたに消耗している。今夜のおれは体調が悪い。文章に影響が出るくらいに。すべては太陽のせいだ。それか土曜日なんかに外出したおれのせいだ。外にはあまりにも多くの人間がいた。小さいのや大きいの……小鳥たちのことなどお構いなしに、金切り声をあげていた。誓って言うが、今日が土曜日だなんて知らなかったんだ。知っていたら人工湖に出掛けたりするもんか。こんな晴れた土曜日に……花粉を除けばあまりにも過ごしやすい気候の土曜日に。
それでも文章は書かなければならない。近年希にみるスローペース。それでも、一字一字丁寧に繋げていけばいつかは終わる。まるで、終わりの見えない単純作業に挑む心構えのようだが、おれは好きで文章を書いているんだ。疲れたら、やめちゃえば? 脳内やくしまるえつこが耳元でそうささやいてくれる。気持ちは嬉しいが、甘えるわけにはいかない。野望を捨てるんだ。文章、小説、文学、そんなような概念も捨てて無我の境地を目指すことだ。おれを衝き動かしているのは、退屈、虚無、そしてリアルだ。これをしている間は時間が勝手に進んでいく。どれだけ疲弊していようと。これをやめたら他にやることがなさすぎる。ゲームは必ず飽きる。日は沈む。夜は明ける。書くことがなくなるまで書き続ける。書くことがなくなったら書き始める。繰り返すんだ。繰り返し、繰り返す、繰り返しの日々を新たな言葉でささやくんだ。
夕暮れのヒヨドリの鳴き声はなぜか悲しくなる。それはヒヨドリという鳥の名を知る前からそうだった。鳥たちの鳴き声に耳を澄ませる前から、ヒヨドリの鳴き声は、おれの無意識下の耳にこびりついていた。年を経るごとに、その悲しさは増していく一方だ。絶望的な孤独、終わらない日常に囚われて、帰るべき場所が見つからないまま、結局はいつもと同じ寝床に向かってとぼとぼ歩く螺旋状の少年のため息が、おれの弱点を突き刺す。後ろめたい苦痛の中で、呪われた一族から抜け出せない自分の境遇を嘆きながら、それでも車に轢かれないように気をつけながら。信号も横断歩道もない山道にぽつんとひとり、取り残されて、陽が沈むまでに山道から抜け出さなければ闇の中に飲み込まれてしまう恐怖と戦いながら、申し訳程度の街灯のある道を目指して、焦燥に駆られて小走りに歩くのだった。
一羽のヒヨドリが鳴くと、向こうの方のヒヨドリもそれに呼応する。あいつらはひとりではないのだ。人間はひとりだ。いまここで啼いたって、誰も呼応してくれやしないだろう。例え近くに人間がいたとしたって、こっちをちらっと見て、もう一度ゆっくり見てくるくらいのものだ。いわゆる二度見。なぜ人間は二度見をするのか。なぜ一度は目を逸らすのか。気になるならじっくり見ればいいじゃないか。三度でも四度でも何度でも、気が済むまで観察すればいいじゃないか。いったいなにを恐れている? 同じ人間だぞ。まさかいきなり噛みつくとでも思っているのか。馬鹿馬鹿しい。複数で固まっている人間だと、二度見のあとに声を殺して笑いあう。失礼を承知で笑いあう。そんなにおもしろいのか。ならば腹を抱えて笑い転げればいいじゃないか。二度見も、声を殺して笑いあうのも、まるでプログラムされているみたいな反応のようで、まるで人間じゃないみたいで、とっても人間らしい振る舞いで、だから螺旋状の少年は、いつまで経ってもひとりのままだ。夕暮れのヒヨドリの鳴き声を聞くと、そんな感じで悲しくなるおれだった。
そのあとは決まって夜がきた。夜は痛いことが待っている。だから嫌いだった。しかしそれは過去のこと。いまのおれは夜が大好きで、夜にしかできないことがたくさんあるということを知った。思うに、大人が子どもに早く寝なさいと言うのは、夜にしかできないことを知ってしまった子どもは、二度見などというまだるっこしいことはせず、興味のままガン見してしまう大人になるということを本能的に理解しているからだろう。ガン見する大人ってのは、つまりはトラブルメイカーなのだった。掻き回したい、揺さぶりたい。あるいは、掻き回されたい、揺さぶられたい。そういう欲望を切望して生きているのであって、トラブルなんてもう大好物で、明らかに重度のポン中みたいなやつを見つけると、至近距離でガン見する。だからよく殴られる。歯もよく折れる。その度に歯医者にかかるものだから、歯医者側も慣れたもので、予約の電話口で今回はどこが折れちゃったの? なんてフランクに尋ねてくるのだ。こっちも慣れたもので、今回は23番から26番ぜんぶいかれちゃいました。そう答えると、電話の向こうから、アイヤー、なんて昔のマンガに出てくる中国人みたいな、おどけた感嘆の返事が聞こえてきた。まったく他人事だと思って、いい気なものである。
新しい差し歯はつるつるしているので、舌で触ると気持ちいい。特にセラミック製は最高だ。そのかわり高価だ。財布と要相談だ。おれは財布を持ち歩かない主義だ。と言っても、すべてをカードで済ますとかではなくて、むしろすべてを現金で済ますのだが、硬貨は小銭入れ、紙幣はマネークリップで挟んで持ち歩くのだった。そういう感じがサグだと信じているのだ。だから23番から26番もぜんぶ金歯にしちまおうと思っている。見るからにサグだからだ。サグい雰囲気を醸しだしていると、ガン見してもそうそう殴られないということがこの頃わかってきたのだ。人間は見た目にすぐ騙される。




