流されるまま筆記体
時も金も無駄に費やすためにあるものであって、無理に貯め込んだり自己を脅迫する材料にするためのものではないということをまずは主張しておく。
おれの人生にも何度か景気の良い時期があった。明日の心配をしないで済む時期があった。暗黒の時代であった。世間一般の共通認識でいうところの幸せ、そんなものをおれはまったく必要としていないということがわかった。かっこつきの幸せはおれの頭をとことん鈍らせたのだった。おれが堕落してゆく様を見届ける悪夢。金勘定と時間の管理に追われて、日に日に貧弱に卑小に変身してゆくおれに見て見ぬ振りを決め込むおれ。おれを管理監督するいやらしい目つきの主が自分自身だったと悟ったとき、おれはさっさと逃げ出したのだった。
別におれは破滅型の人間ではない。あなたと一緒で安定安心を好む。金というものも多少は重んじている。一文無しは絶対にごめんだというくらいには。それでもあんまり金に魂を預けすぎると、あっという間に口座残高の数字を見てにやにやするだけの腑抜けに成り下がってしまう。腕時計や自動車のキーくらいしか自慢するものがない間抜けに。おれはそれがなにより怖いんだ。もしそんな自分になってしまっていたら、もしくはなりたがっている自分に気づいたとしたら、すぐにその場から離れた方がいい。手後れということはない。人生はどこからでもやり直すことができる。そうとも。
今は昔。ハーブやアロマという名目で、違法薬物の化学式をほんの少しいじった、合法と謳ったモノがごく普通に売られていた。もちろんいい香りで心身のリラックス効果を促すためだけの用途で使われるものだけど、特殊浴場でスタッフと客がたまたま自由恋愛に発展することもあるように、自動球遊器の特殊景品を熱心に買い取る古物商店がたまたま遊戯場のごく近くに店を構えていることもあるように、正規ではない用法をたまたま試してみたところ通常ではない精神状態になったりすることもあったのだ。たぶん今もあるだろうけど、その辺のことはもう知らない。あくまでもこれは20年近く前の話だ。
で、おれもたまたまそういうことになってしまって、友人手作りのアザラシのお面を被りながら延々と奇妙な踊りを踊り続けるという奇行にはしってしまったのだが、その映像がなぜかネットに流出してしまい、とある国でネタとして大人気になってしまったという話があるのだけど、そのときに使用したハーブが元気玉という商品名だったな、ということをふと思い出してしまったのだけど、あの人の絵のオリジナルな質感とワールドクラスのデザインセンスに庶民的なユーモア感覚や照れが同居している様は、最高に好ましく痛快であったな。
生き物は死ぬ。それはそうだ。その通りなのだが、いま生きているものに自己の死を知る術はない。ある日、不意討ちをくらう。覚悟をしていようがしていまいが。それが救いであるという理由はいくつも思い浮かべることができるし、もちろん理不尽な恐怖だとする理由だって。なんともにくいシステムだ。生に転がされて、死に踊らされる。生も死も状態であり、瞬間であり、そして同時に起こっている。せめぎ合い、手を取り合い、そしていずれひとつになる。いや、最初からひとつであるのに、反目しあっているというイメージが付与されているだけだ。連綿と繰り返す生死の円環。その中に入ることができていることをひとまずは喜ぼう。おかげでおれは文章を書くことができている。文章を書く以外のこともね。
人生はどこからでもやり直せる、か。そうは言ったって、おれはもうやり直すなんてうんざりだ。せっかく長い時間を掛けて、こんな風になったんだ。直そうという部分が見つからないよ。皆、そんなに後悔を抱えて生きているのだろうか。だろうか、と言ったって、この文章の中では人生どこからでもって書いたのはおれだよ。それはそうだ。その通りなのだが、同時にいつでもどこでも見ることのできる常套句でもある。なにかを言った気にさせる、善いことを言った気にさせる、その実なんの解決にもならず、無責任に突き放しているだけの言葉。そのような言葉が世の中には溢れている。溢れすぎている。そんな無責任な言葉たちに心を動かされるような純粋な人間がまだ残っているとでも? この情報が錯綜して渋滞する世界で? 人生をやり直したい人に必要なのは無責任な言葉ではなくて、差し伸べてくれる手、身を預けることのできる肩、そういった素朴な手助けだろう。しかしこのインケツ国家では、そういった活動をする人たちやそれを必要とする人たちのことを、嘲ったり笑ったり、ときには妨害行為をはたらく暇な連中のなんと多いことよ。国家のセーフティネットに意図的に開けてある穴からこぼれ落ちた人間を助けようとすると、なぜか反感を持たれる。なぜだ? なぜなんだ? 自分も生きていて辛いのに、ほかの人が助けられようとしているのを見ると悔しいのか。社会の底の方に落ちたのは自己責任であって、一方的にそいつが悪いわけだから、手助けをするなんてそんなのずるいって、そういうロジックか。そういうケチくさい精神でもって騒いでいることによって、自分の首が締められていることに気づかないのか。ぎゃんぎゃんと吠えながら自分の尻尾を追ってくるくる回り、鎖に絡まってやがて身動きがとれなくなるアホな犬のようなヤツら。もうすこしトレランスに生きてみたらどうだ。自分がエレガントかどうか気にしてみたらどうなんだ。
まただ。またドブ臭い、キモオタの口臭のようなことを書いてしまった。そんなつもりは一切なかったのだが、どうしてだろう。もうこういうことは書かない方がいい。格好悪いから。いつもそう思う。だが止まらない。考えてみれば格好悪くてなにが悪いんだ。冷めた眼、厄介なヤツを見るような眼、あの眼をおれは恐れているだけだろう。ああ、あれは怖いぞ。あの眼に晒されると、なんとも言えない気分になる。居心地が悪いなんてものじゃない。阿部千代を倒すのに武器はいらない。ああいう眼で、ただ見つめてやればいい。そうすればすごすごと巣へ逃げ帰ってゆくぞ。そしてしばらく外には姿を現さないだろう。だがそんなんでいいのか。弱点を克服しないままでいいのか。いいわけがあるか。おれを誰だと思っている。阿部千代だぞ。せめて文章の中だけでは傍若無人に振る舞ってやるんだ。その宣言ってすごく格好悪いね。いいんだよ。格好悪くてなにが悪いんだ。
真実ってやつはいつも残酷だ。真実は個人のためにあるわけではないから。ただそこにあるだけだ。なんの意思ももたず、そこにあるだけだ。無知による勘違い、都合のいい甘い夢、そんなものは真実の前ではこっぱみじんに砕かれる運命にある。どう足掻いてみたって真実は変わらないのだからね。そこで真実から目を逸らして自分を騙そうとしたって、真実はおまえを追求する手を緩めやしないだろう。最後まで逃げ切れる自信があるのか? それならいい。なにしろ夢を見るのは自由だ。だがおまえの真実はおまえと共にある。永遠につきまとう。ある日、真実と目が合ってしまう。そのときおまえは絶望せずにいられるだろうか。剥き出しの真実。あまりにも醜い自分自身。もはや目を逸らすことも許されない土俵際で、真実とがっぷり四つに組み合うことができるだろうか。踏みとどまることができるだろうか。整合性をとり、統合し、その上でうっちゃることができるだろうか。ずっと延々と独り相撲をとっていたと気づいたとき、人はどんな顔をするのだろうか。




