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ゲシュタルト・ゼロ

 ゲシュタルト・ワンのおれは昨日で消えた。今日からのおれはゲシュタルト・ツーだ。昨日までのことの一切を記憶から消してしまったし、二度と思い出したくもないし、思い出そうとしたって忘れられるわけがない。

 そう、なにかイチから始めたくなった。ここ何日か、本当に心の底から、うんざりしていたんだ。自分に? いやいや、そんなわけがない。おれはおれにある程度の尊敬の念を抱いている。問題はおれ以外だよ。なにもかもが、おれをめげさせようとした。確かにおれはなかなか見所のあるやつだとは思うけど、だけど権威主義的パーソナリティ連中の自己肯定感には到底かなわないよ。おれは……つまり、醜い連中のあまりの数の多さに辟易して、敗北感に打ちのめされて、とにかく非常に嫌な気分で数日間を過ごした。折しもその頃、千葉東方沖の地震活動が活発化していて、おれ自身もゆらゆらと揺れていた。それで、ついつい嫌な想像をしてしまった。

 もしもいま、大地震が起きてしまったら。デマに踊らされた凡庸な悪どもは即席の自警団なんかを組んで、金属バット、特殊警棒、ゴルフクラブ、バール、モンキーレンチ……思い思いの得物を手に、蕨、川口のクルド人を襲撃しかねない。下手したら100年前の二の舞だ。そんなことを考えてしまったものだから、さあ大変ときたもんだ。

 おれの家に武器になるものはないか。ベースでいいかな。すぐにネックが折れてしまいそうだけど、遠心力に任せた一発は相当な利き目がありそうだ。防具はヘルメット、膝当て、バンテージ、エンジニアブーツ。ぶつくさ呟きながら、押し入れを探っている自分の姿に気づいた時、おい、ついにおれが狂っちまったぞ!

 まあ劇的効果を狙って、実際にあったことの100倍くらいは大袈裟に書いてしまったけど、こんな様な思考がおれの脳内を駆け巡ったんだよ。揺られているときにね。まったく。やれやれだ。なにをおたついているんだ。確かに愚かな連中は現実に存在している。だがそれ以上に理性の働くやつらが存在しているはずだ。そう信じるしかない。信じるしかないじゃないか。……信じられるかなあ? うーん。とにかくだ。下手に動けばおれが危険人物と看做されちまう。落ち着こう。とにかく変な考えは起こさないことだ。

 そんなわけだ。とにかくおれにはちょっとしたヴァカンスが必要だ。と言っても、金があるわけじゃない。わたしは貧乏だ。だったら心機一転、リフレッシュだ。魂をリニューアル。新しい自分とハイタッチ。そう、おれは生まれ変わった。そう思い込もうとしている。今日からのおれはゲシュタルト・ツーだ。今後ともよろしく。


 生まれ変わったはいいものの、文章が自由自在に書けるようになったわけではないから、物陰に潜みながら暗い表情でこんな文章を書き続けることは変わりやしない。それでもできるだけ明るく朗らかにいこうじゃないか。もうクソ野郎どものことを考えるのはやめるんだ。なぜ、どうして、なんて連中には通用しないんだから。考えたって無駄なんだ。しかしマイナスの感情を禁じられると、驚くほどなにもない人間だということに気づく。こいつはこんなんで生きていて楽しいのだろうか? 驚くのも無理はない。おれも最初は言葉を失ったよ。思わず、こっくりこっくりきちまって、っっっっっっっっっっっっxこんな風になっちまった。なにしろゲシュタルト・ツーの身体にまだ慣れていないんでね。なんて書いていたら、また地震だよ。勘弁してくれって。安心したまえ。まだまだ残機はたくさんある。ふむ。震度2といったところかな。別に震度なんて知りたくもなかったのだけど、習い性でTVを点けた。小坂恭子という人が歌っていた。想い出まくら。変な歌だ。いや、そんなことは言っちゃいけない。おれにとっては変な歌だとしても、誰かにとっては思い出の一曲なのかもしれない。だがそんなことはおれの知ったこっちゃないのだった。


 それにしても、乱世の予感だ。世が乱れるとき、おれは立ち上がらなければいけない。それはそれとして、乱世の予感だ。とっくにあちこちが乱れているような気もするが、きっとこんなもんじゃないんだろう。おれは恐ろしいよ。昭和、平成、令和と一繋ぎのクソを生きてきて、今度は乱世か。まったく嫌になる。でもおれだけのせいじゃない。普通に見て、おかしなことが多すぎる。よくこれで世の中回っているものだ、そう感心してしまうほどだ。嫌なこと、面倒なこと、都合の悪いこと、そんなもののすべてにみんな揃って目を瞑って耳を塞いできたのだろう。つまりはおれと一緒だ。おれだって目の前に問題が転がっていれば、まずは一度スルーしてみる。それで済んでしまえば、しめたもの。問題は解決したとみなす。でもそんなに都合よくことが運んでたまるか。いんちきはいつか露呈する。いつかはツケを支払わなければならない。駄目だ。ゲシュタルト・ツー、使えねえ。辛気くさいことしか書きやしねえ。


 ゲシュタルト・スリー。アクション! もうなにもない。消えた。すべてが消えた。後味すら残っていない。気分はすっきりしているが、なんだか味気ない。しかし不思議だ。おれの周りにふわふわと漂っている、いったいこれはなんだ? 残滓、ゲシュタルトの残滓だ。近いうちにこいつも消えるだろう。そして二度と思い出すことはない。寂しがる必要なんてない。在ったことすら忘れてしまうのだから。こいつはなんて便利なシステムだ。みんなこうやって、新しい夜明け、漂白済みの夜明けを迎えていたのだな。でないと、やつらが自分の知性に絶望もせずにしぶとく生き残っていることの説明がつかない。これがひた隠しに隠していた秘蔵の秘密というわけか。なるほど、こりゃあラクチンだ。癖になりそうだ。


 おれはもう故郷に帰ろうと思う。だが問題がひとつある。おれには故郷がないということだ。おれがどんな組織に属しても、まったく帰属意識が持てないのはこれが原因だと思う。高めたいよエンゲージメント。溢れ出るほどのモチベーションを抱えながら、ざくざく利益を出して組織に叩きつけてやりたいよ。おれには帰る場所が必要なんだ。

 おれは困惑しているんだ。おれだけが騙されているような気がしている。なぜおれは違和感とともに生きなければならないんだ。どこに行ったって、おれの場所じゃない。おれの帰る場所はどこにあるんだ。狂っていない世界。狂っていない人間。単純な話だよ。まったく単純な話なんだよ。それが周りの連中にまったく通じないって、おれが担がれているんじゃなければ、なんだって言うんだ? 帰りたいんだ。それだけなんだよ。約束の場所への道を教えてくれよ。このままじゃ約束の時間に遅れてしまうんだ。とても困っています。とてもとても困っているんです。

 橋から下を見下ろすと巨大な暗黒があるだけだが、きっと川が流れているはずだった。いまここから飛び降りたら、どうなるだろうか。こんなシチュエーションでは必ず考えることだ。考えない人間はいないと思う。だが実践に移すとなると、また別の話だ。まったく別の話だ。決して飛び降りないという前提があるから、そんなことを無邪気に考えることができる。でも突然そんな考えがリアリティを持ってしまったら? 足がすくむ? 目を逸らす? それとも巨大な暗黒が、とても温かく迎えてくれるような、自分が帰るべき場所であるような、そんな気分にしばらく浸ってみる?

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