ある老婆の終日
誰もが老化し、老人となるが、誰もが毎日を楽しく生きているわけではない。
特に何もない、極めて異常のない日々が、平常平穏を創る。
有閑なんて夢のまた夢…。
ローンを払い終えた家はとても広く、私と夫の寝室も、娘と一緒に使ったキッチンも、息子が騒いだ二階の部屋も、家族団欒のリビングも、今は誰もいない。
夫は5年前に他界した。葬式には息子も娘も孫を連れて来たが、それ以降は年に一度来るかどうかだ。3回忌までは毎年来たが、去年は仕事が忙しいという理由で来なかった。今年はその理由も無いまま来なかった。孫の顔は4年前の正月以来見ていない。
今年の正月は独人で迎えた。娘も息子も遠くへ行ったわけでもなく、同じ県内に住んでいて、車なら一時間と掛からずに来られる程度だ。それなのに誰も来ない。
近所付き合いは昔と変わらないと言えば変わらないが、年の近い人達は殆ど他界してしまい、町内の老人会に集まる人も私を含めて3人。そして先日、老人会の中止を決めた。決めたのは私達じゃない。老人が少ないからではない。集まる人が少ないからだ。ちなみに子供会なんて数年前からない。町内の神社で行われる夏祭りにも若い人はなかなか来なくなっているぐらい、町内の活動に興味を示さないからだ。町内会費も年々集まらなくなっている。
「町内会費を集めようとすると、支払い義務なんてないし町内の活動なんか参加しないって言われるんだ。」
町内会長だった山田さんからほぼ似た内容の愚痴を何度も聞いている。タワーマンションの住人は、同じ町内に建てられたので同様に扱われていたが、今は別世界と変わらないぐらい離れている。距離じゃなく、心が。
毎日が何も変わらない。玄関のポストにある新聞を取り、テレビの挨拶に応じてからの朝食。その後に散歩。公園へ向かうと決まったように同じ人と出会い、挨拶だけして通り過ぎてゆく。家へ帰れば気になる個所を掃除。洗濯は毎日する必要がない。
昼食の後に午後のテレビを見て、新聞に挟まれたスーパーの広告を確認してから買い物へ。お米はなかなか買えない。値段が高いのではなく重いから。お得な5キロの米を買うのも躊躇うようになった。今は1キロの米が無くなったら買う程度。3合炊いたら一日で食べきれないから、2合で済むが、それでも食べきれない日が有る。
夕食の後は毎週楽しみにしている連続ドラマ。だが先週に最終回を迎え、もうバラエティ番組ぐらいしか見るモノが無い。番組が終われば風呂に入って寝るだけだが、風呂の湯は3回に1回変える。自分以外使わないので気にもならなくなった。
趣味を持とうと思って絵を描き始めた。絵画教室に行ったが若い人達ばかりで馴染めなかった。図書館で本を借りるが、面白いと思った本は続きがなかなか借りられず、やっと借りれたと思った時には話の半分も覚えていない。
孫が来ると甘やかしてしまうので、娘にも息子にもすごく怒られた。多分その所為で来なくなったんだろうと思っているが、実際は違う。ただ単に家に帰るのが面倒なだけだ。二人とも二十歳になる前には一人暮らしを始めてしまい、親の心配を他所にいつの間にか恋人を作っていた。心配しなくて済むというのも逆に心配になるという親心は届かなかった。
息子も娘も結婚してしばらくは何度かやって来た。初孫のいる正月は騒がしかったが、今思えばあんなに楽しかった時はない。次第に来る回数が減り、夫が定年を迎えたころには年に二回ぐらいしか来なくなった。
息子と娘は私達を理由に仲が悪くなっていたからだ。ただ、子供達には都合が良いぐらいに私は健康だった。日常での勘違いや忘れ物が有ったとしても、それは普通の事で、ボケる事もなく、歩けなくなる事もなく、ただただ平穏に生きている。逆に子供に心配させたくないという思いも有るから、毎日散歩しているのだ。
若かったころの化粧の仕方なんて忘れている。いや、出来るには出来るが、道具がもう古い。明日か明後日には最期の化粧をするんだろうと思っている。もう、自分の手ですることはないだろう。
今日はちょっと寒い。いつもは来ない息子が私の顔を覗き込んでいる。僅かに開いた目で見る部屋の温度計は26.5℃を示しているが足先が冷たく感じる。
娘が椅子に座って何か言っている。お金のことで何やら言い合っているようだが、あんた達に心配させないくらいの貯蓄は有る。
・・・違った。その貯蓄の事で言い合っていた。
現在の、あの家には、私もいない。1週間ぐらい不在だ。狭い個室のベッドに横たわっている。耳障りな機械音が鼓膜を叩いているが、もう聞き慣れた。見知らぬ白衣の男が何度か来る。息子に何かを言っているが、何を言っているのか聞き取れない。
寝ているだけなのに妙に疲れる日だ。体ではなく心が。
息子達は帰らない。大きくなった孫が私の手を握ってくれた時は本当にうれしかった。だけど、その感覚も既に無い。夫が死んだ日、孫だけは素直に心配してくれた事が嬉しかった。
そうか、今は自分の番なんだ。
そう思った時。
身体から力が抜けた。
もう何も感じないなんて思うはずもなく、わたしは―――
娘が私の顔に化粧をしている。
私の周りには花が飾られる。
私は箱に詰められて燃やされる。
骨となって墓に埋められ、そして・・・。
私の事を忘れられてゆく。
たまに思いつくとこんな小説書いてます。
破天荒な人生なんてほとんどの人が経験しないから、憧れたりはするけれど、当事者にはなりたくないですよね・・・。