ロゴス沈没
どんな人でも一生に一冊は小説が書けるという。かなり使い古されていて、どのようにでも読み取れる言葉だが、つまりはなんだって小説になるということだ。日々の生活に潜む心理の動き、ときにダイナミックに、ときに微細を極めて揺れるものをつまびらかにする、しようとする、させてくれる物語、つまりは小説が、流れ続ける限られた時間のなかでの可能性を開き示す。書くこと、または読むことによって、人生の軌道が変化したように感じることのできる文章の群れ。無限に思えるほどの多様性をもつ人生のなかのほんの一部分にフォーカスし、あまりにも特殊、と同時に普遍的でもある、そのような一瞬の個人的体験に人間が己の運命を関連付けしてみせる。接続させてみせる。その瞬間の激情が後々の人生に影響しうることこそが、小説を書くこと、読むことの醍醐味であり、難しいところであり、語り得ぬことを語るという覚悟なしでは今後小説が更新されることはないだろう。
いんちきだ。それっぽい文章。を書くという遊び。でもまるっきりの嘘だと言い切れるものでもなくて、遊びの中に切望と絶望、あまりにも幼いそれら……を入れ込んである。螺旋状の少年が10万字以上も使って、なにひとつ語っていないという事実と向き合いながら、無知の罪を鞭を振るって自分自身を罰しながら、痛みにこらえながら、涙を流しながら、歯を食いしばりながら、逆らいながら、手を抜きながら、誤魔化しながら、怯えながら、背を向けながら。
それでもまだ、入り口にさえ到達していないことを、まだまだ長く遊んでいられると喜ぶべきか、それともあまりにも道のりが遠いことを嘆くべきか、態度を保留しつつ、あらかた麻痺した感情に鞭を打ち据えて今日も文章を書く。
文章を書くという行為の中において麻痺したもの。褒められたいという欲求。認められたいという欲求。恥ずかしいという感情。文章を書くという行為の中において麻痺しつつあるもの。読まれたいという欲求。理解されたいという欲求。良いものを書きたいという欲求。文章を書くという行為の中において見失いつつあるもの。文章を書くという行為。文章そのもの。
それは心地よいしびれだ。行為の意味が不明になってゆくこと。その様を観察し続けること。消失してゆく、なぜ。問うこと。なぜ文章を書いているのか。なぜ文章を書こうとするのか。なぜ文章が書いてあるのか。なぜ文章は書かれるのか。知らん。すべてはその一言に収斂されてゆくことの快感。投げ槍な態度というわけではなく、本当に知らないのだ。つまりはそれが答えなんだろう。おれはなにも知らないままに、ただ文章を書いている。その行為によって、おれがどうなろうと知らん、こういうわけだ。
こうなるとすべてが怪しくなってくる。あやふやになってくる。おれが知覚しているもの全てが謎に包まれ、新鮮な驚きをもたらしてくれる……ような気になれそうな、そんな気がする。揺れる蜃気楼のような、そんな感覚も、自覚した途端、あっという間に崩れ去ってゆく砂の城だ。しかしながら、それらの感覚が残したかすかな手応えに、確かな手応えを感じている瞬間が、いまのおれの文章を書く悦びになりはじめている。いや、元からそうだった。そんなようなことをおれは繰り返し書いてきたはずだ。荒削りだったものが、少しずつ形として象られてきたのだ。これを快と呼ばずなんと呼ぶ。
繋がりつつある螺旋状と螺旋状。増殖してゆく少年たち。彼らはばらばらの方向を向いているように見えて、その実、同じ方向を見ている。それぞれの螺旋を描きながら、それぞれの日々を生きながら、それぞれの鼓動を刻みながら。アカデミズムのように体系化されておらず、入門書のように咀嚼されてもいない、好奇心によってのみ裏付けされた、信用ならぬいたずらっ子たち。狂気すれすれの小さな発見。それは決して目新しいものではなく、無数の少年たちが踏み荒らした遺跡ではあるけれど、個人的体験としては特筆すべきものであった。そしてそのまま、少年たちの足跡を追ってみたい。それはとても興味深い冒険になるだろう。ある種の人たちにとっては、だが。このような文章に騙されてはくれない人たち。自覚ではなく無自覚に向けて書いている文章だということを見破ってしまう人たち。あるいは、このような文章に意味を与えてくれる人たち。愛すべき人たち。螺旋状の少年たち。
絶滅寸前の古代人種たちに告ぐ。おれたちの時代はもうこない。おれたちの時代は終わっていた。とっくの昔にだ。これからはやつらの時代だ。それは今まで以上に不愉快でうっとうしいものになるだろう。そう、今まで以上にだ。終点はまだまだ先だなんて居眠りしていたら、あっという間だぜ。臆病な卑怯者たちの扱う言語は稚拙で出鱈目だ。そのくせ破壊力、浸透力は抜群だ。やつらはしつこく道徳を説き、逆説的に道徳などというものは存在しないということを証明してしまった。おれたちが苦々しくやつらを見ているとき、やつらはその視線が気持ちよくてしょうがない変態どもだ。やつらを許容することなどとてもできやしない。
だからといって、おれたちができることなんてもう数えるほどしかない。もしかしたらひとつも残っていないのかも。つまりおれが問いたいのは、どうしよう? ということだ。どうしましょう? どうしたらいいですかね? そういうことだ。
やつらを言葉で破ることも、暴力で打倒することも、現実的に考えてもう不可能だ。やつらは言葉を理解できないし、集団の暴力が大好物だ。おれたちは負けた。勝負にもなっていなかった。そしていま、おれたちは完膚なきまでに叩き潰されようとしている。
絶滅寸前の古代人種たちに告ぐ。地下に潜れ。地下深くに潜り、長い冒険の旅に出よう。おれたちにしか理解できない文章、やつらには意味不明の文章、知覚のレベルをグイッと一気に進めて、あるいは戻して、個人的な知覚のみを頼りに、やつらが決して入り込めないように螺旋状の結界を張り巡らせよう。すでに都市の巣には荒廃の影が差していることだろう。自分たちの精神や技能はなにものかに取り上げられてしまって、恥辱と汚辱がいっさいを無に帰してしまうだろう。それは個人的には興味深い光景ではあるけど、一度見たら二度と振り返りたくなくなるような酷い光景だろうな。まあ、そういうことだ。というわけで、解散!
ストーリィを紡ぐタペストリー。彼は残されたただひとり。赤く巨大な太陽を虚ろな目で見る。
おまえはそのおぞましい化物を自分の子として持つであろう。その名はルーシーの赤ちゃん。乾いた土塊。ひび割れた大地。糸のほつれたタペストリー。尻尾の無い猿がひとり。いつもより痒い尻。爪の間をじっと見る。そして言った。光あれ。
言葉が失われてゆく。おれの言葉が。おれの言葉? そんなものがあったことがあっただろうか。すべては踏み荒らされたあと。盗掘し尽くされたあと。言葉の墓は遠い昔からからっぽのままだ。おれはなぞるだけだ。少年たちの足跡を。盗掘者たちの足跡を。螺旋状の轍に巻かれながら、下手くそな尾行を撒かれながら。幻想と現実の間を行ったり来たりしながら、文章を書き続けるだけだ。いつもの結論。また一歩も進むことができなかった。それもしかたのないことか。だって螺旋状の少年だ。こんなタイトルをつけたおれが悪い。つまりはそういうことだ。光あれ。




