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星と海

星わたし

作者: 雨足怜

 人生約二十三年を思えば、この五年はたった五年だ。けれど、この五年ほど濃かった時間はなかった。

 ぼくは光を失った。メタノールを原因とする失明によって、ぼくの世界は文字通り真っ暗になった。光を映さぬ目には、未来さえ見えはしなかった。

 暗闇の中、ぼくはがむしゃらにもがいた。もがいて、もがいて、けれどその先に、確かな光を見出した。

 ぼくの手を取って、生きてと言ってくれた彼女のために、ぼくは再び歩き出した。

 そうして、五年が経って、ぼくは彼女の隣に並ぶことになった。

 盲目のぼくは、彼女にとって重荷でしかないはずだ。大垣さんにとって、ぼくはきっと、人生という道に突如現れて塞いでしまった石ころだっただろう。

 けれど心優しい彼女は、石ころを蹴り飛ばすことも、見て見ぬふりをすることもなかった。

 彼女はぼくという石ころをそっと抱え、支え、ともに歩いてくれる道を選んだ。

 それはなんと尊く、ぼくにとってはどれだけの幸運だっただろうか。

 幸運――そう話せば、大垣さんは困ったように言葉を濁した。

 そして、告げた。

 わたしは、幸運なんて信じていないの、と。

 その言葉の意味は、ぼくにはわからなかった。けれど大垣さんもまた、ぼくと同じか、あるいはそれ以上の何かを抱えている人だと、その声音が告げていた。

 看護師の大垣さん。

 ぼくのプライベートに関りが生じ始めた大垣みういさん。

 ぼくが彼女にプロポーズをして、彼女がそれを受け入れてくれた時には、もうぼくの目が光を映さなくなってから五年が経っていた。


「……結婚、本当にぼくが相手でいいの?」

 ぼくという重荷を背負う覚悟を決めるには、五年という時間は短かったように思う。つらいこともあった。みういさんにあたってしまうこともあった。

 けれど彼女は、ぼくとの時間を大切にしてくれた。ぼくを、支えてくれた。恋が愛に代わるまで、時間はかからなかった。

 けれど、みういさんは本当にこれでよかったのか。こんなぼくが夫でいいのか、プロポーズを受け入れてもらってからも、ぼくは不安で仕方がなかった。

 ひょっとしたら、みういさんはただの罪悪感や使命感からぼくのプロポーズを受け入れてしまったんじゃないかなんて、あの日の感極まったみういさんの声を覚えているのに、ぼくは今日も鬱々と考えていた。

「まあ、同僚たちから少し急かされているようなところはあったわ。同じ病院の医師の一人とのお付き合いを勧められていたの」

 心臓がひどく痛んだ。ぼくが相手でいいのかなんて不安に思いながらも、ぼくというやつはみういさんがぼく以外の誰かのものになることが耐えられそうになかった。

 ああ、ぼくはひどい奴だ。でも、そんなぼくの嫉妬に気づいたのか、みういさんはからからと笑いながらぼくの懸念を否定した。

「ちゃんと断ったわよ。わたしには恋人がいます、ってね」

 恋人。すごい響きだと思う。ぼくとみういさんが恋人になったのは去年、プロポーズのちょうど一年前の日だった。

 一年という時間は、恋人として相性を確かめ合うには短くて。けれどぼくたちの間には、もう十分すぎるほどの時間が積み重なっていた。

 そして何より、みういさんが少し焦っている気がした。早く、ぼくと結婚したいと、言葉にはせずともそんな気持ちが声に、そっと触れる手ににじんでいた気がした。

「……急いでいたの?」

 結婚、という言葉はいらなかった。わずかな動揺が、答えだったから。

 そっとぼくの手に手のひらを重ねたみういさんが、困ったように笑った気配がした。それから、そっと頬に触れるようなキスが落ちる。

 続く言葉はなかった。感極まったぼくが彼女を抱きしめようとしたその時、みういさんの携帯が鳴った。まさか仕事か――そう考えたけれど、電話先とやり取りをする彼女の声は次第にひどく深刻さをはらんでいった。

 電話が終わったみういさんは、おもむろにぼくを抱きしめた。その体は、ひどく震えていた。

 覚悟はしていたと、彼女は語った。ぼくは優しく抱きしめ返しながら、彼女の続く言葉を待った。

「……祖父が、危篤なの」

 そう告げた彼女の手を取って、ぼくは勢いよく立ち上がった。

 行かないといけない。結婚の報告に、そして、訪れるかもしれない別れのために。

 暗闇の中、ぼくは片手に手すりを、もう一方の手に彼女の手を握って、力強い一歩を踏みしめた。


 ◆


 海の音がした。もう何十年も聞いていないその音は、けれど今も耳の奥で鳴り続いていた。

 浜辺にある小さな村に生まれて育った。

 漁師の長男坊。ガキ大将に収まって、いろいろとやんちゃもした。やらかして帰った際、大抵親父は俺に拳骨を落とした。それから無言で俺の後ろ襟をつかんで、ずるずると部屋の奥に引っ張っていった。

 そんな親父が、ある時海に出たまま帰ってこなかった。嵐が近づいてきて、少しずつ海が荒れ始めた日のことだった。

 そんな日にどうして親父が海に出たのか。それはおふくろの誕生日に獲物を贈るためだった。そんなことのために、親父はとうとう帰ってこなかった。

 帰ってこなくて、最初はせいせいしたと思った。無口で、酒に弱くて飲むとすぐに顔を赤くする親父。何も言わずに即座に手を出す嫌な奴。

 そんな奴、いなくなったところでどうでもいいと、そう思っていた。

 けれど、一日経って、二日経って、一週間が経って、憔悴していくおふくろを見ながら、俺は腹のすわりが悪くて仕方がなかった。

 別におかしなことを思ってはいなかったはずだ。嫌な親父がいなくなってせいせいした。さすがにそれを口に出すことはなかったが、それでもおふくろにとって大切な人である親父にそんなことを考えている自分が嫌になった。なんとなく、おふくろのそばに、家に居づらくなって、俺は家を飛び出した。

 荒波が打ち付ける小さな港から、まっすぐ海岸沿いを歩き続けた。やがて岩場は砂浜に代わり、けれどそれでも、俺が親父の姿を見つけることはできなかった。船も、親父自身も、見つかりはしなかった。

 心の中に、いくつもの言葉が浮かんだ。おふくろを泣かせやがって、許さねぇ。一発ぶん殴ってやる。だから早く帰ってこい。早くおふくろに無事な顔を見せやがれ。

 どれだけ罵っても、親父は帰ってこなかった。

 無力だった。俺は、海という存在を前にひどくちっぽけだった。

 何もできない無能な俺には、ただ海をにらむことしかできなかった。

 白い泡があふれる、青い海。その姿が、なんだか無性に怖くなった。

 人をさらって、飲み込む海。親父を連れて行った海。

 暗くなり、その海面が闇をたたえるようになれば、俺はもう全く海が見れなくなっていた。

 砂浜のど真ん中に座り込んで、空を見上げた。

 薄暮の明星がいくつか、一足早く空に輝いていた。

 その星々をじっと睨みながら、俺は親父の帰りを待ち続けた。

 波の音に交じって、砂を踏みしめる音が聞こえた。その足音は俺のすぐ後ろで止まって、やがて小さなため息が漏れた。

「……お母さんが探してたよ?」

「なんだ、アヤコか」

 近所の女、俺より一つ年上のアヤコは、腕を組み、俺を見下ろしながら上から目線に告げた。一瞬、親父が来たのかと思った。あいつも、無言で近づいてくるから。

 どこか、がっかりしている自分に気づいた。そんな自分から目をそらすように、俺は鼻を鳴らして海をにらんだ。

 のっぺりとした海。荒々しい海。嵐の日に比べれば大したことはなったけれど、それでも唸るように音を立てる海は、やっぱりどこか怪物めいて見えた。

「ほら、帰ろう?」

 真横から差し出された手を見て、それから無視して今度は砂浜に横になって空を見上げた。いつしか周囲は真っ暗になっていて、雲一つない空には、まばゆい星々が輝いていた。それから、大きな黄色い月。

 目を閉じる。

 引いては押し寄せる波の音が俺の耳を震わせる。

 ザザァ、ザザァ。その声に、なぜだが親父の声が重なった気がした。

 勢いよく起き上がる。横から驚いたような気配がしたけど、無視した。

 黒々とした海をにらむ。

 ザザァ、ザザァ。その音の中に、声を探す。

 耳を澄ます。何も聞こえない。

 目を閉じる。やっぱり、何も聞こえはしない。

「ねぇ、帰ろう?」

 親父の声は、聞こえない。代わりに、うっとうしい声だけが聞こえていた。

 再び差し伸べられた手を振り払って立ち上がり、駆け出す。なんとなく、海から離れたかった。

 海が、呼んでいる気がした。お前もこっちへ来いと、そう言っているような気がした。

 行くもんか、そう心の中で叫んだ。

 俺はあんたとは違う。おふくろを悲しませたりしない。

 そう叫びながら、俺はもう一度だけ、夜の海をにらんだ。

 やっぱりそこには、月明かりに照らされた、闇夜に浮かび上がる白波だけがあった。

 背を向けて、歩き出す。

 早く家に帰ろうと思った。これ以上、おふくろを心配させないように。


 次の日も、その次の日も、俺は海へ足を運んだ。そうして、砂浜に座り込んで、海の音を聞きながら空を見上げた。

 海岸沿いを歩き続けたあの日、遅くに帰った俺を、おふくろは平手した。それから強く、強く抱きしめてきた。その体は、ひどく震えていた。

 あんたまでいなくならないでくれ――そんな、か細い声が聞こえた。

 これが海岸沿いだったら、今の声は聞こえていなかっただろうな。そんなことを思いながら、俺は翌日も自分が海へと足を運ぶだろうという確信を抱いていた。

 あれ以来、親父の声は聞こえなかった。ただ潮の音だけが世界には満ちていた。あるいは、潮風の音。

 海は、ほかのすべてをかき消してしまう。そうして、目を閉じた俺は海と一つになっていく。

 ザザァ、ザザァと海が鳴る。ビュウゥ、ビュウゥと風が鳴る。

 その声を聴きながら、けれど途中で怖くなって、俺は目を開く。

 暗闇に慣れた俺の目に、空高くに瞬く星の海が飛び込んでくる。迫ってくるようなその感覚が楽しくて、俺は再び目を閉じて海の音に耳を澄まし、それからおもむろに目を開く。

 その、繰り返し。

「……楽しい?」

 気づけば俺の隣にアヤコがいて、同じように浜辺に横になっていた。

「……さぁ」

 俺は自分の中に答えが見つけられなくて、吐き捨てるようにそう告げて再び行為を繰り返した。目を閉じ、耳を澄まし、海から解放される。

 闇から、海から解き放たれた瞬間、体が空に昇るような感覚があった。ふっと、自分が空の中にあるような気がして、手を伸ばせば星が捕まえられるんじゃないかなんて、本気でそんなことを考えたりもした。

 そんな俺の儀式に、俺以外の息遣いが割り込む。

 ふと、どうしてこいつは毎回俺のところにやってくるのかと、そう考えた。

 最初の数日、アヤコから逃げるために、俺はあえて砂浜とは反対側の岩場に足を運んで、座り込んで海を眺めた。そこに、アヤコはやってきた。

 次の日は、砂浜、その次の日も砂浜――何度も、アヤコは確実に俺を見つけた。

 歩き回っている様子はなかった。ただなぜか、まるで俺の場所がわかっているようにやってきては、無言で俺の隣に並んで、同じように海や空をにらんだ。

 にらんで、いた気がする。

 一瞬横目で見ただけだったけど、その目は険しく、確かに海をにらんでいた……と思う。

「ねぇ、悲しい?」

 アヤコが尋ねた。

「わからない」

 気づけば俺は、正直にもそう尋ねていた。

 ああ、わからなかった。悲しいのか、悲しくないのか、それすら定かではなかった。

 だって、現実感がなかった。本当に親父は死んだのか、それすら自分の中で定かではなかった。

 親父は死んでいるのかもしれない。あるいは死んでいなくて、こうしている今、海のほうからひょっこりと帰ってきて、「帰るぞ」なんて短く告げて俺をおいて歩いていくかもしれない。

 ああ、そうだ。俺の中で親父はまだ死んでいなかった。そして俺は、そんな親父を、ここでこうして待っていた。

「……親父が生きてるか、死んでるか、まだわかんねぇだろ?」

「そうね」

 それだけ言って、アヤコが隣で体を起こす。暗闇の中で目を凝らせば、やっぱりアヤコは海をにらんでいた。

 それから再び、今度は勢いよく砂浜に倒れこむ。貝殻でも頭に突き刺さったのか、小さく「痛っ」なんて悲鳴を上げながら。

「……漁師の星って知ってる?」

「ああ?なんだそれ?」

 唐突に始まったそれに、俺は思わず低い声を出した。ほかの女は、俺がこうして話せばおびえて逃げていく。でも、アヤコは違う。

 それが気に食わなくて、同時に、だからこそ気になった。

 こいつは、何を考えているんだろう、と。

 ゆっくりと、空に伸びた細い腕が、何かをつかむようにこぶしを握る。星でも、つかもうとしているんだろうか。

 その手は、やがてゆっくりと地面に降りていき、それからあるところで止まり、びしりと北の空を指さした。

「あの星が、北極星。漁師たちの、海を旅する者にとっての、導きの星」

「……北極星、なぁ」

「そう。いつも変わらず、空の同じ場所にある星。決してほかの星よりひときわ明るいわけではないけれど、それでも確かにいつも空にあり続ける星」

 その指の先を追って、俺もまた北の空をにらむ。だが、その北極星とやらは見つからない。星が多すぎるんだ。無駄に。

「……見つかんねぇ」

「教えてあげる。北斗七星ってわかる?あのひしゃくみたいなやつ」

 言いながら、アヤコは俺に顔を寄せ、手を取って俺の指を動かす。けれどその体のせいで俺の視界がふさがって、説明されてもよく見えなかった。

 立ち上がって、再びひしゃくを探す。その先端を五個分伸ばした先の星を追う。

「……あれか」

「そう。たぶんね」

 どこか自身なさそうに告げたアヤコがくるりとその場で振り向いて、ひどく真剣なまなざしで俺を見つめた。その目には、その顔には、「女」があった。俺の知らない、誰かがいた。

 覚悟が女を強くする――なぜだかそんなおふくろの言葉を思い出した。

「……私が、あなたの導きの星になるから。だから生きて。前を向いて生きて。お父さんのことを忘れる必要なんてないから、それでも、立ち止まらずに、歩き続けて。私も、あなたの隣で歩き続けるから」

 それは誓いのようでさえあった。

 月明かりに照らされるアヤコの顔は、わずかに赤かった。熱を帯びたようにひとみは潤み、海に反射する光を浴びて、星屑のように輝いていた。

 そんな彼女を見ながら、俺はもごもごと口を動かすことしかできなかった。

 覚悟が女を強くする――もしそうなら、覚悟が決まってしまった女に、目の前のアヤコに、俺はもう一生勝てないんじゃないかと思った。


 前を歩いていく背中が、変わる。

 その背中が大きくなり、服装が変わる。

 行くなと、手を伸ばす。お願いだから、俺をおいていくなと、懇願を込めて叫ぶ。

 けれどその姿は、あるところまで老いて、ふっと消え去った。


 周囲の季節が変わる。

 海から都会の街へ。

 故郷を出た俺たちは、関係も変わり、けれどそれでも、隣あって、支えあって生きていた。――ああ、大丈夫。まだ俺の隣には、アヤコがいた。

 アヤコは、星が好きだった。いや、星に希望を見出していたのかもしれない。

 記念日など、ことあるごとにアヤコは星を集めた。

 結婚記念日には、天井に張り付ける蛍光の星を買ってきた。息子の一歳の誕生日には、星の砂とやらを買った。そのほかにもたくさんの星と名のあるものを買ってきては、嬉しそうに、楽しそうに星を見せてきた。

 その星への祈りのかいあってか、息子はすくすくと育ち、何を思ったか、俺たちの故郷に居を構えた。

 息子から会いに来ればいい――そう思い、そう告げる俺の足は動かなかった。行けなかった。向かえなかった。

 まるで、呪われているように、あの場所へ帰ることを体が拒絶していた。

 こちらへ来ないかと息子に言われた日の夜、夢の中に親父が出てきた。もう顔もおぼろげな親父は、俺を見ながら笑っていた。海が怖いかと、笑っていた。

 夜、黒々とした海のことを思い出した。目を閉じた自分が、海の音と、風の音に包まれて、海に自分という存在が溶けて行ってしまいそうな恐怖にかられたことを思い出した。

 目を開いた。

 瞬間、視界を満点の星空が埋め尽くした。それはあの儀式の終わりと同じだった。

 違うのは、見上げる星空が、人工のものだったことだろうか。

 淡い緑の、蛍光の星。星の数も少なくて、とてもじゃないけれど星の海なんて表現はできない、規模の小さい星空。

 けれど目を開いた先に、そんな星空があることで、俺の心は落ち着いた。

 そうして俺は、息子たち夫婦の家に一度も足を運ぶことなく、あの日がやってきた。


 事故死だと、連絡があった。息子夫婦が死に、幼い孫娘が一人、遠く離れた街に取り残されていた。

 瞬間、呪いは俺を解き放った。

 焦燥感に駆られながら、俺は道を急いだ。暗闇の中、軽トラを走らせて道をひた走った。

 なぜだか、耳の中で海の音が響き続けていた。

 お前はまだ来ないのか――親父の声が聞こえた気がした。

 保護されたと、そう聞いていたのだが、孫娘の姿はたどり着いたその場所にはなかった。どうやらまた脱走したらしかった。管理に文句を言うよりも早く、俺はその場を飛び出した。

 慌てて、けれどどこか確信をもって、俺は海へと急いだ。

 その先に、いる気がした。親父がささやいている気がした。誰か、女性の声が俺を呼んでいる気がした。

 ここだよ、ここにいるよ、早く来て、ここだよ――

 その声に背中を押されるように、俺は老いも忘れて街を走った。

 村から街に発展した故郷。生まれ育ったそこは、土地開発を経て大きく発展し、かつての面影はすっかり消えてしまっていた。海岸沿いに広がっていた畑は消え、街が埋め尽くしていた。

 海岸沿いを走る道路を渡り、砂浜に降り立つ。俺が空を、海をにらんでいたあの場所だった。

 そこには、海をにらむ一人の少女がいた。白いワンピースに身を包む、幼い少女。

 まだ三歳だったか、小さな孫娘は打ち寄せる海につからないぎりぎりのところに立ち、その先に必死に手を伸ばしていた。

 その手に持った棒で、海をたたく。

 いや、それは棒ではなかった。柄から布まで、すべてが黒い傘。大きな大人用と思しきそれを必死に動かして、孫娘、みういは必死に海を叩いていた。

「……何をしてるんだ?」

 ちらりと顔を上げたみういは、けれど何も言うことなく、先端が浸かった傘を何とか動かそうと悪戦苦闘する。

「おほしさま、つかむの」

「星を、つかむのか」

 その横顔に、アヤコの顔が重なった。似ていた。当然だ。みういはアヤコの孫なのだから。

 かつて、砂浜にてアヤコが星に手を伸ばしていたように、みういもなぜだか、傘で星をつかもうとしていた。

 その体を、抱き上げる。不思議と、みういは抵抗しなかった。祖父である俺のことを覚えていたのだろうか。

 そんなことを思いながら、俺はなんとなく鞄を漁った。ふと、視線が鞄の端で揺れるものにとまる。

 そのガラス瓶の金具を片手で外し、コルク栓をほどく。

 そこには、白い砂が詰まっていた。

 息子が無事に一歳になった記念にアヤコが買ったそれは、無病息災のお守りだった。

 けれどそれはもう、役割を終えてしまった。息子は、死んだ。みういという命を残して――死んだ。

「ほら、ちゃんと捕まえろよ」

 言いながら、俺は小さなガラス瓶に入っていた星の砂を開放する。役割を終えた星、息子の「導きの星」が、薄闇に舞う。

 小さな少女の手が、不思議そうに舞い散る砂へと手を伸ばす。

 ふと、雲から月が顔をのぞかせた。途端に世界を光が飲み、黄金の輝きが夜に沈んでいた星の砂を浮かび上がらせる。

「星の砂……星のかけら、だな」

 柄にもなく、そんなどこか詩的な言葉が口を出た。

 腕の中、みういは懸命に、もがくように、星のかけらに手を伸ばす。

 懸命なその動きは、その姿は、確かにみういが生きているあかしだった。小さな孫娘が、確かに生きている証明だった。それだけ、俺が歳を取ったということで、それだけ、みういにとって星をつかむことが大切だということだ。

 どうして、それほどまでに星に手を伸ばすのか。ついぞアヤコが答えてくれなかった問を、俺は心の中でみういに投げかけた。

 果たして小さな孫娘は、手のひらにある星のかけらを俺に見せながら、満面の笑みで告げた。

「これで、おとーさんと、おかーさんに、あえるの!」

 その時、怒涛のように現実感が押し寄せた。

 歳を取ったせいだ。だから涙腺が緩んでいたんだ。そう思いながら、俺は静かに涙を流した。

 これだけ歳を取って、息子さえ死んでしまって。そうして今さらになって、俺は実感していた。

 海の藻屑となって消えた親父は、確かに死んだのだと。おふくろだってとっくに死んでしまって、ようやく、俺の心は、すとんと何かがはまったようにその事実を実感した。

 不思議そうに首をかしげるみういが、星をつかんでいた方の手を俺の方に伸ばした。

「あげる」

 その言葉の深い意味は、俺にはわからなかった。ただなんとなく、悲しそうな俺に星という希望を分け与えようとしたのだと、そう思った。俺にもまた、会えない誰かに会うための希望の星を分け与えてくれたのだと。

 小さなその手に上から手のひらを重ね、星のかけらに祈った。

 どうか、この子の未来が幸せなものでありますように――


 皮肉なことに、みういの人生は決して幸せだけじゃなかった。友人との死別に遭遇したこともあった。亡き友人を背負って生きようとするみういを、止めようともした。

 空だったはずの星の砂のガラス瓶にビーズを詰めて、無心でその音を聞いているみういを見ていると、心が痛んだ。

 けれどみういは強い子だった。絶望から自分で立ちなおって、前を向いて歩き出した。


 ――だからもう、安心してしまったんだよな?

 気づけばそこは闇に沈む砂浜で。隣に浮かぶ、体が透き通ったアヤコに、俺は尋ねる。

 ほほえむ彼女は、何も言わない。ただじっと、俺を見ていた。

 誘うように、その手が伸ばされる。

「待たせて悪かったな」

 その告げて、その手を取ろうと伸ばして――

 声が、聞こえて。俺の手に、すでにぬくもりがあった。懐かしい声が聞こえた。

「悪い。もう少しだけ待っていてくれ」

 仕方がないなぁと笑った彼女が消える。すぐに後を追うと、アヤコがいた場所に視線を送り、俺はそっと目を閉じた。

 遥か昔。親父の帰りを待ちながら砂浜に寝そべっていた時のように、海の音が、波の音が、俺を飲み込んでいく。その音は、もう怖くはない。けれどまだ、その音に飲まれて眠るわけにはいかない。

 覚悟とともに、目を開く。水中を泳ぐように、粘性ある世界をもがき進み、水面の先に輝く光へと手を伸ばし――


 ◆


 みういさんのお爺さんが入院している病院は県外にあった。

 車で飛び出したぼくたちは、道中数回の休憩をはさみ、空が暗くなるころにやっと病室にたどり着いた。

 90歳を超えた彼は、浅い呼吸を繰り返し、ただ静かに、眠っていた。みういさんのお爺さん。顔を知らない彼へと、みういさんはそっと近づいた。

 車の中で話を聞いたけれど、末期がんのお爺さんは、延命治療をしていないそうだ。お婆さんはもう五年ほど前に亡くなり、お爺さんにはみういさん以外に血縁者もいないという。初めてみういさんが両親を若くに亡くしていたことを知り、ぼくは言葉が出なかった。

 昔のことだから――そう告げるみういさんには、気負いのようなものはなかった。たぶん本当に、みういさんの中で両親の死は過去のことになっているのだと思う。心の清算は済んでいるのだ。

 だとすれば、時折みういさんが見せる、暗い夜のような顔は何だったのだろうかと、そう疑問を抱いた。誰かの死を悼むようなあの気配の正体を、ぼくはまだ聞けずにいる。

「おじいちゃん!」

 ぼくの手を握りながら、みういさんが呼びかける。何度も、何度も。

 やがてその声が届いたのか、お爺さんはゆっくりと身じろぎをした。

「……みうい、か」

 しわがれた声が響く。みういさんから、泣きそうな気配がした。

 衣擦れの音。鼻をすする音。たぶん、みういさんは泣いている。

 大丈夫だから――彼女を支えるように、ぼくは一歩前に出てみういさんのすぐ横に並ぶ。

「おお、ハルくんか。また大人になったな……みういを、頼むぞ」

 ぼくの目には、みういさんのお爺さんの姿は映らない。けれどなんとなく、彼がすがすがしく笑っていた気がした。

 これで彼と会うのは二度目。以前よりもその声は弱弱しく、命の灯が消えようとしているのがなんとなくわかった。その言葉も、ひどく遺言めいていた。

 けれど、それでも、彼は生きていた。最後まで、生きようとしていた。

 そこには強い、魂の輝きのようなものがあった。

 ふっと、彼の声から力が抜ける。

「窓を、開けてくれるか?」

 静かにうなずいたみういさんが、ぼくから手を放して歩き出す。手の中から、熱が消える。息遣いと、小さな足音だけが病室に響いていた。

 ガラガラと、ステンレスの窓が開かれる。小さな衣擦れとともに、お爺さんがその先を見る。

 ぼくの視界よりは、たぶんずっと明るい空。四角く切り取られた、ともすれば街明かりに塗りつぶされた世界を、お爺さんはじっと見ていた。

「導きの星は……見えんか」

 か細い声が聞こえた。

「おじいちゃん、これ。お土産」

 言いながら、みういさんが鞄の中から小物を取り出す。それを見て、お爺さんが声にならない息を漏らす。

「……それ、は」

「あの街の砂よ」

 急ぐ道中、わざわざ寄り道してまで採取してきたそれが、みういさんからお爺さんの手に渡る。その呼吸が、震えていた。

 サラリ、ジャラ、とかすかな砂の音がした。

 海の音ね、とみういさんがつぶやいた。

 声を押し殺して、お爺さんが泣いていた。

「ああ、遅くなってすまんかった。俺も、お前たちのもとに行くとしよう――」

 そう告げたお爺さんの手から、鳴らしていた砂の音が途切れる。

 それでも、砂の音は、絶えずぼくの耳の中でなっていた。

 砂の音。海の音。

 体から飛びだしたぼくという存在が、遥か遠く、あの街の海へ飛んでいく。

 ザアアアア――そんなどこか静かで、けれど力強い海の音が確かに聞こえた気がした。

 みういさんが、そっとぼくの手に触れる。その手は、震えていた。

 みういさんもまた、泣いていた。

 遠く海の音を聞きながら、ぼくはただ静かにお爺さんの人生に思いをはせた。


 ◆


 長い階段を昇る。

 なぜだか、どんな用事であるかも聞かないうちから頑なについて行くと告げるハルの手をとって、一歩一歩、階段を昇っていく。

 やがて視界は開け、見渡す限りの墓石がそこに現れた。

 隣で荒い息をしているハルにもう少しだと告げて、わたしたちは歩き出す。

 その胸に、星を持って。

「……ここに眠っているんだね?」

 墓参りだと、それだけを告げていた。そんな墓石を前に、ハルはどこか不思議そうにわたしに告げた。それ以上、彼は聞かなかった。嫉妬深いハルのことだから、わたしの言動にかつての男を見出して、それ以上考えないようにしているのかもしれない。あるいは、ただわたしを気遣ってのことかもしれない。

 そんなハルの配慮に感謝しながら、わたしは墓石を掃除して、そっと花と、それから青い小さな星を備えた。

「……何を置いたの?」

カチリ、という小さな音に反応して、ハルが尋ねる。どう答えたらいいかと少しだけ悩んで、別に隠すことはないかと、わたしはその正体を話すことにした。

「星のストラップだよ」

「へぇ、どんな?」

「青に、少しだけ銀色が入った、ビーズの星よ」

 それは、彼の形見だった。小学生の頃、死んでしまった友人がわたしにプレゼントしてくれるはずだったもの。それを受け取ったのは、彼が亡くなってからだった。

「みういさんは本当に星が好きだね?」

「そう、かしら」

 胸に手を当てながら考える。わたしは、本当に星が好きなのかと。

 答えは出なかった。星に関して、わたしの中には物語がありすぎるから。

 きっとこれからも、わたしの人生には星がかかわってくる。そうして、時に星を嫌いながら、わたしは星に寄り添って生きていくのだと思う。

 一言告げてからハルから手を離し、わたしはそっと墓前に手を合わせる。

 長く来られなくてごめんなさい。ハルを紹介するような形になってごめんなさい。陸、あなたは今のわたしを見て何を思ってるのかな。わたしの隣にハルがいることに嫉妬しているのかな?

 わたしね、陸のことが好きだったよ。陸が好きだった。だから、立ち直れなかった。

 でも、もう大丈夫。ようやくわたしも、心の整理がついたの。だから、見守っていてくれてありがとう。最後まで、わたしのことを考えてくれてありがとう。

 それから、この星はあなたに返すね。この青い、わたしのことを守ってくれるあなたの星は。

 大丈夫。安心して。

 そう告げて、わたしは横で真剣に祈りをささげていたハルの腕を取る。

「わたしはもう、わたしの導きの星と共にあるから」

 だからどうか、見守っていて。空高く、星々の一つとして輝きながら。

 見上げるそこには、星は見えない。見渡す限り、雲一つない青空が広がっていた。

 陽光差す世界に、星は見えない。それでも確かに、星はそこに輝いている。

 わたしの言葉を承諾するように、星の一つが一度、強く輝いた気がした。


 星の下、わたしは今日も日々を生きていく。

 今日も明日も、その次の日も。

 海の隣にある、あの街で、日々を積み重ねて生きていく。


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