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彼方まで

作者: 加藤とぐ郎

 彼女は二ヶ月前に付き合った同級生の男の子とデートをする予定だった。お互いに意識していたけど、彼女は別段関係を持とうなどとは考えていなかった。彼から想いを告げられて、嬉しく無かったわけじゃない。ただ、待つ時間が途方もなく感じて、帰ってしまったというだけだ。不意のことに自分でも制御が効かなかったのか。歩みは止まらず爪先は定まらず、何処へとも無く前進していた。


 悪い気はしている。誰も乗ってない公園のブランコを揺らして、錆びついた音を出す。後悔もしている。名前もわからない町の公園は静かで、照らされて赤を纏う。寂しいブランコに腰をかけて一息ついた。言い訳が許されるなら、あの時全てが馬鹿馬鹿しく思えてどうでもよくなって、ほんの少し羽を伸ばしたくなったのだ。と、正午前から日暮れまで放浪し続けたにしては下手な言い訳を宣うつもりだ。普段人並みしか使わない脚が悲鳴を上げて、ブランコを吊る鎖も共鳴する。彼になんと謝ればいいだろうか。家族もきっと心配している。それよりどうやって帰ろうか。古臭く肌触りの悪い音色を奏でながら反省した。反省しても仕方ないのではないか、過ぎたことは過ぎたことだと、彼女の内の生意気が彼女自身を嘲っている。彼女はまるで犯人を睨むように恨みがましく、心の中にいるそいつを見つめる。疲れからか睡魔も黙ってやってきた。彼女はブランコを立ち、ベンチに向かって重い足を投げて投げた。時間が経つにつれ体重が増していく感覚を覚え、ため息を吹いた。横になろうとして左手をついた時、左の頬と右肩が触れ合った。人の気配に全く気付かず、心臓が上半身を一瞬ではね起こす。

「あ、すみません」

ベンチの端に座っていたのは、こざっぱりとしたシャツ姿の華奢な美少年だった。端正な面立ちで、繊細なガラス細工のように整った鼻に、彼女は足裏から全身まで痺れるように見蕩れてしまった。彼は優しく微笑み、穏やかに彼女を見つめ返す。

「すみませんでした」

彼女はもう一度丁寧に謝った。


 「ここへはよく来るんですか?」

「えっと、初めて来ました」

「そうなんですね……。ほんの少し、高台になってるこの公園には、町を見下ろしながら座れるベンチがあるんです。夕暮れ時に望める絶景が好きで、何度かこの場所で夜を迎えました。ここで人に会ったのは初めてです」

「本当だ」

「誰かと一緒に眺める景色もまた良いものですね」

二人は同じベンチでくつろいで、素朴で素敵な遠くの町並みに夢中になっている。夕日は緩やかにひっそりと遥か向こうに吸い込まれていく。彼女はいつの間にか彼の横顔に視線を移していた。その眼差しが、彼の意識を遅れて取り込む。

「どうされましたか」

また彼の微笑みだ。胸が浮遊する感覚だ。

「ごめんなさい、つい。すごく綺麗な顔だなと思って。モデルさんですか?」

「いいえ。ただの一般人ですよ」

からかうような彼の笑顔は、洗練された大人の色を匂わせる微笑みと対称に、無邪気で愛おしい子どもの純粋さが明るかった。

「一つお願いしてもいいですか?」

「はい?」

実はお願いなんて何も考えてないのに、無意識に口をついて出てしまった。飲み込もうとした時には、既に震えていた言葉が、彼女を追い詰める。どうすればいい。何を頼めばいいのか。頭が混乱してしまう。何か欲しいものは。何かしたいことは。落とした目線の先に、座面に軽くほうり出された彼の右腕があった。袖を通り抜けた肘から指先まで色白で細身の美しい腕だった。小柄な体躯に似合って一見弱々しく見えるが、僅かに透き通る血管や筋肉の形は青い強さを孕んでいる。そして何より格好の良い手から長い指が伸びて、ベンチと掌の空間に影をつくっている。少年の高潔さはどこから来るのか、その一端を見た気がした。

「あの?」

「腕相撲。腕相撲しましょう」

「腕相撲ですか?」

動機は至って不純だった。ただ彼の手に触れたいという悩みに支配されて至った、真っ当な欲望。

「……。いいですよ。やりましょう」

彼は笑いを堪え切れず、肩を震わせて口元を隠した。


 平らな遊具に肘をついて二人は固く右手を握る。彼の手は冷たくて彼女の手の中で溶けてしまいそうだった。服が汚れることにまるで構うこと無く、膝は地面に着けて対戦相手に集中している。デートのために選ばれたはずなのに、気が付けば日没の公園で土を被る衣装。念願叶ってデートまでこぎつけたのに、集合時間に少し遅れたら恋人が失踪していた彼氏。

「じゃあ合図は好きなタイミングでお願いします」

目の前の美少年は告げる。

「いつでもどうぞ」

「それじゃあ。レディー……、ゴー!」

身体中の力を込めて、右腕で相手を倒しにかかる。どれだけ力んでもびくともしない。不思議なことに微動だにしないのだ。自分の腕力にはそれなりに自信はあった。見た目年下の少年に勝てるくらいの。動かなかった結び目は次第に傾いていく。優しく彼女の手の甲が遊具に当たる。

「腕の力がお強いですね」

「そんな、こと、言われても」

息が上がって汗も少しかいていた。一方、勝者の涼しげな表情は一切変わらなかった。

「次は左手で勝負しましょうか?」

「いや、いい。あと、勝ったんだから、敬語じゃなくて、いいよ」

「はい。ええと、うん、かな?」

「うん」

「うん」


 二人はまたベンチに戻って、明かりが点き始めた町を見渡した。公園灯も点いて、頼りなく薄暗闇を照らしだす。

「最後に、この景色が見たくてここに来たんだ」

「遠いところに行くの?」

「うん。もうここへは戻ってこない。本当はもっと他の色々な場所にも行きたかったんだけど、もう去らないといけなくなっちゃったんだ。この、特別でも何でもない普通の町並みが、なぜか一番忘れたくなかった。最後にここに来れて良かった」

「寂しくならない?」

「なるよ。でも、また出会いがある。寂しさと同じくらい懐かしくなれたら、それで良いんだよ」

「今日みたいに」

「うん。今日のことは絶対に忘れないよ」

「じゃあ約束ね」

深く潜るように辺りは暗くなる。別れの時に近づいていく。どうすることもできない。錆びついた鎖を揺らして、風は消えて失せた。虫の鳴く声もうまく聞こえない。周りの全てが他人みたいに静まりかえるから、彼女は心細さで凍えてしまいそうだった。

「ひとりが怖いときはどうしたらいい?」

「今までのことを思い出す。そうすれば怖くても、大丈夫だから」

「何も思い出せなかったら?」

「その時は」

彼は言う。

「その時は助けが来るのを待てばいい。必ず誰かが傍にいてくれるから。少なくともここに一人、そういう人を見過ごさない()()がいるしね」

二人の背中は小さな灯りに照らされていた。


「あのさ、いつかまたこうして会えない?ちょっとでいいからさ」

「ごめん。できない」

「そっか……」


 すっかり別世界に来てしまったようだ。彼女が見覚えのあるものは星空くらいだった。来た道を引き返せそうにもないので、すぐわかるような建物を探す。携帯電話を使えば迎えにきてくれるだろうと彼女は考えたのだ。数時間ぶりに電源をつけると物凄い量の着信が入っていた。突然姿を消して音信不通になれば、無意味でもかけ続けてしまうものらしい。メールの通知の量も三桁を超えていた。迷惑を掛けてしまったなと、心が痛む。お説教されるかもしれない。その前に無事を喜ばれるかもしれない。恐る恐るゆっくりと無駄に時間を費やして、呼び出し音を鳴らす。


 直後、強い光に包まれて咄嗟に携帯を落としてしまう。振り仰ぐと彼が手を差し伸べている。ひとりが怖くなって不安に耐えて、そしたらいつか救われるのかな。待てば来るのかな、もしこなかったら。

「やっぱりさ!ちょっとじゃなくてずっと一緒でいいなら、来る?」

「うん。どこまでも」

アスファルトの上に残された携帯からの声を、聞く者は一人もいなかった。


それから時は二百年後。人間のいなくなった惑星に一つの舟が現れる。その舟は一つのお墓を建てると、そっと暗い宇宙の彼方まで去っていった。

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