なぜなら夜だから
毎晩毎晩おれはどうやって文章を書いているのだろう。書き出すたびに思う疑問。だっておれの中にある言葉などはたかが知れている。それでも結果としては、まあまあそれなりの文章を書いている。深刻に悩むこともなく、輪郭をたどるでもなく。たどたどしくもなく、へどろもどろでもなく。向上心もなく、野望もなく。同情を誘わない程度に泥臭く、嫌味でないくらいスマートに。口当たりは良くないけれど、滋養だってない。自由がおれに文章を書かせているけれど、代償としての不自由は鎖の跡が身体に残るほどたっぷりと。なにをしているんだ。なにを見せようとしているんだ。おれは小説を書いてみたかったが、おれの身体には物語が流れていないという事実。実はこのことは小学生くらいの頃から気づいていたのだけど、訓練次第でなんとかなると思っていた。この考えが間違っていたのかどうかはわからない。なぜならおれは訓練などしたことがないから。自分の興味の赴くままに、好きな文章を読み続けていたら、こんな文章しか書けなくなってしまった。そして、もうそれでいいや、心から納得したおれ。自分のこういう素直さ、受け入れの早さ、嫌いになれない。それならそれで、こんな文章を書き続けるだけだよ。でもおれはどうやって文章を書いているのだろう。文章を書き続けているおれ、書き終わっているおれ、なにもイメージできない。永遠にずっと、この椅子に縛られているような、そんな気分。きっとそれは錯覚。せっかくだから、楽しんでいってくれ。こんな文章を書くほど暇のあるやつはそうはいないのだから。
いつかの日々はなにかを捉えようとしていた。なにかに照準を合わせようとしていた。なにかの気配は生々しく、おれは確実になにかに近づいている、そんな手応えがあった。なにかに肉薄した、そんな風に感じたことも何度かある。もう少し、もう少しで、捕まえられる。もう少し、手を伸ばせば、言葉で凄いものが表現できそうな予感に、おれは興奮した。おれは芸術家だと、はっきりとそう感じていた。すべてが気のせいだった。おれは見事にいっぱい食わされてしまった。そんなことを何度か繰り返した。おれはおれをもう信用しない。おれに似合っているのは、芸術なんて大層なものではなかった。では、なんだ。なんでしょうね。なにもないのかも。おれはこれだ、という自覚がない。強いて言うなら、ユニークな人、そんな感じかな。いやおれにそういう自覚があるわけではないけれど、客観的に見てね。もちろん、自分を客観視できるわけなんてないんだけど、この人おれに似ているなって感じの人をあまり見たことがないので。でも人間ってみんなそういうものなんじゃ? みんな自分のことをユニークな存在だと、独特な、特異な存在だと、そう思っているものなのでは? もしそうなんだとしたら、おれはもうお手上げだよ。でも大抵の人の文章ってすごくつまらないよね。大抵の人の自意識ってすごくつまらないよね。しかもそういうものが支持されているよね。おれからすると、きみは文章を書こうとする前に、もっとたくさんの文章を読んだ方がいい、だってきみの文章はすごくつまらないよ、ビジネス文書じゃないんだから、読めればいいってものじゃない、意味が通ればいいってものじゃない、そういうことにきみは気づいてすらいない、おそらくきみは文章とはなにか、言葉とはなにか、そんなことを考えたことすらないのではないかな、とにかくきみはすごくつまらない、非常につまらない、なにしろつまらない、とにかく異常なほどつまらない、それがきみの文章なんだよ。そう優しく諭したくなるような人ばかりだよ。おれが今までの人生で出会ってきた、たくさんの退屈な人たち、もし連中が文章を書いたら、きっとこんな文章を書くんだろうなっていう感じの文章。申し訳ないけど、おれとはてんで勝負にならないよ。本当に申し訳ないんだけど、レベルが違い過ぎる。ごめんね。正直で。
黙れ、雑魚。いや、なんか嘲笑われた気がしたので。気のせいでした。いつだって気のせいなんだ。なにもかもが。気のせいに引っ張られてここまで来てみたけど、もしかしたらずっとその場で足踏みしていただけだったのかも。それならそれでもいいんだ。いい汗いっぱいかけたからね。余計なものを精神から追い出すことができた。汚れたものや、邪悪なもの。そういった生臭いものをそぎ落とすことができた。おれは醜いものが嫌いなんだ。醜いものを見ると傷ついてしまうんだ。とてもナイーヴで繊細で心優しい、ほわほわした、綿雲のような生き物なんだよ。ポケモンで言うとチルットかな。誰がって、おれがだよ。なんか文句あるのかよ。そりゃもちろん態度は大きいよ。傲慢でわがままで怒りっぽいところもある。でもそんなのは些細なことさ。おれの全体を覆っているのは、あくまでも真っ白なほわほわしたものだという事実に間違いはない。おれが勝手にそう思っているんだから別にいいだろうが。いいも悪いも、異議を唱えられたことなんてないんだけど、なんだか否定されているような気がするんだよ。これも気のせいなのか? いやしかし……はっきり気のせいとも言い切れないのはなぜだろう。知らないよ。ごめんね。ちょっと気もそぞろに文章を書いていたよ。あまりにもザ・スターリンがかっこいいもんで、ついそっちに気をとられてしまっていた。おれくらいのレベルになると、ほぼなにも考えずに文章を書けるんだから凄いよね。もちろんこれじゃいけないということはわかっている。決して誠実な姿勢とは言えないものね。でもこういう、いわばオートモードで書いている時の文章こそが、おれ自身もよく知らないおれの深層心理が表れていると考えることもできるのではないかな。まあその辺はご自由に。好きなように考えてください。
今夜もなんとかここまで辿り着いたぜ。ついついここで煙草を一服挟みたくなるんだけど、ストイックなおれはそれを許しはしない。煙草が吸いたければ、好きなだけ吸えばいい。ただし、文章を書き終わった後でな。まったく阿部ちゃんにはかなわねえや。しかしアレだ。今夜もまたアレだ。ここまで来ておいてアレなんだけど、アレなんだ。書くことが~? ないっ! ひとりコール・アンド・レスポンスをしてしまうほどになにもないんだよ。あと少しなんだから根性でなんとかしろよと見る向きもあるだろう。昭和の時代ならばそれで良しとされたかもしれない。しかし時は流れた。流れてしまった。根性や熱血などはもう流行らないんだ。でも昭和中期頃からしらけ世代とか言って、そういうの馬鹿にされていたよね。いやさすがにその頃はおれは生まれていないから知らないけどさ、知識として知っているんだよ。物知りな阿部ちゃん。昭和後期から平成初期の頃なんてもっと酷くて、軽薄でアホな連中がナウいじゃ~んとか言ってイタメシ食ってパンナコッタだったからね。おれは子どもだったけど、よく覚えているぞ。星飛雄馬がダサさの象徴みたいな感じで笑われていたことを。だからなんだってわけではないけど、メンタリティとしては実は日本人、昭和の頃とあんまり変わっていないんじゃないか? そんなことを突然思ったよおれは。ただ金が無くなっただけだよな。まあそれでいいのかも。日本人は余計な金を持つと調子に乗って下品になるからな。美意識の低いヤツがあまりにも多いのだと思う。おれはなにを書いているんだ。さすがにこれはちょっと恥ずかしいぞ。だからもうやめよう。昭和も平成も令和もどうでもいいぜ。どうせぜんぶクソなんだし。そういうことだ。あとは頼んだ。




