表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
41/99

負けず嫌いの負け犬

 生涯つきまとわれるであろうもの。恐怖といつわり。それらにまつわるまやかしの痛み。おれがなにかをする。言う。書く。自分がなにをしたのか、なにを言ったのか、なにを書いたのか、そのことに思いを巡らすと、やがて必ず卑劣で下品でとんでもなく醜いものと出会う。なにか恥知らずなことをしでかしてしまったんだ、そういった耐えがたい痛み。知らず知らずのうちになにかみじめなことをしでかしてしまった、そういった確信めいた恐怖。おれが犯した、あるいは犯さなかった過ち。そして毎日が地獄へと変わってゆく。そんな毎日を望んでいたわけではないのだけど。気味の悪い毎日、なにかをしでかす毎日、おぞましい毎日。考えなければいい。苦しみたくないのであれば。考えれば考える分だけ、苦しさは増してゆく。自分の中の地獄、自分の外の地獄、目を向ければそこはいつも地獄だ。目を逸らすことはできない。一度意識を向けてしまったからには、目を逸らそうったってそうはいかない。

 なにも考えなければいい。頭の良いやつらはそうしている。この地獄を地獄のまま楽しむ術を身につけている。やつらに学べ。ここは考えることに適していない。考えれば考えるだけ、我慢ならない不快な生を見せつけられるだけだ。考えることは決して美徳ではない。

 しかしだからといって、絶望に飲み込まれぬように妥協して生きていくことは更なるみじめさを自らに呼び込むことに過ぎない。生の全過程は悪化していく一方、状況、状態、すべては日に日に悪化し、衰退し破滅していく運命にあって、その運命に抗う術はないと知りつつも、それでも抗うしかない、抗って生きる以上に大切なことなどなにもないのだった。


 生まれながらの反逆者というわけではなかった。ただ物心がついた頃から、反逆者の芽は芽吹いていた。賛成ありきの多数決。あらかじめ結果が誘導されている決議にいんちきの香りを嗅ぎ取った。そういった場では一貫して反対の立場をとった。決して結果に満足がいかないわけではなかった。無意見と賛成がイコールであるとすることに疑問があっただけだが、そんな疑問を言語化できるはずもなく、ただひとり反対の手を上げ続けるのだった。


 そんなことがあったことはまったく記憶にないのだけど、幼なじみにそういうエピソードを聞かされた。そのことから、おそらくこんなようなことだったのではないかと組み立てたのが上段の文章だ。彼が言うには、おれはいつも怒っていたと言う。ただひとり、なぜかずっと怒っていたと言う。身体も小さく、運動も得意ではないのに、誰にでも突っかかっていったと言う。おれの記憶とはずいぶん違う。おれの記憶では、おれはおとなしく、どちらかというといじめられっ子で、よく泣かされていたはずなのだが。いや違う、と幼なじみは言った。おまえは自分から突っかかっていって、やられて、それが悔しくて泣いていたのだと言う。怒りながら泣いていたのだと言う。おまえは面倒くさいやつだった、そう言う。

 おかしなことだった。まったくもっておかしい。そんなはずはない、と言いたいところだったが、まるでいまの自分とそっくりな、幼なじみの記憶のなかのおれ。おれの記憶と、幼なじみの記憶、どちらが正しいのかもはや確認する術はないし、主観と客観の差と言ってしまえばそれまでだった。


 とりとめのない考えごとを続けていると、どこかでちゃぶ台返しが起こる。脳が反乱を起こすのだ。余計な仕事をさせるんじゃねえ、そんなどうでもいいことより酒だ、酒を持ってこい、もうこれ以上働きたくねえんだ! 民生用の脳みその悲しいところだ。おれは哲学者が考えを巡らせていたことの入り口にさえ辿り着けない。いやこれは脳みそというパーツの問題なのだろうか、それとも根本的に思考方法が間違っているのかもしれない。それを証拠に、おれは昨夜もキルケゴールの死に至る病、最初の最初の方で頭が爆散した。本気でなにを言っているのかわからない。まったくわからない。わかったような気にすらならない。

 

「死に至る病とは絶望のことである――」オーケイ、そこまではなんとなく言いたいこと、わかる気がする。

「自己とは、ひとつの関係、その関係それ自身に関係する関係である――」「あるいは、その関係において、その関係がそれ自身に関係するということ、そのことである――」

 おれはちゃんと自分の手を使って、上の文章を読み解こうとした。「ひとつの関係」がここにあって、そう言って片手でひとつの丸をつくる。「その関係」、つまりはひとつの関係のことね、そういって片手の丸を意識する。「それ自身に関係する関係である」この丸に関係する関係ってことはもうひとつ関係があるのかな。そう言って空いた片手でもうひとつ丸をつくる。ふたつの丸が関係している。「あるいは、その関係において」あるいは? その関係っていうのは、このふたつの丸の関係? 「その関係がそれ自身に関係するということ」「そのことである」おれは手で作ったふたつの丸の前で沈黙するしかなかった。

 これはおれの頭が悪いのか、日本語が悪いのか、原語で読むことができれば誰でもわかるのか、いやでもそういう問題でもなさそうだ。本当にわからない。考えても意味がわからない日本語ってすごいと思う。おれは哲学書に書いてあることはさっぱりわからないけど、だからこそ惹かれてしまう。わかりたいと言うよりも、わからないを味わうのが癖になってくる。読みたいけれど、読み進めることのできない書物。言葉にできないことを無理やり力業で言葉にしてあるような書物。それって素敵やん。


 でも実際に頭がおかしくなりそうになる。すべてがどうでもよく、無意味なことのように感じる。ボランティアでもしようかなって気になる。でも自分の存在する意味が欲しいから他人に奉仕するってどうなの。どうもこうもない。どうせなにもしないのだから。自分の無知無学のなか無理にもがく。自己肯定も自己否定も文章として書けば動機は同じ自己主張だ。しかしおれのなかにはおれしかいない。おれが書くしかないのだ、文章ってやつを。自由に書けばいい。でもおれに自由は許されていない。文章を書けば書くほど実感する不自由さ。自由に書くことを本当に許されているのは超人だけだ。

「大丈夫、いい線いってる」

 螺旋状の少年が、からかうようにそう言って微笑んだ。彼の柔らかい髪、しなやかな髪、軽いウェーブのかかった髪が、おれをからかうようになびいていた。おれは彼の眼、ガラスのような眼から目を逸らし、悔しくて泣いた。いつまでおれは螺旋状の少年にからかわれ続けるのだろうか。きっと生涯。それが嫌なら文章を書くことはやめちまえばいい。


 こんなものは悪い夢であってほしい。そのとおり、悪い夢のようなものだ。でも夢の中の方がまだマシってもんさ。寝覚めは悪い夢よりもよっぽど酷いしろものになるに違いない。だったらまだ抗っていた方がいい。なにから。気に喰わないものすべてに抗うんだ。実際のところほとんどすべてのことが気に喰わないんだから、すべてに抗うんだ。おれは生まれながらの反逆者ってわけじゃない。芯から筋の通った筋金入りの反逆者ってわけじゃない。ああそうだ。へたれることだってたくさんあるよ。それでも抗わないよりはマシなんだ。文章を書いていた方がいくらかマシなんだよ。だから今夜はもう眠ろう。それでは皆さま、覚めない夢を。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ