僕の彼女は分裂する
いつも通っている通学路が、封鎖されていた。大して痛んでいるようにも思えなかったのに、道路の舗装工事をやっているからだ。その所為で少し遠回りをしなくちゃならない。
「まぁ、お陰でいつもとは少し違った風景が観られるのだから良いじゃないか。得られる情報量は多い方が良い。もちろん、記憶容量に余裕があるという前提付きだけどね」
軽く僕が愚痴を言うと、菊池さんはそんな事を言って来た。
恐らく、これは無理に“遠回り”をポジティブに捉えようとしているのでもなければ、僕をなだめようとしているのでもない、本心からそう思っているんだ。
どうやら、彼女(?)はそういう思考をする性質を持っているようだから。
いつも僕は菊池さんと二人きりで学校に向かう。そう聞くと、僕と彼女が恋人同士のように思えるだろう。でも、違う。何しろ、彼女は人間ですらないのだから……
最初の彼女の後に“(?)”を付けたのは、そういう訳だ。
生物の授業で習っただろうとは思うけど、僕らは多細胞生物だ。本来は別々の生物だった細胞がたくさん集まって協調行動を執る事で、“一つの生物”と表現してしまっても良いくらいのシステムにまでなっている。
その僕ら多細胞生物がたくさん集まって形成されるのが“社会”だ。そして、社会もたくさんの多細胞生物が協調行動を執る事で成り立っている。
ただ、もちろん、社会は“一つの生物”と見做せる程のシステムにはなっていない。境界線が非常に曖昧で、色々と作業を分化させてはいるけど、例えば二つに分断されたとしても、それぞれで勝手に生きていけるだろう。だから“一つ”とは言えない。
僕ら人間社会に比べれば、アリやハチなんかの“真社会性”を持つシステムの方が“一つの生物”により近いと言えるかもしれない。アリやハチ達は、“巣全体で一つの生物と見做す事が可能”とも言われているからだ。
産卵を担当する女王アリ、巣の形成や食糧の調達を担当する働きアリ、警備攻撃などを担当する兵隊アリ。そして、巣全体で脳。
もっとも、いくら“一つの生物”と見做せるからって、“アリの巣”とコミュニケーションを執るなんて不可能だ。言葉が通じるとか通じないとか以前の問題で、どうアプローチをすれば良いのかすら分からない。もし、会話ができたとしても、きっとフェロモンで会話する事になるのじゃないだろうか? 彼らは臭いに敏感だ。
しかし、僕らが知らなかっただけで、多数の生物が集まって“一つの生物”として機能していて、しかも人間が使っている言語等でコミュニケーションが可能なシステム…… “生物”は存在しているらしかったのだった。
ここまで語ればもう分かってくれるかもしれないけれど、
――そう。
彼女、菊池奈央はそういった個体型社会生物のうちの一体なのだった。種族名は“アリン”というらしい。
個体型社会生物アリン、だ。
「しかし、あれだね。どうにも、不可解なものだね、稲塚君」
学校に向っている途中、不意にそう菊池さんが言って来た。僕には何の事やら分からない。不可解というのなら、菊池さんの存在が一番不可解だけど、そんな事を言ったら絶対に怒られてしまうから言わない。
僕が何も返さなかったからか、彼女はこう続けてきた。
「ほら、さっきの道路の舗装工事だよ。さっきの道は、それほど痛んでいたようにも思えなかったのだけどね」
菊池さんは眼鏡をかけていて、知的な外見をしている。見た目は完全に普通の女の子だ。もしも、人間だったなら、と思わなくもない。言わないけど。
「ああ、」
と、それを聞いて僕は返す。
「多分、予算調整の為だと思うよ」
彼女は人間じゃない。だから、人間社会の事情にそれほど詳しくないんだ。
「予算調整って?」
「国は税金から予算を配分して色々な事に使っているのだけど、道路の管理もその一つで、予算が配分されている。ところが、その配分された予算を使わないと、予算を削減されかねないんだよ。
だから、“貰った予算は使っておけ”みたいな感じで、工事をしちゃうケースがよくあるみたいなんだ」
その僕の説明に彼女は「ほー、それは、なんともかんとも、だねぇ」などと呆れているのか感心しているのかよく分からない口調で返して来た。
いや、“感心している”は、ないかもしれない。それで人間は貴重な資源を自ら無駄遣いしてしまっているのだから。もしあるとしても、人間という生物の愚かさを興味深く思っているだけだろう。
――彼女と初めて会ったのは、冬休みの時のことだった。僕の隣の家に、彼女が引っ越して来たのだ。年の頃も近そうで、地味ではあるけど、それほど悪くはない外見をしている女の子、とくれば意識しないはずがない。それで、家の近くをうろうろとしている彼女に僕は気が付いたのだ。
初めは散歩しているだけなのかと思っていたのだけど、それにしては少し変だ。何度も同じ場所を行ったり来たりして、困っているようにも思える。だから僕は「どうしたの?」と話しかけてみたのだ。
すると彼女は「すまないが、コンビニエンスストアというお店に案内してもらえないだろうか?」とそう言って来た。
この辺りにはコンビニが少ない。見つけられなくても、まぁ、無理はない。だから僕は、少々話し方が特徴的だとは思ったけど、あまり彼女を不自然には思わなかった。その時点までは。
ところがだ。
僕が近くのコンビニに連れて行くと、彼女は「おお、確かに色々揃っているな。ネットの情報通りだ」などと発言したのだ。
まるで、コンビニに来たのが初めてみたいな口調。この日本に生息していて、コンビニを利用した事がないなんてあるのだろうか?
それで僕は、もしかしたら外国の人なのかと思って尋ねてみたのだ。すると彼女は「そうだね。人間社会で暮らすのは初めてだな」なんて言って来たのだった。
“人間社会”ときた。
これはもう確実に変な子だろう。
どうしようかと思ったのだけど、なんだか気になってしまったので、僕は彼女の買い物に付き合うことにした。
「心配しなくても、お金の使い方くらいは知っているよ」
と、彼女はそんな事を言って来たけど、別にそれを心配した訳じゃない。
コンビニで彼女は食糧の類を買おうとしているらしかった。しかも、成分表示を読んで判断するという変わった買い方だ。それで一人暮らしなのかと尋ねてみたらそうだと言う。
これまでの経緯からいって、彼女はコンビニで買うと割高だと知ってはいないだろうと僕は判断した。それに、金持ちにも思えない。それで僕は、「スーパーとかの方が安く買えるよ」と教えてあげたのだ。
彼女はそれを聞くととても興味深そうな顔で僕を見た。なんだか、案内しない訳にはいかないような流れだったので、僕は彼女を近くのスーパーに案内した。そして、そのまま二人でスーパーで買い物をした。
彼女はスーパーで食糧品をたくさん買い込んだ。その後で家まで帰って来たは良いけど、案の定と言うかなんと言うか、彼女の家には調理用具の類が一切なかった。これじゃレトルト食品の類すら食べられない。それで僕は僕の家のキッチンを貸してあげることにしたのだった。
ただ、やっぱりと言うかなんと言うか、彼女がキッチンの使い方も知らなかったものだから、一緒に料理をする事になってしまった。
その光景を見て母さんは、「あらあら、うふふ」などと何を勘違いしたのか喜んでいた。息子の成長をこんな事で実感しないでもらいたい。
それから僕の部屋の炬燵で、彼女は料理を食べた。
普通なら、これだけ世話をしたのだから、関係が深まるとかそういう男女のあれやこれやの流れになってもおかしくはないシチュエーションだ。
しかし、とこがどっこい、そんな事には一切ならなかったのだった。何故なら、それからとんでもない異常事態が発生したからだ。
食べ終えた彼女は炬燵でまどろんでいた。どうも炬燵も初体験だったらしく、「これはなんとも心地が良いものだね。とろけてしまいそうだよ」などと言っていたのだけど、なんと、それから本当に彼女はとろけていってしまったのだった。
……しかも、肉体的な意味で。
眠たそうに突っ伏すと、彼女はそのまま雪崩のように崩れていって、何かモチのような肌色の球体になって転がっていく。
え?
僕は頭の上にクエスチョンマークが浮かびまくって、その光景をただただ目を見開いて見守っていた。
いや、どうすれば良いのかまるで分からなかったんだよ。
……君だって、もし同じ立場だったなら、それが現実だなんて思えないだろう?
僕はそれを手品か何か、或いは目の錯覚だと思い込もうとした。そして、彼女が「えへへ、驚いたかい」とでも言って、炬燵の中から登場するのを期待してしばらく待っていた。ところがいつまで経ってもそんな気配はない。いや、そもそも彼女のキャラクターからいって、そんな事はしそうにはないのだけど。
これは、なにかただならない事が起こっている。
ようやくそれを認めて、僕は彼女がどうなってしまったのか確認しに彼女が崩れてしまった炬燵の反対側に行った。すると、そこには信じられない光景が展開されていたのだった。
そこには、小さな、とても小さな菊池奈央がたくさんいて、炬燵の中に半身を突っ込んで一様にまどろんでいたのだ。なんだか、幸せそうな顔をして。
――ううん。
僕は目を瞑って目頭を押さえた。
目の錯覚だ。
再びそう思い込もうとした。これが目の錯覚でなくて何だと言うんだ? でも、何がどう錯覚すればそんな光景が見えるのかは検討もつかなかったけど。
「えへへ、驚いたかい」
と、そこでそんな声が聞こえた。
恐る恐る目を開けてみると、小さな彼女のうちの一人が、炬燵から這い出して来ていて、僕を可笑しそうに見つめていた。
彼女はもちろん裸だった。ただ、裸といっても人間のそれじゃない。マネキンの裸と言えばイメージし易いだろうか。だからあまりエロい感じはしなかった。彼女は胸もさほど大きいタイプじゃないし。もっとも、これは好みが分かれるところだとは思うけど。いや、そんな場合ではまったくなく……
「君は一体、何なの?!」
そこで僕はそう大声を出してしまった。声を抑えたつもりだったのだけど、きっと家中に響いていたのだと思う。母さんが「何かあったの?」とやって来たから。なんとか誤魔化せたけど。
その後で彼女はこう言った。
「見ての通りだよ、稲塚君。私は個体型社会生物なんだ。種族名は“アリン”という」
――アリン?
「人間じゃないってこと?」
「見てわかるだろう? こんな人間がいるかい?」
僕の頭は最高速度で絶賛、混乱中だった。そんな混乱中の僕の目の前で、彼女はなんだか少し楽しそうにしている。
それから彼女は「すまないが、私のスマートフォンを取ってくれないかな? このサイズだと少々難儀でね。“他の私達”は、なんだか動く気はないみたいだし」などと言って来た。
確かに“他の彼女達”は(なんだか、変な日本語だ)、炬燵の中でまったりしていて、出て来る気は皆無に思えた。
僕はまだまだ戸惑っていたけど、言われた通りにスマートフォンを持って来てあげた。彼女は「おお、ありがとう」などと言いながら、それを操作する。裸のまま、炬燵の外で。サイズが小さいから、なんだかダンスをしているように思えなくもなかった。
「今日は色々と情報が集まったからね。整理しておきたいんだ。それに復習も追加の調査もしたい。何しろ、私は人間社会についてまだまだ色々と知らないことだらけなものだから」
戸惑った僕の様子に気が付いたのか、彼女はそれからそう説明して来た。
僕は少し考えると、それから人形用の服を取って来て彼女に差し出した。小さな頃に買ってもらった人形に着せてあったもので、少々ゴスロリっぽいやつ。裸のままじゃ寒そうだと思ったんだ。
「これはこれは何から何まで本当にありがとう。このままのサイズだと、表面積が大きいから寒さが辛いと思っていたんだ。君は随分と優しいね」
それに彼女はそうお礼を言って来た。
その服のサイズは少々彼女には大きかったけど、なんとか着られたようだ。ブカブカの服を身に纏ったその感じは少し可愛かった。
「君は本当に何なの?」
少し落ち着くと、そう僕は尋ねた。
「――うん」と、彼女はそれを受けて一呼吸。
「アリっていうのは、巣全体で一つの生物とも表現できるってのを聞いた事がないかい? 私はいわばそんな生き物なのさ。小さな個体がたくさん集まって、一つの生物体を形成しているのだね」
僕はそれを聞いて考える。
いや、考えるまでもなかったのだけど、そんな生物が地球上にいるなんて聞いた事がない。だとするのなら、やっぱり一番可能性があるのは地球外生命体…… または、異世界からやって来た何かだったりして。
「君は別の世界の住人なんだね。何処からやって来たの?」
ところが、そう思って尋ねてみると、彼女はキョトンとした顔で「何処? 何を言っているんだい?」と不思議そうに返して来た。いや、“何を”ってと僕は思ったけれど、それを無視して彼女は続ける。
「普段は固まって一つとして機能しているのだけどさ、大変にリラックスをすると、こんな風にバラバラになってしまう事もあるんだよ。困ったものだ」
彼女はそうは言ったけど、少しも困っているようには見えなかった。むしろ楽しそうに僕には思えた。相変わらずに、ダンスを踊ろうようにスマートフォンを操作している。
それを見ているうち、僕はいつの間にか自然と彼女を受け入れられていた。もしかしたら、彼女の物怖じしない態度のお陰かもしれない。
「しかし、前もって君の反応が観られて良かったな。まさか、ここまで驚かれるとは。他の人間達にはどう紹介しようかね」
その彼女の言葉に僕は驚く。
「ちょっと待って。まさか、他の人にも言う気?」
「ああ、もちろんさ」と、それに彼女。まるで当り前のような顔で。
それから僕は全力で彼女を説得した。絶対に不幸な結末になるから、絶対に秘密にしておいた方がいい、と。
そして、それを切っ掛けにして、僕は彼女と仲が良くなったのだった。その時話していた彼女の一部分…… 便宜上僕が“αちゃん”と名付けた彼女とは特に親しくなったと思う。
教室に入ると僕ら二人を見て、同じクラスの薬谷君が「おはよう。今日はいつもよりも遅かったね」と話しかけて来た。
「いやぁ、道路工事をやっていて、遠回りしなくちゃならなくてさ」と、それに僕は返す。
ところがそれに、菊池さんが「予算調整の為の工事だよ」とそう続けてしまったのだった。
彼女にはどうも覚えたばかりの知識を使いたがる傾向があるようだ。それで記憶に刻み込もうとする特性があるのか、それとも単に子供っぽい一面があるだけなのかは分からないけど。
僕はそれを聞いて「シーッ」と“それ以上、言わないように”と合図を送る。実はこの教室でその手の話題はタブーなのだ。ところが菊池さんはそのジェスチャーの意味が分からなかったらしく首を傾げている。
「どうしたんたい? 稲塚君。予算調整の為の工事が何か問題でも?」
いやいや、色々な意味で大いに問題があるのだけど、それは今ここで口にしちゃいけないんだよ!
と、僕はなんとかそう表情で伝えようとする。しかし、相変わらず彼女はその意味が分からなかったらしく、不思議そうな顔を僕に見せている。僕は“これではいけない”となんとかジェスチャーで黙らせようとしたのだけど、彼女は「理由を聞く限りでは、あの工事はどう考えても資源の無駄遣いだよね」などと続けて言ってしまう。
……これはダメかもしれない。
そう僕が心の中で呟くと、案の定、そのタイミングでこんな声が聞こえた。
「あーら、菊池さん。“予算調整の為の工事”に何か文句でもあるのかしら?」
綾小路さんだ。
彼女はいかにもお嬢様といった風貌で、家柄がどうとか詳しくは知らないのだけど、金持ちである事だけは確かだった。何しろ、この辺りの道路工事は彼女の家の父親の会社がほぼすべて受注しているのだ。
つまり、その“資源の無駄遣い”で利益を得ている家のお嬢さんという事になる。
彼女はそれから無言で菊池さんを見つめる。威圧しているのだろう。
その彼女の態度と台詞と口調は控えめに言っても警告で、半ば脅しているようにも思えた。
ただ、それはやっぱり菊池さんには通じなかったようだった。
「私個人としては文句はないな。まだ、税金を支払っている身分でもないしね。
ただ、やっぱり税金を使っていて、それで限りある資源を無駄遣いされているというのは、公の利益に反しているのではないだろうか? 糾弾されてしかるべきだと思うけどね」
物怖じせず、滔々とそう語る菊池さんに綾小路さんは怒った表情を凝固させていた。まさか、こんな反応を菊池さんが見せるとは思っていなかったのだろう。
それを見たクラスの皆は、とても心配そうにしていた。
綾小路さんの家は金持ちで、まぁ、さっきも言ったように道路工事を請け負う仕事をしているものだから、この地域には彼女の会社に勤めている人達も大勢いて、その子供達はこの学校にも通っている。つまり、敵に回したら厄介な相手なのだ。だから、普通は誰も逆らわない。
「……なるほど。よく分かりましたわ」
けっこーな間が流れた後、綾小路さんは突然そう言った。それを受けて、菊池さんはキョトンとした表情になったが、それに、
「分かってくれて嬉しいよ」
と、そうニッコリと笑って返す。
多分、お互い、一ミリも分かっていないと思うのだけど。
「――あれはまずいよ、菊池さん。きっと、綾小路さんは君を敵視していると思う」
ホームルーム後の休み時間に、僕はそう菊池さんに忠告をした。
「何故だい?稲塚君」
それに不思議そうな顔で菊池さんは返して来る。
一応、前もって綾小路さんの事情については話してあったから、僕は“何故もなにも”とそれに少し困ってしまった。
「自分の家がやっている会社の仕事に“問題がある”なんて言われたら、普通は怒るものでしょう?」
それでそう説明したのだけど、菊池さん「何を言っているんだい?」とそう返す。
「“問題点を指摘してくれる”というのは、大変に良い事じゃないか。それを直せば、自分がより良く変わるのだから。つまり、それは有効なアドバイスだ。怒るようなことではないよ」
正論と言えば、ド正論なのだけど、世の中の人間達がそんなド正論が通じるような大人ばかりとは限らない。
いや、言うまでもない事なのかもしれないけど、むしろ“子供のまま”の人の方が圧倒的に多いのだ。
「とにかく、綾小路さんはきっと何か君に嫌がらせをしてくるだろうから、気を付けた方がいいよ。何をして来るかは分からないけどさ」
彼女に納得をさせるのは難しいと判断した僕はそれからそう言ってみた。彼女はそれに「杞憂だと思うけど、でも心配してくれるのは嬉しいな、ありがとう」などとのん気な口調で返して来る。
どうか無事に済みますように。
それを聞いて僕はそう祈った。
――体育の時間。
いつもは、男女が別々に別れ、二クラス合同で授業するはずなのに、何故かその時は男女合同だった。
その昔は、ブルマなる伝説の着衣を女生徒達が体育の際に身に付けていたらしいが、今は色気も何にもない単なるジャージなので、それほど嬉しくはない。
因みに、ブルマは元々は、女性解放運動の過程で生み出されたものなので、本来は女性蔑視的なものではないそうです。なんで、こんな事になってしまったのやら……。
とにかく、その日の体育の授業は男女合同で、しかも種目はドッチボールだった。
それを聞いて、女生徒達の一部は「男の力で投げたボールを当てられたりしたら痛いじゃない!」などと文句を言った。男生徒達は何も言わなかったけれど、多分“女の子達を守ってポイントを上げるチャンス!”なんて大半が思っていたのじゃないかと思う。
女生徒達から多少の反発はあったものの、ドッチボールは問題なく始まった。ところがそのチーム分けを見て僕は不吉な予感を覚えてしまったのだった。
菊池さんが振り分けられたチームは、運動神経が鈍い生徒、または綾小路さんに服従する生徒達ばかりで固められていたのだ。
しかも、対戦相手チームは超強力なメンバーばかりで、最近になって引っ越して来た隣のクラスの転校生の大蟹君というとても身体が大きい男生徒までいた。
絶対に腕力も強い。彼のボールに当たったら、とても痛いだろう。下手すれば怪我をしてしまうかもしれない。
彼は最近になって綾小路さんの会社が受注した農道を広げる道路事業の為にやって来た家の息子で、もちろん、彼女の息がかかっているだろう。
綾小路さんを見てみると、なんだか不敵な様子で笑っている。
これは、もう、完全にアレだろう。彼女はこのドッチボールの試合を仕組んだのだ。もちろん、菊池さんへの嫌がらせの為に。
試合の前、僕は菊池さんに近寄ってそっと忠告をした。
「多分、君に強いボールを当てるつもりでいるよ、気を付けて」
彼女はそれに頷くと、自信満々の口調でこう言って来た。
「うむ。心配しなくても大丈夫だ。ちゃんと、ドッチボールのルールは調べてある」
「いや、そんな事を心配しているんではなく……」
そう僕が言いかけたところで、小さな声が聞こえた。
「稲塚君、稲塚君」
と。
見ると、肩の辺りから、小さな菊池さんの姿が見えている。αちゃんだ。
「どうしたの? まずいって、こんな所で姿を見せちゃ」
そう僕は心配して言ったのだけど、彼女はそれに構わずこんな事を言う。
「あの“大蟹”という男生徒、恐らくは私と同種だと思う」
「え? それって、つまり……」
「うん。“個体型社会生物アリン”だ」
僕はそれを聞いて、大きく目を見開いた。彼女は楽しそうにこう続ける。
「非常に興味深いね。彼についてもう少し知りたいな。彼はどう見ても、人間社会に巧く溶け込んでいるじゃないか。協力者はいるのだろうか?」
僕も大蟹君については、それほど詳しくはない。
「いやぁ、どうなんだろう? 彼は最近になって転校してきたからよく分からないな」
それに菊池さんはこくりと頷いた。
「とにかく、ファーストコンタクトだ。彼がドッチボールでどんなプレイをするのか、取り敢えずはじっくり観察するとしよう」
そう言うと菊池さんは、僕の話も聞かずにドッチボールのコートに向って駆けて行ってしまう。
“……多分、じっくりと観察している場合じゃないと思うのだけどなぁ”
そして、そう僕は不安になっていた。
菊池さん達のドッチボールの試合が始まった。相手はAというチームで、菊池さんはCというチームだ。
その試合の動きは明らかに変で、菊池さん達Cチームの人達は、わざとボールに当たりにいっているようにしか思えなかった。もちろん、綾小路さんからそうするように指示を受けているのだろう。運動神経が鈍いメンバーは、ほとんど役に立たないし。
それで、瞬く間にCチームは四分の一ほどに減ってしまった。そんなところで、“実力を試してみよう”とでも思ったのか、例の菊池さんと同じ個体型社会生物だという大蟹君にボールが渡った。
驚いた事に、大蟹君は片手でボールを掴んでいる。ハンドボールなら分かるけど、ドッチボールでこれは見た事がない。
彼はコートをゆっくりと探すような動きで眺め、薬谷君の方を見ると止まった。どうやら菊池さんは最後まで残しておくつもりでいるらしい。
薬谷君は自分がターゲットにされていると気が付いたのか、怯えたような表情になった。動いた方が良いと思うのだけど、どうも竦んでしまって動けないようだ。
大蟹君はドッチボールを掴んだ手を大きく振り上げる。そのまま、上から振り下ろすようにしてボールを投げ、薬谷君にぶつけるつもりだ。薬谷君はとても非力だ。大蟹君の力でボールを当てられたら、骨でも折れてしまうような気さえする。
「ちょっと、手加減しなよ!」
僕は危ないと思って、そう大声を上げた。大蟹君は少しだけそう言った僕の方に目を向けたけど、“何の事か分からない”といったような感じで無視をすると、そのままボールを薬谷君に向って投げてしまった。
予想通り、それは物凄いスピードだった。しかも、顔に向っているように思える。顔面に当たったら、鼻血ブーな事態は避けられないだろう。
“危ない!”
僕はそう思った。けれど、そのボールは薬谷君には当たらなかったのだった。何故なら、菊池さん、彼女が彼に当たる前にボールをキャッチしていたからだ。華麗に回転してボールの力を逃がす事で、難なくその剛速球を捕ってしまった。凄いテクニックだ。
それから彼女は「ふーん」とそう言って、ボールを手の平の上で遊ばせた。そして、周囲をゆっくりと見渡すと、
「なるほど。これが“嫌がらせ”か。何を怒っているのかは分からないけど、なかなか陰険な事をするね、綾小路さん!」
そう言った。
名前を呼ばれた綾小路さんは、「あら? 何の事かしら?」としらばっくれている。それに意味があるのかどうかは分からないけど。
「しかし、無関係な者を巻きむのは、あまり感心しないな。狙うのなら、私一人を狙えば良いじゃないか。
それとも、直接私と対決するのが怖くて逃げているのかな?」
「なんですってぇ!」と、それを聞いて綾小路さんは叫ぶ。菊池さんはおかしそうに「ふふ」と笑うと、
「まぁ、しかし、それならそれで楽しませてもらうよ」
と告げ、ボールを指でクルンと一回転させた。そして、ボールを持ったまま駆け出すと相手チームに向って投げる。
スピードはそれほど速くない。これでは簡単にキャッチされてしまいそうだ。ところが、何故かボールをキャッチしようとした生徒は受け損なってしまったのだった。
その生徒の運動神経はかなり良い。いつもなら、簡単にそんなボールくらい捕っている。単なるミスか、それとも……
皆の注目が集まる中、そのボールを当てられてしまった生徒はミスじゃないと訴える為かこう言った。
「違う! ボールが曲がったんだ!」
その言葉で、今度は菊池さんに注目が集まった。
「不思議がる必要はないよ。回転させる事で、空気の抵抗を変えて、ボールの軌道を変化させられるのさ」
その皆の視線を受けて、彼女は楽しそうにそう説明する。つまりは変化球だ。
「なんで、そんなの投げられるんですの?!」
それを聞いた綾小路さんは驚いた声でそう言った。まったくだ。なんで投げられるのだろう?
当初の目的は、恐らく、コートの中を菊池さん一人にした上で、大蟹君にボールを集め、その剛速球で、彼女を痛い目に遭わせる事だったのだろう。
が、どうやらその菊池さんの信じられない身体能力によって計画は一変してしまったようだった。負けてしまったら堪らないとでも思ったらしく、早い段階で菊池さんを潰す作戦に変更したようだ。皆が菊池さんを狙ってボールを投げる。しかし、彼女はそれらをことごとくキャッチしてしまう。恐ろしく器用だ。
そして、彼女がボールを投げれば、そのマジックのような変化球をキャッチできる生徒は一人もいなかった。
もしも、強烈なボールを当てられたりしたら、ショックで菊池さんの一部が分裂してこぼれてしまうのじゃないか?と僕は不安に思っていたのだけど、どうやらその心配はなさそうだった。少し安心する。
そうして、菊池さんの大活躍の結果、あっという間に相手のAチームのコートの中にいるのは、大蟹君ただ一人になってしまった。
ぐぬぬっ!
って、感じで綾小路さんは歯を食いしばってそれを見ている。とても悔しそうだ。
ところがそこで菊池さんは驚きの行動に出るのだった。
「大蟹君。パス」
なんと、敵である彼にボールを渡してしまったのだ。大蟹君は戸惑いの表情を浮かべている。そしてそれから彼女は綾小路さんを見やると言う。
「ねぇ、綾小路さん。あまり、こーいうのを引きずるのもどうかと思うから、一つ勝負をしないかい?」
「勝負? 何ですの?」
「今から私は大蟹君のボールを真正面から受けてみせよう。さっきみたいに、身体を回転させて威力を殺したりはせずにね。
それで、見事ボールを受け止められたなら、これからはこんな嫌がらせは止めてくれ。代わりに、もし、私がボールを捕れなかったら、私のできる範囲で何でも君の言う事を聞こうじゃないか」
「ほほー」と、それに綾小路さんは返す。
「“嫌がらせ”というのが、何の事かは分かりませんが、面白いですわ。その勝負、受けて立ちましょう。
もしもわたくしが勝ったなら、あなたはわたしの家来になるのですわよ!」
それを聞き、勝負を受けてしまったら、“嫌がらせ”だと認めているようなものだと思うのだけど、と僕は心の中でツッコミを入れる。
……と言うか、“家来”っていつの時代の発想なのだろう?
「いいだろう」と、それに菊池さん。
「さぁ、大蟹君! 彼女にボールを思い切りぶつけてやりなさい!」
それから綾小路さんはそう叫んだ。
……多分、彼女に“嫌がらせ”を隠す気はないと思う。
その綾小路さんの指示を受け、大蟹君は大きく振りかぶる。僕は心配をしていた。もし、仮にボールを受け止められたとしても、そのショックで彼女は少しくらいは分裂してしまうかもしれない。
ただ、彼女は恐れる様子を見せず、どこか楽しそうにすら思える表情で構えを取ったのだった。
自信があるのかもしれない。
だけど、彼女の場合、別の可能性もある。僕が説得をしはしたけど、彼女自身は未だに正体がバレることをそれほどまずい事だとは思っていないのじゃないか? だから平気でいるのかもしれない。
しかし、どう僕が心配しようが、既に時は遅かった。大蟹君はさっきとは比べものにならないくらいに力を込めると、「ふんがぁぁぁ!」と気合いを入れながら、ボールをぶん投げたのだった。
唸るようなボールが、菊池さんに向っていく。宣言通り、菊池さんはそれを避けない。正面から受け止めようとしている。
そして、
彼女の正中線のど真ん中、ちょうどみぞおちの辺りに、そのボールは激突したのだった。あれは絶対に苦しい。見ているだけで、それが分かった。彼女は「ガハッ!」と大きく目と口を開け、今にも何かを吐き出してしまいそうだ。
そして、ボールが激突した瞬間、彼女の背中の筋肉が微かに盛り上がってしまったのだった。僕はそれを見て冷や汗を出した。
――あれ、まずいんじゃないか? ちょっと分裂しかけている……
ところが、皆はそれをボールを受けた衝撃だと勘違いをしたようだった。
「おお! すっごいボールの威力だ」
なんて言ったりしている人もいる。
まぁ、普通、分裂しかけているなんて思わないだろうけど……
それから、菊池さんは軽くよろけたけど、ボールを落としはしなかった。そして一呼吸の間の後で、大きく息を吐き出し、また少しの間の後で吸い込んだ。その動作で、分裂しかかっただろう背中の筋肉が元に戻る。それから彼女は態勢を整えると、にっこりとした笑顔を綾小路さんに向けて言った。
「いやはや、なんとも凄いボールの威力だった。流石にきつかったな。だけど、なんとか堪え切ったよ。
さぁ、約束だ!
もう、嫌がらせは止めてくれ」
それを受け、綾小路さんはしばらく歯を食いしばっていたけれど、「ふん」と笑うと、「分かりましたわ。“嫌がらせ”は止めにしましょう」と返したのだった。少しばかり気にかかる含みを持たせた言い回しだ。
それからいい加減な感じで投げた菊池さんのボールに大蟹君は簡単に当たってしまって、その試合は終わりだった。
その次の休み時間。
授業が終わると、僕は菊池さんを保健室に直ぐに連れて行った。
「一体、何の用だい?」
と、彼女は不思議がっていたけれど、もちろん、治療の為だ。でも、ベッドの上に座らせると「ははーん。さてはエッチなことでもする気だね」などと彼女は言った。
「違うから」と、それに僕。興味がないと言えば嘘になるけど。てか、そもそも、異種族間でどうやれば良いんだ……。
保健室の先生がいなかったので、僕は勝手に棚を探って湿布薬を見つける。
「これを貼っておくと、打ち身とかに効くんだよ。さっき、強烈なボールを受けたろ? 貼っておいた方が良い」
それを聞くと、彼女はやや面食らったような顔を見せた。それから少しだけ嬉しそうに笑うと、驚いたことに体操服をまくり上げてお腹を出した。
「何をしているの?!」
と、僕は驚く。
それに彼女は軽く首を傾げて、「ん? 貼ってくれるんじゃないのかい?」なんておどけた感じで言って来た
それを受けて、僕はドキリとした。
彼女は人間じゃない訳で、ならば少しも意識する必要はない訳なのだけど。
……なら、貼ってあげない理由なんてないことになってしまう。
僕はそれから、お腹を出して待ち構えている彼女に近付いて行った。考えみれば、バラバラになって小さくなった彼女の裸なら見慣れているけど、大きなサイズの彼女の裸は初めて見る。
彼女の肌はツルンとしていてとても綺麗で、まるで作り物のようだった。ただ、やっぱりボールを受けた辺りは軽く腫れていた。
「これ、痛くなかったの?」
「ああ、腹部を担当している“私”からは文句を言われてしまったな。でも、心配してもらうほどでもないよ」
「苦しそうにしていたじゃない」
「あれは半分、演技さ。ちゃんとダメージを受けた振りをしないと変に思われるだろう?」
僕は眉をひそめると、「どうして、あんな無茶を言ったの?」と訊いてみた。
「無茶でもないさ。それに、ああでも言わないと、綾小路さんは嫌がらせを止めそうになかっただろう? あの程度なら私は別に構わないが、私の知り合いが巻き込まれるのは忍びないからね」
それを聞いて、少し考えてから僕はこう尋ねる。
「もしかして、僕の為?」
「いや、君の為だけってワケでもないし、まぁ、それ以外にも目的はあってさ……」
軽く頭を掻いてから、彼女はこう続ける。
「……あの大蟹君という彼は、少々鈍そうだったからね。私が同種であることに気が付いてなさそうだったから、気付かせてやろうと思ったのさ。
衝撃で少しだけ分裂しているところでも見せてやれば、流石に彼も私が同種だと気が付くだろう?」
その説明を聞いて「何もあんな場所で、そんなリスクの高い方法を執らなくてもさ」と僕は呆れる。
そこで彼女がお腹をずっと出っぱなしであることを僕は思い出した。そして、いつまでもそうしている訳にもいかないと僕は意を決して湿布のビニールカバーをはがした。
近寄ると、彼女の肌の美しさがよりよく分かった。湿布を貼る。彼女は「ひゃっ」と小さな悲鳴を上げた。少し色っぽい。
「思ったよりも冷たいね、それ」
そう言った彼女に僕は「ごめん」と何故か謝ってしまった。「ううん」とそれに彼女は軽く首を横に振って応えた。
「ちょっと気持ち良かったし」
そんな大胆なセリフまで言う。
僕は聞こえなかった振りで、それを誤魔化した。いや、顔が真っ赤になっていただろうから、誤魔化せてはいなかったかもしれないけれど。
案の定、「どうしたんだい? 様子が変だよ」なんて声が聞こえた。見ると、αちゃんが彼女の頭の上から僕を見て楽しそうにしている。
「悪いね、待たせてしまって」
朝。
登校前の待ち合わせで、珍しく彼女が遅れて顔を見せた。いつも僕らは家の玄関の前で待ち合わせをしているんだ。
「いや、別に」と僕は返す。まだ学校を遅刻するような時間じゃないし。
僕が「寝過ごしたの?」と尋ねると、彼女は「いや、違う」とそう返す。
「お恥ずかしい話なのだけど、なんだか妙にお腹が空いてしまってね、朝ご飯を食べていたらいつの間にか時間が過ぎてしまっていたんだ」
それを聞いて「へぇ」と僕は少し考えてから、「もしかして、成長期なの?」と尋ねてみた。
人間と違って、アリンはこれから成長期が始まるのではないかと思ったんだ。
「うん? さぁ、どうだろう?」
すると、珍しく彼女は言葉を濁す。しかも気の所為じゃなければ、照れているように見えなくもなかった。
僕にはそれがとても不思議だった。
その登校の途中、僕は彼女から妙な頼みごとをされた。
「――大蟹君を調べるのを手伝って欲しいんだよ」
僕は疑問の声を上げる。
「調べる?」
「そう」と、彼女。
「彼は大変な巨躯だろう? あれだけの身体を維持できているというのは、私達みたいな個体型社会生物にとっては実に驚くべき事なんだ。
だから、是非ともその秘密を知りたい」
僕は少し考えると、こう尋ねた。
「この前の体育の時間のドッチボールで、彼は君の正体に気が付いたはずだろう? あれから、何のアクションもないの?」
向こうからコンタクトをしてくれるのなら、それが一番手っ取り早いだろうと思ったんだ。それで巨躯の秘密を聞けばいい。……と言うか、いつもの彼女ならとっくにさっさと自分から話しかけていると思うのだけど、何故、そうしないのだろう?
「それが、気が付いてはいるはずなのに、少しも寄って来る気配がないのだな、彼。多分、警戒されてしまっていると思うのだけど」
「警戒?」
「同種だからって、必ずしも味方であるとは限らないのだよ、稲塚君。何かに利用するつもりだとでも思っているのじゃないだろうか?
やれやれ、困った話だ。私にはまったくそんなつもりはないと言うのに」
そうと決まった訳でもないだろうに、彼女は大袈裟なアクションで肩を竦めた。
とにかく、それで彼女の方から話しかけない理由が分かった。大蟹君が彼女を警戒しているんだ。
「要するに、なんとか大蟹君に近付く手助けをすればいいのだね?」
それからそう訊いてみると、「その通りだ」と言って菊池さんはにっかりと笑った。
“……やっぱり、同種と一緒にいたいもんなんだな”
と、その笑顔を見て僕は思った。
調べるとかそんな事を言っているけど、それは彼女独特の表現であって、本当は仲良くなりたいのだろう……
何故か、その時、胸のあたりがチクりと痛んだ気がした。きっと気の所為だと思う。
「自分は警戒されているから」と、菊池さんが言うので、僕一人だけで大蟹君の様子を探ることになった。
それで、休み時間、彼のクラスを訪ねて、何をしているか観察してみることにしたのだ。幸いにも、彼のクラスには知り合いがいたものだから、あまり怪しまれずに教室に入れた。
他のクラスメートが、お喋りやスマートフォンで遊んでいるのに、彼だけは何もせずただボーっと席に座っている。
身体がでかいもんだから、まるで何かのオブジェのように思えなくもない。同じ種族でも菊池さんとはえらい違いだ。彼女は活発に動き回っているから。そして、しばらく観察し続けて、「こりゃ、意味ないかな?」と思って退散しようかとしたタイミングで動きを見せた。
何が切っ掛けは分からないけど、大蟹君は突然にカバンの中からアンパンを取り出して食べ始めたのだ。
早弁……じゃなくて、きっとオヤツなのだろう。あれだけ身体が大きいと、やっぱりそれだけエネルギーが必要なのかもしれない。
食べる速度は普通。消化をよくする為か、よく噛んで食べている。そして食べ終えると、再び座ったまま動かなくなった。
つまらない。
流石にここまで観察し甲斐がないと、苦痛になってくる。それに、いつまでもこのクラスにいたら不審に思われてしまう。それで僕は自分の教室に戻る事にした。きっと菊池さんはこの報告を残念がるだろうな、と思いながら。
ところが、
「へぇ、それは大変に面白いな。私も一緒に観てみたかった」
などとそんな事を彼女は言うのだった。
「どうして? ただアンパンを食って、座っていただけだよ?」
それに彼女は「ふふん」と笑うとこう続ける。
「いや、それは恐らく、座っていただけではないと思うよ。大蟹君は身体が大きいだろう? つまり、それだけ“自分達”も多い。だから内部での調整にも時間がかかる。それで休み時間を使って調整しているのだろうさ」
「ふーん」と僕はそれに返す。
とてもそんな“知的な”様子には思えなかったのだけど……。やっぱり、同種だから贔屓目に観ているのじゃないだろうか。そんな風に思ってしまう。
それからも菊池さんは楽しそうな様子で、「これは、まだまだ他にもあの大きな身体を維持する為の工夫がありそうだぞ」なんて言った。
僕はその様子に何故か少しばかりイラついてしまった。
「でも、彼に近付くのには、もっと慎重になるべきだと思うよ」
と、それでついそんな事を言ってしまったのだった。
「何故だい?」と、それに菊池さん。
「彼は綾小路さんの手下みたいなもんだろう? また何かやって来るかもしれないじゃないか」
その言葉に彼女はキョトンとした表情を見せる。
「何を言っているんだい? 彼女は“嫌がらせはもうやらない”と約束したじゃないか」
「“嫌がらせ”はね。それ以外はやらないとは言っていないよ」
あの時、綾小路さんはとても含みのある言い回しをしていた。きっとまだ、菊池さんに復讐をしてやろうと考えているはずなんだ。
「うーん。杞憂だと思うけどなぁ」
僕の心配の理由を聞くと、彼女はそんな事を言った。ちょっとばかりのん気過ぎるのじゃないかと思う。充分に警戒するべきだ。そのうちに何か仕掛けて来るはずだ。
すると案の定、綾小路さんは動いたのだった。
……ただし、とっても平和な方法で。
――また体育の時間。
「ほほほ! 勝負ですわよ、菊池さん!」
グラウンドに、綾小路さんと菊池さんが並んでいる。そこは短距離走のスタートラインで、どうもこれから彼女達は50メートル走の勝負をするつもりでいるらしい。
今回の体育は男女別々で行われているのだけど、幸い近くだったものだから、女生徒達の授業の様子も見る事ができた。
「あなたが随分と器用だという事は、先日のドッチボールの試合で分かりました。ですが、短距離走では私に分ありましてよ。何しろ、この身長差ですから!」
そう言うと、綾小路さんはスラリと長い足を見せびらかすように伸ばして指し示す。菊池さんはその挑発を意に介さず「うん。綺麗な足だね」などと言う。
「あら? お世辞を言っても、手加減はしませんわよ?」
それに不敵な表情で綾小路さんはそう言った。
そんな彼女に菊池さんは「あははは。むしろ手加減したら怒るよ」と爽やかに返す。無垢な感じが非常に彼女らしい。
「ふん。吠え面をかかせてやりますわよ」と、それに綾小路さん。それからゆっくりとクラウチングスタートの体勢を取った。クラウチングスタートを知らないのか、菊池さんはそれを見てやや不思議そうな顔をしていたけれど、少しの間の後で嬉しそうに笑うと自分は普通に走り出すポーズを取る。
それからスタートの合図で二人は走り出した。僕は心配だったのだけど、いたって健全な勝負のようだった。何の罠も張っていない。勝負は菊池さんの勝ちで、綾小路さんは大いに悔しがっていた。
「キー! もうひと勝負ですわ!」
なんて言っている。
どうやら、菊池さんへの対抗心もあるし復讐をするつもりでもいるようだけど、陰険な仕返しをするつもりはないようだった。
なんと言うか、いい意味でのライバルのような感じになっているのかもしれない。いや、綾小路さんが一方的にライバル視しているだけかもしれないけど。
“……これなら、問題ないかな?”
それを見て、僕は安心をするのと同時に少しばかり残念に思っていた。多分、それは、これで菊池さんに「大蟹君に近付かない方がいい」という忠告ができなくなってしまったからだろう。
……まぁ、あれだ。同種同士で仲良く一緒になった方が良いのは、初めから分かり切っていた話でもあったし、これは落ち込むような話じゃない………
……はずだ。
その後も、僕は菊池さんの為に大蟹君を観察し続けた。彼の行動は僕にはまったく意味のある内容に思えなかったのだけど、菊池さんには何か分かる事があるらしく、僕の報告に何やら感心する場合が多かった。
ご飯を時間をかけて食べるとか、よく眠るとか、その程度の事なのだけどね。
そんな嬉しそうな彼女を見て、僕は“一体、何をやっているのだろうな?”なんて思っていた。
彼女に協力する為にやっているのに、彼女が嬉しそうなのがあまり嬉しくない。
そんなある日の事だった。
僕は大蟹君に呼び出しを受けてしまったのだった。
“――しまった”
と、そう思う。
あまりにも動きが少なくて、鈍そうだったから油断していたけれど、流石にずっと観察していればいずれは気付かれてしまう。多分、僕は彼から不審に思われているんだ。
「……どういうつもりなんだ?」
人気のない美術室の前のトイレで、彼は腕組みをして僕を待ち受けていた。怒っているように見える。大蟹君は巨体だけど、肥ってはいない。心なしか上半身の方が大きく思える大きな逆三角形の体形をしている。彼ほどの巨躯では珍しい。
……いや、個体型社会生物アリンでは、どうなのか分からないけどさ。
彼は大きな身体をしているけれど、顔は普通サイズなものだから、少々アンバランスに思える。そのアンバランスの顔の所為か、表情が読み難い。それでなのか妙な迫力があった。“分からない”ってのは、怖いもんなんだ。
“どうしようか?”と少し悩んだけど、
……失礼な事をやっていたのはこちらの方だ。非は完全にこっちにある。
と、考えると、
「いや、ごめん。気を悪くさせてしまったなら謝るよ」
そう僕は素直に謝った。ところが彼はそれに「謝罪はいい」と一言返し、それからまた「どういうつもりなんだ?」とそう同じ事を尋ねて来た。
こーいう反応は、菊池さんとよく似ているように思えなくもない。
僕は軽くため息をつくと、嘘を言う理由もないし誤魔化しても無駄だろうと判断して、正直に本当の事を話すことにした。
「実は菊池さんに頼まれたんだよ。君の様子を観察して欲しいってね」
「菊池さん?」
「君だって気が付いているのだろう? ほら、君と“同種”の女の子だよ。君に興味があるようなんだ」
腕組みをしたまま、大蟹君は微動だにしななかった。だからいまいち彼の感情が掴み切れなかった。それで不安になった僕は、何か誤解があってはいけないと思い、こう説明を追加してみた。
「やっぱり、同種には興味があるらしくってね、彼女は君と仲良くなりたいようなんだ。それで君について調べてくれって僕に頼んで来たんだよ」
「ほう」と、それに彼は静かに重くそう返す。やっぱり、どんな感情を抱いているのか掴み切れない。
「だから、君の方から、彼女にコンタクトしてくれるのが一番手っ取り早いと思うんだ。君だって、同種のめ…… いや、女の子には興味があるんだろう?」
……僕は思わず“雌”というのを途中で止めて、“女の子”と言い直してしまった。なんでか、菊池さんを雌というのは抵抗があったから。
そう僕が尋ねても、大蟹君は何も反応しなかった。
そこで僕は菊池さんの説明を思い出した。身体が大きい大蟹君は“自分達”の調整に時間がかかる、と。
これは、その所為なのかもしれない。
だから僕はしばらく待ってから、こう話しかけた。
「菊池さんみたいな“女の子”は嫌いかい?」
が、その後で疑問に思ってしまった。果たして個体型社会生物アリンの中では、菊池さんは“女の子”なのだろうか? ……いや、そもそも性別なんてあるのだろうか?
「いや、嫌いではないな。大いに興味がある」
ところが、僕がそんな疑問を思っていると、彼はそう言って来たのだった。
「有用な情報をありがとう」
そして、そうお礼を述べると、ゆっくりとした動作でトイレを出て行ってしまった。
なんとなく、だけど、嬉しそうにしているように思えなくもない。腑に落ちない感覚もあるにはあったけど。
まぁ、なんにせよ、菊池さんの気持ちが伝わったのなら良かった。
……そう僕は思う事にした。
「やぁ、どこに行っていたんだい?」
トイレから戻ると、菊池さんがそう話しかけて来た。
僕は少し考えると「良い事があった…… と言うべきかな?」とそう言ってみた。
「良い事?」
「うん。君にとってはね」
その言葉に菊池さんは不可解そうな顔になる。僕はそれでさっきの出来事を話す。大蟹君に僕が彼を観察していた事がバレてしまった事、でもそのお陰で彼に菊池さんの気持ちを伝えられた事。
それを聞き終えると、菊池さんは目を丸くした。僕の気の所為じゃなければ、ショックを受けているように思える。
それで僕は慌ててこう言ってみた。
「君の気持ちを勝手に伝えてしまったのは謝るけど、ちゃんと本当のことを伝えないと誤解されちゃいそうだったしさ」
「いや、気にしないでくれ」と、それに彼女。
「大蟹君を観察してくれと無理を言って頼んでいたのは私の方なのだし、ちゃんと言わなければ君が危険だったかもしれないし」
しかし、そう語る彼女はショックを受けているような表情のままだった。
「あの…… 怒っている?」
僕は不安になってそう尋ねる。
「ハハハ」と、それに彼女。
「私にどうして君を怒れる権利があると言うんだい? 何しろ、君は私に何の見返りも期待せずに協力してくれていた上に、私の気持ちまで伝えてくれたのだよ?」
そう語る菊池さんの表情は異様なまでに堅かった。
いつも明朗な彼女らしくない。
「本当にごめん」
どうすれば良いのか分からなくなった僕は思わずそう謝ってしまった。
すると、彼女は「だから、謝られる言われはないと言っている」と今度は明らかに怒っている口調でそう言った。
これも珍しい反応。
何かよく分からないけど、今は話しかけない方が良さそうだと判断して、僕はそれ以上は何も言わない事にした。
それからしばらく、何となく彼女に話しかけずらくなってしまって、僕は彼女と距離を置いた。
僕は大蟹君と彼女が付き合い始めるのじゃないかと思っていたのだけど、どうにもそんな気配もなかった。彼女の方からも彼に関わろうとしていないみたいだし、彼も彼女にコンタクトを取ろうとしないようだった。
――どうしてなのだろう?
何か色々と腑に落ちなかった。
そんなある日だった。
例によって、体育の授業。綾小路さんが菊池さんに勝負を挑んでいた。
今回の種目は“高跳び”だった。単純な跳躍力なら、もしかしたら綾小路さんの方があるかもしれないけど、高跳びにはテクニックも大いに関係してくるから、今回も菊池さんが勝ちそうだと僕は思っていた。
のだけど……
遠目で見ていたから、何が起こったのかよくは分からなかったのだけど、菊池さんは高跳びの棒に激突してしまったようだった。それに一番驚いていたのは、勝負をしていた綾小路さんだった。
「一体、どうしたんですの?!」
なんて言って騒いでいる。
もしかしたら、また自分が負けると思っていたのかもしれない。
それから先生が呼ばれ、何事かを話した後に菊池さんは体育の授業を離れて何処かへ向かった。多分、体調不良で保健室に行ったんだろう。意外にも付き添ったのは綾小路さんだった。
その休み時間、心配になった僕は保健室に行ってみた。菊池さんは眠っていたように思えたけど、傍によって覗き込むように見てみるとこんな声が聞こえて来た。
「やぁ、来てくれたのかい」
見ると、彼女の肩の辺りから、小さな彼女が顔だけ出している。αちゃんだ。
「嫌われたと思っていたのだけどね、心配して来てくれるなんて、やっぱり君は優しいな」
それを聞いて「どうして、僕が菊池さんを嫌いになるの?」と言いながら、僕はベッドの横の椅子に腰を下ろした。
「だって、私は君に意地悪をしたろ?」
僕はそれに首を傾げる。
「意地悪って?」
その反応にαちゃんはくすりと笑った。
「いや、いいんだ」
なんだか、ちょっと嬉しそうにしているように見える。
「それよりも、どうして体調を崩したの? 菊池さんらしくもない。ちゃんとご飯を食べていなかったとか?」
それから僕がそう尋ねると、彼女は「いいや、ちゃんと食べているよ」と答えた。
「むしろ、食べ過ぎていたくらいなのだけどね。ほら、君だって知っているだろう? 朝とかさ」
それで僕は彼女が朝食を食べ過ぎて、遅れて出て来たのを思い出した。
「ああ、そう言えば食べていたね。じゃ、どうして? 風邪とか?」
「いいや、風邪じゃないよ。実は、非常に言い難いのだが、その“食べ過ぎていた”ってのが原因なんだよ」
「お腹を壊したってこと?」
「あはは。人間だったら、そうなるのだろうけどね、全然違うな。食べ過ぎた事で、ちょっと身体の部品を増やし過ぎてしまったんだよ。
それで“使い道のない部品”がたくさん余ってしまった。人間で言えば、“腫瘍”ができたとでも言えば良いかな?」
僕は少し考えると「うん」とだけ返した。まだ巧くイメージできていなかったのだけど、そう返さないと話が前に進まない気がしたから。
「“使い道がない”とはいえ、それでも私の一部ではあるからね。飢えさせる訳にはいかない。ちゃんとエネルギーや栄養を与えなくちゃいけないのだけど、ここで困った事が起こってしまってね。
なんと、その“使い道のない部品”達、つまり腫瘍が私の中で権力を持つようになってしまったんだ。
それで、手とか足とかよりも、多くエネルギーや栄養を腫瘍に奪われるようになってしまった。すると当然、他の身体の役に立つ部分にエネルギーや栄養がいかなくなる。
しかも、更にいけない事に、その腫瘍達はどんどん勢力を増しているのだな。当然、私は更に衰弱してしまう事になる。そして、遂には高跳びにすら失敗する体たらくになってしまった、という訳さ」
αちゃんがしたその説明に、僕は、
「つまり、“無駄な公共事業がたくさん行われている”みたいなもんか」
そう感想を言った。
咄嗟に出た感想だったのだけど、それは思いの外的確な表現だったらしく、
「そうそう。当にその通りなんだ」
と、彼女は感心した様子で言った。
「予算調整の為だけに行われる道路工事とか、お金をばら撒く為だけに行われる公共事業に資源を無駄遣いされるみたいなもんだよ。
困った事に、私の中でそれが起こってしまっているのだな」
そこまでを聞いて、僕は「なんで、もっと早く相談してくれなかったの?!」と少しだけ怒って言った。
それにαちゃんはちょっと驚いた顔をしていたけれど、それから何故か穏やかな表情を見せると、
「君は本当に優しいね。そんなだから、女の子を勘違いをさせてしまうのだよ」
なんて言って来た。
その言葉の意味は分からなかったけど、僕はそれには構わず続ける。
「とにかく、なんとかしなくちゃ…… 病院… は、当然駄目だし。えっと、だから…… あれ?」
そしてそれからαちゃんを覗き込むように見ると、僕は「一体、君のその病気はどうやったら治るの?」と尋ねた。
そんな僕に彼女は笑う。
「あはは。面白い反応をするね。
実は今、“私の中”で、私はとっても少数派でね。それが“資源の無駄遣い”をする連中をのさばらせる原因になってしまっている。私が力を取り戻せば、そんな連中を調伏させられると思うのだけど、その為には“私の中”で私が支持を得る必要があるんだ」
「うん」と、それに僕。
「――で、具体的には、どうすれば良いの?」
すると、彼女はにっこりと笑ってこう言った。
「そうだね。以前と同じ様に…… いや、以前よりも私に優しくしてくれると助かる。それが“協調しようとしない私達”を説得する材料になると思うから」
僕はそれを聞くと「そんなの当たり前じゃないか」とそう言った。
「君は病気なのだし、いつ倒れるか分からないのだし。
取り敢えず、家も隣同士なのだから、また毎日送り迎えをしよう」
それに彼女は「ありがとう」と応えた。ただ、なんとなく、その笑顔は寂しそうに見えた気がした。
――放課後、
僕は菊池さんと久しぶりに一緒に帰った。ただ、彼女はそれほど乗り気のようには思えなかった。
「身体の事なら、心配してもらうほどでもないさ」
なんて言って来る。
どうしてなのだろう?と思ったけど、そこでαちゃんの言葉を思い出した。
αちゃんは少数派なのだ。つまり、全体としての菊池さんは、僕にあまり好意的ではないのかもしれない。
もっとも、機嫌は悪そうではあったけど、拒絶までされているようには思えなかった。僕の希望的観測かもしれないけれど。
「君の病気について、大蟹君に相談してみようかと思うんだ」
歩きながら、そう提案してみた。
「何故だい?」
「いや、だって君と同じ種族だし、もしかしたら何か知っているかもしれないじゃないか」
「なるほど。確かにその可能性はあるかもしれないね。でも、彼に相談するのに君の手を借りる必要はないだろう。
私が直接、彼にコンタクトを取れば良いだけの話だ」
……まぁ、その通りなのだけど。
僕はそれで口をつぐんだ。気の所為じゃなければ、大蟹君の名前を出した途端、更に機嫌が悪くなったように思えた。
そのまま、あまり良くない雰囲気でほぼ黙り込んで、結局は家まで辿り着いてしまった。αちゃんから「優しくしてくれ」と言われていたのに、これじゃダメだろう。
家の前で別れ際、菊池さんの肩の辺りにαちゃんが現れているのが見えた。僕に向って頭を下げている。
気にしないで、と僕は軽く手を振る。すると、菊池さんがこちらを向いた。何か言いたげだったけど、何も言わずにそのまま家の中に入っていった。
――こんなんで、良かったのだろうか?
と、僕は不安になる。
そしてその晩、僕の所にαちゃんが訪ねて来たのだった。
菊池さんからスマフォに連絡があり、玄関の外にいるから迎えに来て欲しいと言うので外に出てみると、そこには菊池さんではなくαちゃんがいて、しかも彼女の近くには本体である菊池さんがいなかったのだった。
僕は彼女を手の平に乗せると「どうしたの?」と尋ねた。
彼女は照れたような困ったような曖昧な表情で「実はクーデターが起こってしまってね」なんて言って来た。
「クーデター?」
なんだか穏やかじゃない。
それから僕は彼女を自分の部屋に連れて行くと、以前に貸した人形の服をまた彼女に渡した。
彼女は「ああ、寒いからだね。助かるよ」なんてお礼を言ったけど、それだけが理由じゃない。いや、ま、流石に小さなサイズの彼女に欲情はしないけれども。
彼女によれば、家に帰ってから、自室で彼女達は会議をやったのだそうだ。
合体したままじゃ、お互いが微妙に混ざり合って誰の意見なのか分かり難いという事で、バラバラに分裂して彼女達は話し合いをしたらしいのだけど、それで思いも寄らぬ事態になってしまったのだという。
「何も役に立たないのに、エネルギーや栄養をただただ浪費するだけの連中がこのまま何も変わらなかったら、“私”の身体は保てなくなる。
いい加減、目を覚まして欲しい」
そうαちゃんは訴える。それには誰一人として反対はしなかったらしい。しかし、その後の展開がいけなかった。
菊池さんの一部…… 便宜上、βちゃんと呼ぶけど、そのβちゃんがこんな主張をしたのだ。
「それはもっともだ。
――が、しかし、どうしてそれで稲塚君に協力を求めなくてはならないのかがよく分からないな」
αちゃんが言うには、そのβちゃんは“資源の無駄遣いを行っている連中”と繋がっている疑いが高いらしかった。
「彼が私達の正体を知る唯一の人間で、かつ非常に協力的だからだよ」
そうαちゃんは訴えたが、皆はそれに納得しなかった。
それはどうやら彼女達のような“稲塚君派”が、今日のような事態を招いた張本人であるかららしかった。
……って、言うか“稲塚君派”って何だろう?
「君は稲塚君と特に仲が良いよね。もし、それで体制の立て直しに成功したなら、自分達の権力が強くなる。それで君達は権力の掌握を画策しているのじゃないか?」
そんな意見を言い始める者までいた。
そのままαちゃんは彼女達を説得できず、そして頃合いを見計らってか、βちゃんがこのような事を言い出した。
「それよりも、大蟹君にさっさとコンタクトを取って協力を要請するべきだと思う。彼に相談した方が良いと、当の稲塚君も言っていたじゃないか」
僕はそれを聞いてビックリした。
「いや、ごめん。良かれと思って言ったのだけど、まさかそんな事になるだなんて思わなくて」
そう謝ると「仕方ないさ」とαちゃんはあっさりとした表情で返す。本当に気にしていないみたいだった。
βちゃんは「身体の大きな大蟹君は、私達が今経験しているような“資源の無駄遣い”問題に直面した事があるだろう。ならば、その解決方法も知っている可能性が大きい」というのを大蟹君に協力を要請する理由として挙げたのだそうだ。
口には出さなかったけど、僕はそれに説得力があると思ってしまった。
……もっと言ってしまうのなら、そもそもどうしてαちゃんが僕を頼ろうとしているのか、どうて僕が優しくすれば彼女の“資源の無駄遣い”を解決できるのか、いまいち僕はピンと来ていなかったのだけど。
「――私はそれに反対したんだ。仮にそうだったとしても、彼と同じ方法が私達にも有効であるとは限らない。タイプが違い過ぎるからね。
ところが私が反対すると、彼女は強引な手段に出てね。“犯罪の疑いがある”と言い始めて、私を武装した仲間達数人で捕まえようとしたのさ。
多分、少数派になったとはいえ、話した事もない大蟹君よりは、稲塚君の方が私達の中で人気があると踏んで、その象徴である私を潰す事で、封じ込めを狙ったのじゃないかと思うのだけど」
「それで君は自分の家を逃げ出して、僕の所まで来たって訳か」
「うん」とそれに彼女。
「逃亡に際して、何人かに助けてもらった。今、あの“私達”が酷い目に遭ってなければ良いのだけど」
そう言うと、彼女は着ている服をこすり合わせるような仕草を見せた。寒かったのではなく、残して来た仲間が悲惨な目に遭っているシーンを想像してしまったからだと思う。
「これから、どうするつもり?」
そう僕が尋ねると、αちゃんは「戻らなくてはいけないのは当り前だけど、直ぐには無理だろう」と言ってから僕を見て、
「もし良ければ、しばらく面倒を見てくれると助かるのだけど……」
と、そう続けた。
珍しく、まるで甘えるような口調だった。僕はちょっとだけ顔に火照りを感じた。
「全然、構わないけど」
そう答えた。
それを聞くと、αちゃんは「ありがとう」と嬉しそうに笑って言った。
……まぁ、流石にこの状態なら、女の子と一緒の部屋でも我慢し切れるだろう。何しろ“男女”なのかどうかも疑わしいのだから。
その次の日から、僕はαちゃんをポケットに入れて登校するようになった。当然、菊池βさん(と仮に名付けたのだけど)とは、一緒には行かない。普段とは違う時間帯を選んで家を出るようにした。
さんざん話し合ったのだけど、αちゃんが元の身体に戻るには、「取り敢えず、大蟹君について調べる」のが最も得策だという事になった。
彼に何か問題があると分かれば、彼に協力を求めようと主張しているβちゃんの勢力も弱くなるだろうという発想だ。
「――それに、実は少々心配でもあるんだ。彼は本当に安全なのだろうか?」
そうもαちゃんは言った。
「彼は私が同種であると知りながら、警戒するような動きを見せていた。君から私の気持ちを聞いたというのに、接触をして来ようともしない。
何故、なのだろう?」
少し考えると僕は「シャイなんじゃないの?」と言ってみた。
もしも僕だったら、何か自然に会えるような切っ掛けでもなければ、例え相手の好意に気付いていても、なかなか話しかけられない。
もっとも、大蟹君はそんなタイプにも思えなかったのだけど。
――休み時間、
僕の目の前には綾小路さんがいて、彼女はお嬢様キャラに似つかわしくないような訝しげな表情で僕を見ていた。
菊池さんβが、教室の外に出たのを見計らって僕は彼女に声をかけた。もちろん、綾小路さんから大蟹君に関する話を何か聞き出すつもりでいたのだ。
「何かご用ですの?」
彼女は相変わらずに訝しげな顔だった。無理もない。何しろ、僕は今まで一度も彼女に話しかけたことがなかったのだから。挨拶をしたことすら稀だろう。
「いや、実は大蟹君について知りたいことがあってさ」
「大蟹君?」
それを聞くと、彼女は益々変な表情を見せた。
まぁ、そうだろう。
僕と大蟹君には何の接点もない。
「いや、彼、あの巨体だろう? やっぱり道路工事なんかも手伝っているのかと思ってさ。興味があるんだ」
やや強引だとは思いつつ、僕はそう言ってみた。その言葉に、不可解そうにしてはいたけど、やがて彼女はそっぽを向き、つまらなそうな顔になって「何を想像しているのかは分かりませんが、あの人、それほど役に立ちませんわよ」と言った。
「役に立たない? あんなに力が強そうなのに?」
「確かに力は強いですわね。でも、ひとつひとつの行動がいちいち鈍いんですの。動くまでに時間がかかり過ぎて、仕事ではあまり役に立たないのです」
そこで僕のポケットにいるαちゃんがくいくいとポケットの内側を引っ張った。「稲塚君」と小声で言う。それを受けて、僕はこんな質問をした。
「ねぇ、大蟹君って、何か特別な食べ物を食べたりしていない?」
αちゃんから、前もって大蟹君の食べ物が気になると聞かされていたからだ。
「どうして、そんな事に興味がありますの?」
「菊池さんが、もしかしたら、大蟹君は自分と同じ病気にかかっているかもしれないって言っていてさ。大蟹君が対症療法薬か何かで特別な物を食べているのなら、知りたいらしいんだ」
それを聞いて、今までの質問の理由を綾小路さんは察したらしかった。多分、先日の菊池さんの様子を思い出したのだろう。
「そう言えば、あなた、菊池さんと随分と仲が良さそうでしたわね。
……ふーん、大蟹君が鈍い理由が、もしかしたらご自分と同じ病気にかかっているからではないかと菊池さんはお考えになっているのですね」
その言葉に僕は少し悪い予感を覚える。綾小路さんは菊池さんに対抗心を燃やしている。意地悪で教えてくれないのじゃないかと思ったんだ。
ところが、
「そういう事なら、早くお言いになればよろしいのに。
プライバシーに関わる事なので、詳しくは知りませんが、彼が何かの薬品のようなものを食べ物に混ぜているのなら見た事がありますわ」
と、そうあっさりと教えてくれたのだった。
ちょっと意外だ。
次の授業が移動教室で、誰もいないだろう休み時間の終わり際を狙って、僕は大蟹君の教室に忍び込んだ。
以前に彼をよく観察していた僕は、彼が休み時間、頻繁に何か食べているのを知っている。そして、その食べかすを、床とか机の上とかにこぼすのも。
案の定と言うか、何と言うか、体育で教室に誰もいなくなるからか、掃除はされていなくて、彼の机の上や床にはパンか何かの食べかすが落ちっぱなしになっていた。
僕はポケットの中から、αちゃんを取り出すと机の上に置く。彼女は食べかすに近寄っていくと、その臭いを嗅いだ。少しの間の後に「ん?」と怪訝そうな表情を浮かべ、舌で軽く舐める。
すると、舐めた途端、フラフラとよろけてしまった。慌てて僕は指で彼女を支える。「大丈夫?」と声をかけた。
「いや、これは凄いよ、稲塚君。多分、私達の身体に麻酔として作用する何らかの薬が混ぜられてある。しかも、相当に強力なやつだね。こんな少量でこれほど効くなんて、私の身体のサイズを考えても異常だ」
それを聞いて「麻酔?」と、僕は疑問符が伴った声を上げた。
「そんなものを彼は自ら口にしているって言うの? どうして?」
「考えられる理由は一つだろう。大蟹君は自分の身体のパーツ達を制御できてはいないんだ。だから、自分の命令通りに動かす為には、麻酔で思考能力を奪う必要があるのじゃないか?」
それを聞いて僕は考える。
そう言われると、彼が時折見せる止まったような動きの説明がつく。つまり、麻酔で反乱しようとする身体を麻痺させて、自分の制御下に置いていたのだろう。
彼女はまだ続けた。
「多分、大蟹君の中にも私の中にいるような“資源を無駄遣いする”パーツがいるのじゃないかと思う。それは他の身体のパーツにとっては負担になっているはず。
或いは、彼の身体のパーツ達はそれに反発をしているのかもしれない。
――なら、この麻酔は自分の身体のパーツ達を奴隷化する目的で摂取しているものだって可能性がかなり高い」
そう言い終えると、彼女は僕の顔を見た。
「もちろん、これは私の予想に過ぎない。しかし、この予想が正しいのなら、彼は私と同じ病気を克服しているどころか、更に悪化させてしまっているという事になるぞ」
それに、僕はため息をつくとこう返した。
「つまり、君の病気を治すヒントは得られそうにないって事か」
「そうさ。ただし、これは悪いニュースでもあるけど、良いニュースでもある。“他の私達”を説得する材料ができたからね」
そう言ったαちゃんは満足そうに微笑んだ。僕は「うん」と頷く。早速、今日の帰りにでも菊池さんβに話してみよう。そして、そう考えた。
――が、
放課後になって、菊池さんβはさっさと何処かへと消えてしまったのだった。僕は何か嫌な予感を覚えた。いるかもしれないと思った場所を探してみたけどいない。下駄箱を見てみたら既に靴がなかった。
少なくとも、学校にはいないようだ。
それから一応、僕は大蟹君も探してみたのだけど、彼もいなかった。もっとも、彼が普段放課後に何をしているのかを僕は知らないから、いつもと違うのかどうかは分からない。彼を観察をしていた頃も放課後は菊池さんと一緒に帰っていたから、見た事はないんだ。
それから、心配し過ぎかと思って、僕は気にせず帰ろうとした。ところが、そこで僕のスマートフォンが鳴ったのだ。菊池さんβからだった。
『たすけ』
そしてそこには、そんなメッセージが書かれてあったのだった。その中途半端な三文字の言葉からは、余裕がない様子が如実に感じ取れた。
「――綾小路さん!」
そう僕が叫んで呼びかけると、彼女は驚いた顔で振り返った。彼女は部活のテニスの最中で、スコート姿でちょうど構えを取っているところだった。一瞬だけ固まったけど、彼女はいかにも偉そうな感じで、コートの外にいる僕に近寄って来た。
「何の用ですの? 今日はよく話しかけてきますのね。くだらない用事だったら、承知しませんわよ?」
近寄って来た綾小路さんは、金網の向こうでふんぞり返ってつらつらとそう述べる。
説明している暇はない。僕はスマートフォンの画面を見せると、「これが、菊池さんから届いたんだ!」とそう言った。
そこに書かれてあるSOSコールを見て、彼女は大きく目を見開く。
「これは、何事ですの?」
「分からない。返事もないし。ただ、大蟹君もいないんだ。菊池さんは彼を探していた可能性がかなり高い。
彼の行きそうな場所を知らない?」
それを聞くと、綾小路さんは「ちょっと待っていなさい」とそう言って、部活を途中で切り上げ、制服姿で直ぐに現れた。
「道路工事に使っている資材置き場があります。今の時間は人もいないはず。仮に彼が菊池さんに何かするのだとしたら、そこくらいしか思いつきませんわ」
僕はそれを聞くと頷き「分かった。そこに行ってみよう」と返した。迷っている暇はない。とにかく足を動かして、少しでも可能性のありそうな場所を探すしかない。
それから僕らは走り出した。ポケットの中には、もちろんαちゃんがいた。なんとなくだけど、不安そうにしている感じがポケットの中から伝わって来るような気がして、僕は踏む込む足に力を入れた。
道路工事の資材置き場は、比較的学校に近い場所にある。意外に広いけど、そのスペースが有効活用されているかと言えば、そんな事はなく、荷物がまばらに置かれているような感じだった。
綾小路さんは、その資材置き場の入り口の近くにある小さな建物の中に入ると、鍵を二つ持って直ぐに出て来て、そのうちの一つを僕に渡し、こう言った。
「この資材置き場には、倉庫代わりに使われている大きなプレハブが二つあります。あなたは手前にある方をお願い。私は奥にある方を見てみます」
「分かった」と答えると、僕は走って手前のプレハブを目指した。プレハブにしては随分と大きい。
鍵を開ける。
中は暗かったので、灯りを点けた。もし大蟹君がいたら、気付かれてしまう危険性があったけど、ドアを開けた時点で既に物音で気付かれていそうだし、それに視界はよくしておいた方がこちらにとって有利だろうと判断したからだ。
彼は菊池さんと同じ種族。つまり、分裂できるんだ。小さくなって物影に潜み、襲いかかって来る危険性だってある。鉄パイプが転がっているのを見つけたので、僕はそれで武装すると奥を目指した。
中は荷物が積まれていて、まるで迷路のようになっていた。その道を進むうち、僕は妙な物音が聞こえるのに気が付いた。
ズルズル…… ズボボボッ!
粘液混じりのバキューム音とでも言うべきだろうか? 何かを吸いこもうとしているのだけど、そこに水っぽさがあるんだ。しかも、耳を澄ますと「う…… う…」という女の子のうめき声のようなものまで混ざっている。
菊池さんβの声だ!
僕は急いでその声のする方に向かった。うず高く積まれている土嚢の角を曲がる。すると、その先には信じられない光景が展開されてあった。
恐らくは大蟹君だろうものがいたのだけど、顎が異常なレベルで大きく開いていたのだ。そして、彼は四つん這いの獣のような格好で、ぐったりとしている菊池さんβを呑み込もうとしていた。
「何をやっているんだ!」
思わず僕はそう叫んだ。
恐らく、菊池さんβは麻酔薬で動きを封じられているのだろう。それで動けないんだ。
僕は急いで助けに向おうとしたのだけど、そこでポケットの中のαちゃんが「稲塚君! 上だ、危ない!」と僕に声をかけてきた。見上げると、黒い影が土嚢の上から僕に襲いかかろうとしているのが分かった。
次の瞬間、その影は鉄パイプを大きく振りかぶって、飛びかかって来た。
驚いて僕は飛び退いた。
間一髪、鉄パイプは当たらなかった。地面に当たってキィンッという音が鳴った。
「惜しい」
と、それは言った。
僕は目を見張る。それは小さな子供くらいのサイズになった大蟹君の姿をしていた。もちろん、分かっている。大蟹君が分裂して小さくなった姿だ。前もって用意していたのか、子供サイズのつなぎを彼は着ていた。
その小さなサイズの大蟹君…… 便宜上、大蟹君Sと名付けるけど、大蟹君Sは軽快にステップを踏むような動作で瞬く間に間合いを詰めると鉄パイプを小刻みに振って来た。
異様に素早い。
普段の大蟹君とはまるで違う。
僕はその鉄パイプの攻撃を防ぐだけで精一杯だった。小さくなると、彼はこれだけ機敏に動けるらしい。僕は元気な頃の菊池さんの高い身体能力を思い出した。これが本来の個体型社会生物アリンの能力なのかもしれない。
苦しんでいる僕を見かねてか、ポケットの中からαちゃんが言った。
「安心してくれ、稲塚君。君のスマートフォンを使って、綾小路さんを呼んだから。後少しで彼女が来る」
それを聞くと、大蟹君Sはほんの少しの間の後で、顎が巨大化した大蟹君…… 便宜上、大蟹君Lと呼ぶけど、大蟹君Lの近くまで下がって、彼を守るような構えを取った。
「やっぱり、あの“私”を食いかけている大蟹君は、無防備の状態のようだね。だから、綾小路さんに警戒して下がったんだ」
それを見て、αちゃんはそう言う。
「――と言うか、どうして彼は君を食べようとしているの? 同じ種類なのじゃなかったっけ? まさか、カニバリズムとか?」
僕のその疑問に、αちゃんは「いや、」と返す。
「恐らく大蟹君は、“奴隷”の補充をしたいのだろう。
私の予想が正しければ、“資源の無駄遣い”で暮らしている連中が、彼の身体の中にはたくさんいるはずだ。そういう連中を楽させる為に、彼にはたくさんの奴隷が必要だが、当然、負担を強いられる奴隷達は疲弊していく。
彼は“私”を取り込んで、新しい奴隷にするつもりなのだろうさ。酷使して、役に立たなくなった奴隷は廃棄するつもりでいるのかもしれない」
僕はそれを聞いて青くなった。菊池さんが彼に好意を持っていると伝えた時、彼は僕にお礼を言った。「有用な情報をありがとう」と。それは、彼女を捕らえるのに有用な情報という意味だったんだ。
それから大蟹君Sが口を開いた。
「どんな目的があるか分からないから、警戒していたんだ。この“菊池”と名乗る個体には。
しかし、お前が“好意を抱いている”と教えてくれたお陰で随分とやり易くなったよ。コンタクトをして来るのを待って、こうして人気のない場所に連れ込み、身体を麻痺させて取り込んでしまえば良いだけだと分かったからな」
思いの外彼が饒舌である事に、僕は多少驚いていた。本当は、こんなに喋れたんだ。喋っているのは、多分、時間稼ぎのつもりだろうけど。
「君は間違っている。エネルギーや栄養…… 資源の無駄遣いをし続ける体制なんていつまでも続けられるものじゃない。
いつかは“君という社会”は衰退し、やがては生きるのも難しくなるぞ!」
だけど、僕は敢えてそれに乗ることにした。時間稼ぎがしたいのはこちらも同じ。少し待てば、綾小路さんが来てくれるはずなんだ。二人で協力して、彼をやっつければ良い。
「この日本を観れば、それがよく分かるだろう? 今ここにある資材で建設しようとしている道路だってほとんど意味はないんだ。資源の無駄遣いだよ。
道路を造るのが地域活性化に繋がると政治家や官僚は言うけれど、本当は逆で、そうして交通の便を良くしてしまうと、地域から都会に人は出て行ってしまう事が知られている。人を招く力が強いのは都会の方だからね、それは必然なんだ」
大蟹君Sは黙って僕の話を聞いている。何を考えているのかは分からない。
「地域経済を救いたいのなら、まずはその地域でできる産業を育てなければいけないんだよ。
例えば、最近でなら、内陸で可能な“海の魚の養殖”とかね。海の生態系はボロボロな状態で、漁師達も高齢化が進んでいる。それは様々な要因から求められている。もしも、養殖した昆虫を餌にする事で、海の魚の養殖が可能になったのなら、その意義は更に大きい。
魚の餌を海の天然資源に求める養殖は、結局、海の生態系に負荷を与えてしまっているって問題があるのだけど、この方法ならそれもクリアできるから」
その僕の説得に、大蟹君Sは肩に鉄パイプをのせてトントンとやった。
「何が言いたい?」
「解決方法は何かあるって話だよ。
もっとも、こんな事をやろうとしても、この日本社会の場合は多分、国土交通省辺りが、農林水産省に利権を奪われるのを嫌がって邪魔するだろうけど、君は日本社会じゃないだろう? 今からでも遅くない。その“病気”を治療するんだ」
その僕の説得の言葉に彼は「ハハハ」と笑った。
「面白いな、お前は。
でもな、だから俺はこうして解決手段を見つけ出して実践しているんじゃないか。
“外から労働者を招いて働かせる”。
日本だってやっているだろう? 発展途上国から騙して人間を連れて来て、こき使うってやり方を!」
大蟹君Sはとても愉快そうだった。僕は汗を垂らす。“まだ綾小路さんは来ないのか”と心の中で呟いた。
そこで、αちゃんが小声で話しかけて来た。
「稲塚君、稲塚君。
興味深い話だったから、私も思わず聞き入ってしまったが、相手に時間稼ぎをさせてしまっているよ。このままでは“私”が呑み込まれてしまう」
僕はそれに「いや、僕も時間稼ぎをしているのだけど」と返す。
「どうして?」
「だって、綾小路さんが来てくれるんだろう?」
「いや、呼んだ事は呼んだけど、返事がないし、来るとは限らないと思うよ。恐らく、私からのメッセージを見てはいないのじゃないかな?」
「へ?」と、それに僕。
……これはまずい。
そう思って、大蟹君Sの方を見て、更にまずい事態になったと分かった。どうも、彼の聴力は僕らの予想以上に高かったらしい。にやりと笑いながら僕らに向って近づいて来ている。鉄パイプを“ズリリ……”と引きずりながら。きっと今の会話を聞かれたんだ。
僕を“潰す”気だ。
綾小路さんが来ないと分かった以上、もう大蟹君Lを守る必要はないから攻撃に専念できると判断したのだろう。
彼の背後では、菊池さんβがもう四分の三ほども大蟹君Lに呑み込まれていた。早く助けなければ、手遅れになる。
やがて、大蟹君Sが鉄パイプを振りかぶってこちらに向って駆けて来た。子供のサイズだけど、それが却って恐ろしい。昔、子供の姿の人形が人を殺すホラー映画があったけど、ちょうどそんな感じだ。
僕は頬を引きつらせた。
――さぁ、どうする? どうすれば、助けられる?
そこで、αちゃんが声をかけてきた。
「稲塚君! 食べられかけている“私”に向って、私を投げてくれ」
「何をするつもり?」
「私が核になって、麻痺している“私”を操る」
「そんな事ができるの?」
「大蟹君は普段、それをやっているのだろう? なら、私にできないはずがない」
「――でも、」
そう言っている間で、大蟹君が鉄パイプをぶん回し始めた。僕はそれを鉄パイプで防ぐ。リーチで勝っているからなんとかなっているけど、かなり厳しい。
「早く!」と、そこでαちゃん。
「――でも、もし、失敗したら、僕は君まで失ってしまう」
その僕の言葉にαちゃんは嬉しそうにした。
「大丈夫。その言葉さえあれば、私は絶対に負けない。
――私を、信じて」
そこで僕は大蟹君Sの鉄パイプを片手で受け止めた。そして、もう片方の手でポケットの中のαちゃんを掴むと、それから彼女を倒れている菊池さんβの方に向って投げた。
もちろん、出来る限り優しく。
αちゃんは、菊池さんβの傍に転がり、それから急いで菊池さんβの頭辺りに結合する。しかし、何の反応もなかった。“そんな…… ”と、僕は思う。大蟹君Sがそれを見てにやりと笑った。僕は顔を青くして、思わずこう叫んでしまった。
「お願いだからいなくならないで、菊池さん!」
その微かな間の後だった。ピクリと菊池さんは動く。僕はさっきのαちゃんの言葉を思い出した。
“その言葉さえあれば、私は絶対に負けない”
「君を失いたくないんだ!」
僕はまたそう叫んだ。
するとまた菊池さんは反応した。間違いない。僕の言葉で麻酔から覚醒しているんだ。
「君が好きだ! だから、失いたくない!」
また叫ぶ。菊池さんが笑った気がした。もしかしたら、αちゃんの言う“稲塚君派”とやらが力を取り戻しているのかもしれない。
それから、ゆっくりと菊池さんは大蟹君Lの大きな顎の中から這い出そうとし始めた。今度は大蟹君Sが顔を青くする番だった。目を剥いて、走り出す。菊池さんが逃げるのを邪魔するつもりだ。
「させるか!」
僕は彼を追いかけると、その後頭部に向けて思い切り鉄パイプを振った。しかし、手応えはまったくなく、まるで豆腐か何かでも殴ったかのようだった。
それもそのはず、大蟹君は分裂していたんだ。たくさんの小さな大蟹君になって僕の攻撃を躱している。その彼らは、ちょこまかと駆け、大蟹君Lに結合していく。多分、全て結合したら動けるようになってしまうのだろう。
その前に僕は叫んだ。
「おい! 大蟹君に奴隷にされている、お前達!」
このままでは絶対にまずい。僕はまだ朦朧としている菊池さんに駆け寄ると、顎の中から彼女を引っ張り出しながら、大声で言葉を続けた。
「本当にこのままで良いのか? その君達を支配している大蟹君は、疲弊して役に立たなくなった君達を廃棄するつもりでいるんだぞ? 使い捨てだ!
菊池さんを見てみろ! 麻酔にやられていたって、ちゃんと動けているじゃないか! どうして、君達は動けないんだ!?」
そう言い終えるのと同時に僕は菊池さんを顎の中から引きずり出した。しかし、まったく安心はできない。大蟹君がその大き過ぎる顎のまま、むくりと起き上がったからだ。
僕は急いで菊池さんを立たせる。「ありがとう」と、彼女は言ったけど、まだまだ意識がはっきりしていないのは明らかだった。
これでは逃げ切れない。
大蟹君は顎を大きく広げたまま、僕らに向って近づいて来た。一歩、また一歩。僕は菊池さんを支えながら、なんとか逃げようとしたけれど、あまり速くは動けない。追いつかれてしまう。
しかし、そうして後少しで追いつかれてしまうというところで、大蟹君に異変が起こったのだった。
何故か頭を抱え、「うう……」と、うめき声を上げる。そして、
「止めろ、お前達」
と、そんな声が。
やがてとても小さな響くようないくつもの声が聞こえて来た。
「ふざけるな!」
「もう、搾取されるのはまっぴらだ」
「ちゃんと休ませてくれぇぇぇ!」
そして、その次の瞬間、まるで砕けるように大蟹君は崩れてしまったのだった。たくさんの様々な種類の“大蟹君”がこぼれていく。それらは銘々が勝手に行動し、統一された動きはまるでなかった。
ある者は物影に隠れようとし、ある者は何か食べ物を探し、ある者はこの倉庫の中から逃げようとした。
つまりは、“大蟹君”という個体型社会生物は崩壊し、それぞれが別々の社会になってしまったという事だろう。
革命が起こったんだ。
どうやら僕の声は奴隷達に届いていたらしい。個体型社会生物の“死”を、どう定義すべきかは分からないけど、この状態は大蟹君は死んでしまったと言えるのかもしれない。これも、散々、圧政でパーツ達…… 社会に住む者達を苦しめた報いだろう。
バラバラになった彼らは、もう一つに戻りそうにはなかった。
「何なんですの、一体、これはー!?」
そこでそんな声が聞こえた。
見ると、そこには駆け付けた綾小路さんがいて、その凄まじい光景に目を白黒させていた。
――朝の待ち合わせ、
「やぁ、おはよう、稲塚君」
そう菊池さんが挨拶をして来る。
「おはよう」と、それに僕は返した。
これから僕は彼女と一緒に登校するんだ。そう。いつも通り。
あれから、大蟹君は当然ながら、学校に来てはいない。仕事の都合で転校した、という事になっているようだけど、もちろん、表向きの理由だろう。どこでどう処理されたのかは分からないけど、あの事件は闇に伏せられてしまったんだ。
僕は真相を言わなかったし、言う気もなかった。いや、言ったって、どうせ誰も信じてくれないだろうし。
「やっぱり、健康な社会っていうものは、資源の無駄遣いを許したりしちゃいけないもんなんだね。私は大蟹君のお陰で、改めてそれを悟ったよ」
通学路は良い天気で、とても気持ちが良かった。最近まで行われていた予算調整の為の道路工事は既に終わっていて、道路は新品だった。綺麗に舗装されてあるけど、なんだか落ち着かない。
「そうだよ。これからは、もっと気を付けてよ」
僕はそう言って彼女を諫めた。
彼女が増やし過ぎてしまった彼女の部品は、今はなんと体内でスマートフォンを操作する機能として活用されているらしい。歩きながら安全にスマートフォンを操作できると彼女はご満悦だ。
「そもそも、どうして君は自分の身体のパーツを増やしてしまったの?」
僕がそう尋ねると彼女は「ああ、」とそれに返し、こう続けた。
「まだ話していなかったね。実は私は君との子供を産もうとしていたんだ。君と一緒に過ごすうち、そのように身体が反応してしまったんだけどね」
――へ?
と、僕はその説明に驚く。
何気なく言ったけど、なんだか彼女は物凄い発言をした気がする。
「ところが、それから君は私と大蟹君が一緒になれば良いと言うような発言をした。それを聞いてフラれたと思った私は、身体の部品を余らせてしまったのだな。そして、それが腫瘍と化し、“資源の無駄遣い”の温床として私の身体を蝕んでいった、という訳さ。
もっとも、今は大丈夫だけどね」
僕は目を丸くしてそれに返す。
「――いや、ちょっと待ってよ。君と僕とはまったく異なった種族じゃないか。子供なんて産めるはずがない。結婚だって……」
結婚は……、まぁ、種族が違ってもできるかもしれないけれど。
ところが、その発言を受けると、彼女は何故か顔を明るくするのだった。
「なんだって? 君はそんな事を勘違いしていたのかい? 大丈夫だよ。私達は問題なく子供を残せるんだ。何しろ、私は個体型の“社会”生物だからね」
それを聞いて、僕の頭は混乱した。彼女が何を言っているのか分からなかったからだ。
「社会はコミュニケーションさえ可能なら、子供を産めるのだよ。生物的な性交は必要ない。
つまり、君と私とがコミュニケーションをすれば、そのイメージを結実させ、子供を残せるのさ。もちろん、遺伝的多様性は重要だが、私の中の多様性はまだ充分にあるからね、まだ他から取り入れる必要はない」
そう言い終えた彼女は、とても上機嫌のように思えた。
「なるほど、なるほど。君はそんな勘違いをして諦めていたのだな、私の事を。いや、話していなかった私にも非はあるけど」
ふふん、と彼女は笑う。
そらから更に続けた。
「あ、もちろん、楽しみたいと言うのなら、ちゃんと君を満足させられる行為はできると思うよ? 形を学習して、イメージすれば変形だって可能だから」
彼女が何を言っているのかは明らかだった。それで照れてしまった僕は思わずこう言う。
「でも、まだ子供は早過ぎるよ。せめて、高校を卒業してからに……」
多分、けっこうテンパっていたからだろうと思う。
「もちろんだとも」と、それに彼女。
「しかしそうだな、君がそんな気だったなら、今度パーツが余ったら、少しくらいは胸を大きくしてみようかな? 君の好みはどれくらいなんだい?」
僕はそれに「いや、今のままで充分……」と言いかけて顔に火照りを感じて下を向いた。その僕の様子に、彼女はとても楽しそうにしていた。
学校に着くと、上機嫌の菊池さんは、綾小路さんの姿を見つけるなり、こんな事を言った。
「やぁ、綾小路さん。この前はありがとう。実は君に“公共事業による資源の無駄遣い”を指摘した時の事について反省をしていたんだ。
私は批判をするだけじゃなく、問題の解決方法も一緒に提示するべきだったんだ。
“資源の無駄遣い”だからダメなのであって、役に立つのならば公共事業でも何の問題もないんだ。だから、そう変えてしまえば良いだけの話なんだ。
例えば、魚の養殖用の餌として、昆虫の養殖を始めるとかね。これなら、生ごみも有効利用できるし一石二鳥だよ……」
綾小路さんは、彼女のその突然の主張についていけず、「いきなりなんですの?」とそう言ってかなり困っている様子。
それを聞きながら、僕は“その説明、大蟹君に僕が言ったやつだよなぁ”などと思っていた。
或いは、それは単なる“真似”ではなく、彼女の中では、社会と社会の結婚を意味する事なのかもしれない。