しょうがないからおれが命令してやる
生きる。生まれたからには、単純にそれだけの話だ。それだけの話だけど、それがどうにも面倒で一筋縄ではいかないものだから、おれは苦悩する。定期的に眠りという死のイメージに近い活動停止が訪れ、それまでの活動、あるいは眠りまでも含めた時間を一日と定義し、区切る。それは大抵、太陽の動きとリンクして、日が昇れば人は目覚めるし、日が落ちれば人は眠る。それが一日。そのひとつの区切り、一日を、おれはいくつ繰り返してきた? そのほとんどを占めるのは、取り立ててなにも言うことのない一日、つまりは今日のような一日。確かに細部に目をこらせば、一日として同じ一日は存在しない。それは事実ではあるけど、おれの中の真実ではない。同じ一日というものは確かに存在する。それはつまり、今日のような一日。取り立ててなにも言うことのない一日。クソったれな一日。もちろん楽しくて仕方のない一日もあって、辛く悲しい一日、新鮮な気持ちをもたらしてくれる一日。その他いろいろあるんだろうけど、ヴァリエーション豊富なように見せかけて、その実パターンの決まっている途切れ途切れの一日を繰り返す。繰り返し、繰り返す。この根本的な繰り返しに飽きてしまったら、どうしようもないほど飽きてしまっていたとしたら、いったいどう生きていけばいいんだ? おれの結論は既に出ている。諦める。それしかないんだ。なんだってやり始めが楽しいに決まっている。無限の選択肢の存在を信じていたあの頃。いや、選択肢なんて言葉の存在も知らなかったあの頃。初めて拾ったコモンアイテム。攻撃力+1。ゴミのような性能のソレに感じた悦び。二度と戻ってこない悦び。おれはもう飽きたんだ。疲れちまったんだ。一日を繰り返すことに。もうどうだっていい。諦めたよ。自己啓発書みたいな偽薬で明るく元気になれる低脳馬鹿は、勝手にやっていてくれ。できればおれの視界の外で。馬鹿を見るのも体力がいるんでね。
まったく関係ないけど、ネットの片隅で拾った陰謀論めいたものまでごっちゃに混ぜた独自の視点で社会や政治を斬る自称エッセイを書いている軍人みたいなペンネームのアイツ。イマジナリーイエスマンを用意して、対談形式で話を進める手口はどうなんでしょ。てめえの意見に、てめえ自身でなるほど……って反応を返すのは間抜けとしか言えないんですけど。たまに差別を助長するようなデマ流すからなあの野郎。クソつまらねえけど、見張り続けるしかないんだよ。まあ、でも差別的な文章がそいつの文章の中では比較的ポイント稼いでいるのが、どういう連中が小説家になろうにいるのか、可視化できてしまってムカつくんだけどね。いるんだよな、差別をしたいってだけの理由でネットを徘徊しているヤツが。あ、勘違いするなよ。軍人みたいなペンネームのヤツが差別をしたいだけのヤツだとは言ってないからな。こいつはなにが差別的な論説なのかを理解できない、平たく言うとアホだから。真顔で差別と区別は違うとか言っちゃいそうなヤツね。悪意はないかもしれんけど、それど真ん中ストレートの差別だからって感じのヤツ。ま、なんにせよ差別をするやつは、くたばってくれって思うけどね。理由はおれがムカつくからだよ。差別を受けている人たちが可哀想だから、とかそういう理由じゃない。単純におれがムカつくからなんだ。
繰り返す。文章の内容だって繰り返しているんだよ。だって書くべきことなんてそんなに大量にあるわけでもないから。むしろ一切ないって言った方が適切であるから。繰り返さざるをえない。それこそが、おれが一個の人間であるということであるし、おれが正直な人間であるという証明でもある。ただおれだって好き好んで自分自身の倦怠を文章にしたいわけではない。だってそうじゃないか。そんなに面倒でどうでもいいのなら、文章を書くことなど止めてしまえよってことでカタがつくから。それでもおれは文章を書き続けるということは、なにを意味するのか。ここでまた出てくる、意味という言葉。昨日、おれは意味など意味がないという結論に到達したはずだが? そんな言葉遊びに騙されるおれじゃないぜ。なにが結論に到達した、だ。馬鹿なのか? すべては無、なんて言葉で言うだけなら十代の少年だって到達できる領域だっての。真に、芯から、すべては無だと言えるものなら言ってみやがれ。なにかを求めている。渇望している。文章を書いているようなヤツが、意味などない、なんて心の底から思えるわけがない。文章を書くという行為になにかを感じているのは確かだからだ。なにか意味があると信じているからだ。こんな誰からも必要とされていない自分勝手な文章を書き続けているヤツなら尚更だ。ああ。だけどおれは夜尿症の少年の最後の方では、なぜかはわからないけど、誰かのために書いていた気がする。それは、まあ毎日おれの文章を読んでくれている読者って連中のことなんだけど、そういう連中を意識すると、おれはとことんダメだね。なにも書けなくなっちまう。フォームを見失っちまう。だから、もう、アレだ。おれは読者って連中に感謝をすることもやめた。おれの為にならないからだ。読みたけりゃ読め。勝手にしてくれ。拍手でも評価でも罵倒でも嫌がらせでも、なんでもいい、勝手にしてくれ。おれも気分で勝手にさせてもらう。嫌いじゃないぜ、あんたらのこと。むしろ愛していると言ってもいい。あんたらはなにも悪くない。おれが勝手に自滅しただけだ。自滅に至るまでのおれのスピードといったらないぜ。ああいう決断ができるから、おれはおれのことが好きなんだ。なにを書いているのかわからんと思うけど、おれにはわかっているから心配するな。久しぶりにおれはおれのことを痺れさせたってことだ。やっぱり人生はこうでなくっちゃ!
それでも続いてゆくのが人生ってものだ。そして突然途切れるのが人生ってものでもある。去年だけでおれの知り合いが三人も死んだよ。みんなおれよりは年上だったけど、それでも死ぬには若すぎるといわれるくらいの年頃の人たちだった。現実感がまったくないね。彼らが死んだという現実感が。三人が三人、最後に会ったときは死の面影すらなかったし、また会おうねって別れたはずだ。飲みに誘えば、明日にでもまた会えそうな感じ。生きるってのもまあ意味不明だけど、死ぬっていうのも大概意味がわからんね。と言うか、一度は意味がわかったつもりだったけど、ここにきてまた意味がわからなくなってきたっていう。それでもまあアレですよ、狂おしいほどの恐怖はなくなってきたね。死がご近所さんになってきたって感じかな。いまやちょっとした親しみすらね。そう。おれだっていつかは死ぬんだから、怖がってばかりはいられないのよ。なるべくソフトに死にたいね。ソフトかつ速やかに。一番嫌なのは一方的な暴力で死ぬことかな。リンチとか拷問とか。そういう死に方をなるべく避けるために、やっぱりある程度は清廉に生きなければな、なんて死に方を逆算して生きてゆくようになってきた今日このごろのおれだよ、っていうか今のおれだよ。もし次生まれたら、闘犬か闘鶏かボクサーになりたいね。イリアスからオデュッセイアって流れをまた読んでいて思うのは、やっぱり戦うっていいなってことだよね。暴力は嫌いだけど、好きなんだよ。だって人間は古代からずーっとそうやって生きて死んできたからね。おそらく今の文明は遠くない未来に暴力によって滅亡するでしょうね。人類の希望は非接触部族だよ。彼らがいまの文明とはまったく異なる文明を築き上げたら激アツだよね。