湾岸ミクロティック
まっさらのスクリーンに言葉を打ち込んでいく。チューニングがまだ合っていない。このあたりの微妙なさじ加減。こいつを大きく見誤ったままだと、今日の文章は悲惨なものになるだろう。ごくたまにカチッと合う。脳内はクリアに、言葉は流麗に。溢れ出すいたずら心と、自分でも驚くような言葉のチョイス。このままなにもかも上手くいくような良い気分。誰のためでもなく、おれのための文章。読まれるためではなく、書かれるためにあった文章。日常を蝕む虚無。そのなかに埋没していくか、それともこうやって言葉を繋ぎ続けるか。できるだけ、できることなら、文章となるべき言葉たちの端っこからは手を離さないでいたいものだ。繋ぎ止めていたいものだ。でも同じところにぶら下がり続けているわけにもいかない。端から端へ。どうにかこうにか食らいついていく。それはまるで不細工なワイヤーアクション。そりゃネイサン・スペンサーのようにはいかないよ。無様を晒して恥ずかしくないの? いやまったく。むしろ無様な自分を必死に隠し通そうとするようなヤツにはなりたくないね。いずれ自分自身に騙されて、欺瞞だらけの言葉しか発せられなくなったようなヤツには。
家から一番近いコンビニでは、おれの吸っている煙草の銘柄を覚えられてしまっている。おれが番号で煙草を頼もうとすると、機先を制してハイライト・メンソールを得意げに持ってくるんだ。ああそうだ。あんたはお客思いの素晴らしい店長だ。覚えていてくれてありがとう。とても光栄だよ。掃除も教育もしっかり行き届いている、素敵なお店だね。常連さんとスタッフが軽く冗談を言い合ったり雰囲気も良い。でもだからこそ、おれはそのコンビニにあまり行きたくなくなった。そりゃ何度か通えば顔だって自然と覚えるだろう。けれどそれを表に出してくるのを好まない客もいる。おれがそうだ。次こそなにか話しかけられたりしないだろうかってヒヤヒヤするんだよ。もし話しかけられたら、おれはどうすればいい? 愛想笑いを浮かべて、曖昧な返事をして……勘弁してほしい。おれは話しかけられたらシカトしてしまいそうだ。あんたに嫌な思いをさせてしまうかもしれない。たかだか煙草を買うくらいのことで、店長に嫌な思いなんてさせたくないだろう。だから馬鹿らしいけど、少し遠くのコンビニまで煙草を買いにいくんだ。そこのおばちゃん店員も店内も、ちょっと不潔な感じがして実はすごく嫌いな店なんだけど、変な緊張をするよりはマシだ。それにしても、煙草の番号を全コンビニで統一して欲しいというムーヴメントがまったく盛り上がらないのはなぜなんだろう。買う側も、売る側も、探す手間が省けてハッピーじゃないか。おまけに後ろで並んでいる客もイライラしないで済む。みんなが幸せになってほしい。ただそれだけなんだ。おれの願いはただそれだけなんだよ。
今日こそは早く寝ようと思っていたんだ。せめて暗いうちに寝て、午前中には目を覚ましたい。そんなことを考えている間に夜は明けてしまう。まったく。ずいぶんどうでもいいことを書き始めたものだ。続きを書くこっちの身になってみやがれってんだ。だってもう三時過ぎだ。文章を書き始めるのが遅すぎたんだ。だって今日は文章を書くことをサボろうと思っていたから……。健康的な生活と、文章を書くことはトレードオフだな。少なくともおれにとっては。だって皆が眠っている時間が一番素敵だ。静かで魔力に満ちていて、なにも邪魔されることがない。通勤列車の中とか、仕事の休憩時間とか……そういった猥雑の中で文章を書く気は起こらない。おれは集中が乱されるとイライラしてしまう性質なんだ。それにぶつ切りの時間の中で文章を書く行為が素敵なものになるとはとても思えない。書き始めるのも切り上げるのも、自分の意思で行いたいじゃないか。それ以外の介入はなるべく排除したい。……やっぱり今日はちょっとチューニングが狂っているんじゃないか? なんだかのんびりしてやがるし、生活臭がぷんぷんするよ。でもおれだって生活くらいするからね。家事もするし、ゲームもするし、煙草も吸うし。シャワーも浴びれば、トイレだってするさ。水を飲んだり、髪を乾かしたりだってするよ。わかったわかった、もういい……。なんでしょうね、今日は決して調子良く書いているわけでもないんだけど、書いていてそんなに嫌な感じがしないんだよな。なんか気分が落ち着いているわけ。切迫するものがないんだよね。それは良いことなのか悪いことなのかよくわからないけど、まあ……よくわからないね。良いも悪いもないんだよ。こんなまったりと文章を書いていていいのか? ってことなんだよ。それって罪じゃないか? そんなことないのか? おれはなにをしているんだ? 目を覚ませ!
いいかげんに目を覚ませ! って怒られて目を覚ましたやつを、おれは見たことがないね。おれだって例に漏れずだよ。でも記憶を辿ってみても、そんな風に怒られたことないんじゃないかな。つーか怒られた内容なんてなにも覚えてないや。この時間、早く終わらないかな……それだけだよね。怒られるって。反省とかさ、なぜこうなってしまったのかってことを考えるよりも、まず目の前の怒りをどう鎮めるか、ってことが重要じゃん。最優先事項じゃん。このうっとうしい、やかましい口をどう塞ぐかっていうさ。怒られるのは、まあ納得してるのよ、こっちも。やったこと、露見したことを考えれば、そりゃ怒られるわねって感じで。やったこと自体を反省するかどうかは、ケースバイケースだけど、結果として怒られるという状況に自分がいるっていうことは、真摯に反省だよ。とは言えね。長ぇーよ! って話じゃん。同じことを何度も何度も繰り返すしさ。なんの解決にもならないんだよね。長時間に渡って説教したってさ。最初はおれだってそりゃ反省してますってツラするけど、だれてくるじゃない。そうするともう別のこと考えたりするじゃない。で、結局なんの話? いや説教のことじゃなくて、この文章が。わからないよ。とにかく今日はこじんまりとしたみみっちい文章しか書けないらしい。スケール感がないよね。しょうがないよ。とっかかりが見つからないんだもの。とりあえず掴めるところを掴んだらこうなっちまったってだけで。自然の流れには逆らえないんだよ。一人で川の流れを変えられるのはヘラクレスくらいのものさ。おれは古代の英雄じゃないんだ。現代の無能の人だよ。もういろいろと諦めたんだって。むしろ最初からなにも望んでいないんだって。でもたまにはスリルを感じたいね。やるかやられるかの緊張感をさ。吐き気がするほどの緊張感。自分で組んだバンドの初ライヴの時みたいに。本番前はあれだけ緊張していたのに、ステージに出た途端に解き放たれたって感じがしたもんね。あの時、思ったんだ。おれってスターになった方がいいんじゃないか、ってね。そう、おれのパフォーマンスは悪いものではなかった。追い込まれた後のおれのクソ度胸に、おれ自身が感嘆したほどだ。ステージの上でもリングの上でも。おれは圧倒的に冷静だったし、素晴らしく大胆だった。一瞬で秒単位の計画を立て、そいつを実行した。抑えるべきところは抑えて、攻めるべきところは攻めて、逃げるべきところは逃げた。べき、が出来るやつがどれだけいるってんだ。このおれのクソ度胸、なんかに使えないかなーって考えてるんだけど、なにも思いつかないんだよね。おれの数少ない才能なんだけどな、クソ度胸。