増えるニューロブラストちゃん
考えていること、つまり脳内はカオスそのもので、あまりにも即物的なことや読み進めている本の内容が視覚聴覚嗅覚からの連想から過去の記憶のフラッシュバックに身体の状態の知覚に明日の予定や一か月後の予定と今晩の食事まで、ありとあらゆるものが同時多発的に寄せては返しているわけで、おれは文章をその場の思いつきだけで書いているとは言うものの、実際に書くこと書くべきことを意識的無意識的に関わらずはっきりと取捨選択しながら、文章を書き進めている。
それはそうで、もしも考えていることのすべてを文章にしようとすれば、それはもう解読不能というか、文章の体をなしていないというか、本来は接続しない事象が接続してしまう夢としか言いようのないものになる気がする。だからどうだということでもないけれど、文字と文字、文節と文節、文と文、段落と段落、そのすべてを接続してあるいは接続しないで、ひとつの文章にするという行為は、かなりレベルの高いもの凄いことなのではないだろうか。
おれは夜尿症の少年や螺旋状の少年の中で、繰り返し繰り返し、繰り返す、という言葉を繰り返してきたわけで、その結果おれもなんだかこの繰り返すという言葉に特別な意味を感じていたりするのだけど、最近は接続という言葉もおれのなかで特別な響きに感じてきて、まあこの文章を読んでいる人からすればなにを言っているのやらさっぱりなんでしょうが、おれの言っている文章の魔力っていうのはこういうことなんですけど、やっぱりわからないですよね。それはわかっているし、わかりやすく伝えようという努力もしていないけれど、そのあたりの片鱗をどうにか文章というかたちで象っていこうというつもりでこんな文章を書いた。
質感にこだわりたいわけだ。文章を読んでいるときになにが自分に起こっているのか。おれが気に入らない文章と気に入る文章の違いは、もちろん内容というものはあるけれど、その次、もし書いている内容が同じであるなら、質感で優劣をつける。しかしこの質感というものは感覚的なもので、どうにも説明しづらいからこの話はやめよう。悪口がはじまってしまいそうだし。とりあえずおれは、上手いと言われている文章や読みやすい文章が嫌いだ。とても空虚だと思う。でもまあそういう文章が一般的には正解とされているのは理解できる。グッドデザイン賞の家電とか無印良品のカーディガンみたいな。おれの嫌いな質感だ。つまらないとしか思えない。無機質的というか、アップルウォッチ的なスマートで冷ややかな感じ。でもじゃあ有機的であれば、おれの気に入る文章になるかと言うとそれもまた違うわけで、エクスクラメーションマークを多用したり、過激な表現や下ネタを恥ずかしげもなく連続して使われると、いやそれが有機的なのかと言うと微妙だけど、ドンキ的な下品さ、過剰にキッチュな感じにおれは顔をしかめてしまうね。澄ましてないよって言いたいのかもしれないけど、それってただの俗悪で下手くそな文章じゃないのか。と、やめようと書いたのに一向にやめようとしないおれだ。
無闇やたらと接続をすればいいというものではない。接続をしない接続というものもあるはずだ。ただそこにごろんと転がせばいい。そしてもうひとつ、隣にぽんと置けばいい。ふたつの塊はもともと別物であって、ふたつの塊に関係性を見出すことは難しいかもしれないが、ふたつの塊を同時にじっと見つめてみればいい。じっと見つめ続けていれば、そのうちほのかに関連性を見つけることができるに違いない。それが人間の知覚というものだ。科学的な見地からものを申しているわけではない。文章領域の中での話だ。文章領域の中ではなんでもありだ。なんでもありだけれども、ミソもクソもなんでもごっちゃにしてしまうとそれはもう読むに耐えない文章となってしまうので、節度をもって配置には気をつけてもらいたい。といってもミリ単位での精密さなどは求められていないし、むしろその辺は大らかな態度であたればいいと思うし、おれの文章の書き方がそもそもこんな感じなので、こんな感じといっても伝わらないか。つまりはその場の思いつきをそのまま文章に仕立て上げているわけです。この書き方の欠点は、とにかく不安定だということ。書いているおれでさえ、たまになにを書いているのかわからなくなってしまうこと。なにもかもがあやふやで、確かなものなどはなにもない。そういったフィールドをおれは醸し出したいのであって、なにが召喚されるのか、召喚してみないとわからない螺旋状の魔方陣を完成させたいのであった。
昨夜は雪が降っていたということを、おれは朝のゴミ出し時に知った。そのころにはすでに雨になっていて、車のフロントガラスにほんの少しだけ雪が残っていた。聞けば結構な吹雪で6ミリの積雪だったらしい。ただおれは雨とか雪をミリで言われてもさっぱりイメージできない。エントランスの掲示板にはマンションの共用部分の電気が故障していて修理を手配中だけどしばらく時間が欲しいという内容が書いてある紙が貼り付けてあった。焦っていたのだろうと思う。汚い字で書き殴られていたそれは、23時35分という時刻まで記入してあって、インターネットや地デジまで一斉に繋がらなくなったからして、おそらくはマンション中からクレームの嵐を受け、雨天の夜遅くにこの紙だけを貼り付けに来たその人のことを思うと、ご苦労さまとしか言いようがなく、おれは少しの間その紙を眺めていたのだけど、マンションの住人と出くわすのも嫌なのでさっさと部屋に帰ることにした。おれの明らかに堅気の社会人ではない怪しい出で立ちによって余計な不安を与えたくないのだ。どちらかというと人相の悪いおれに挨拶とかされたくないだろうし、おれだって挨拶なんてしたくない。
ここで唐突に時系列は戻るが、昨夜のおれはしばらくそんなことが起こっていたことを知らずに、出前館のお兄さんからの電話でインターホンが動いていないという事実を知らされ、おれはマンションの玄関部まで参鶏湯を受け取りに行き、そこで異変を目の当たりにしたのだった。そしてこんなのは、だからどうしたという話の典型例であり、この世に存在する文章の中でも最上級にくだらない唾棄すべき文章ではあるが、ついでに書いてしまうと共用部分の電気の故障は今日の19時頃に復旧したが、日付が変わっているわけで厳密に言えば昨日ということになる。
こういう日記的な文章ならもちろんいくらでも書くことができるし、もっと読みやすく、もっとわざとらしく愉快に書くことだってできるのだけど、いまのおれはそんな文章は絶対に書きたくないのだった。そんな文章を書くくらいなら、わざと退屈にわかりにくく書いちゃうおれだよ。これくらい頑張って読めよ、そういう気持ちがある。それはそれとして、なぜおれはこんなつまらんことを書いてしまったのかという自己批判的な気持ちもある。そういった他責と自責の間でゆらゆら揺れるバランスゲームのように不安定なおれをどうか愛してもらいたい。
と言うのは嘘だ。おれは愛されたくなどない。ただ最近こんな文章を書いているやつが人気者になるのも面白いかもなと思っていて、まあ思っているだけで、そこに向けて具体的な方策があるわけでもないし、決して人気者になりたいわけではないということはわかってもらいたい。面白いだろうなと思っているだけで。この違い、きみにはわかるかな? わからないならもういい。




