8 初公演までの日々
阿国と十六人の乙女たちは、西宮に戻った。
長兵衛は泣きながら曲を次々と作っていった。
その曲に名古屋山三が、詞をつける。
そして阿国が、その曲と謡に、踊りを振り付ける。
少女たちが、その振り付けの稽古を重ねる。
ある日阿国が、住まいも兼ねている演奏場の一室に、十六人の少女を集めた。
「そなたたちには、これまでさんざん苦労をかけた。色々な土地を廻って踊りを見せた。
そして時には、酒席に侍り、色事のようなこともさせた」
娘たちは顔を伏せ、涙を浮かべた。中には泣き崩れる者もいた。
誰もが皆、忘れたいことがある。
「我らは太閤殿下の後援を得た。もうそなたたちにあのような真似はさせぬ。だが、そのためにも今度の初公演、何としても成功させねばならぬ。皆、連日連夜の稽古、大変だが頑張ってくれ」
はい、はい、と娘たちが頷く
「ここで、ひとつ隊の決まりを作りたい。今度の公演、成功すれば、贔屓の衆がたくさん生まれるじゃろう。隊全体を応援する衆もいれば、この中のだれか特定の娘を応援する衆もいるであろう。が、贔屓の衆との恋はご法度とする。
そなたたちは皆、年頃の娘。じゃが、ひとたび恋をしてしまうと娘というものは、そのことしか考えられなくなる。そうなると芸は乱れる。そなたたちには、皆、幸せになってほしい、と思っている。ある時期がくれば、この隊を抜けてそれぞれ、相手を得て、よき妻、よき母になってほしい、と思う。じゃが、この隊にいる限りは、恋はご法度。そのこと、肝に命じてほしい」
娘たちは頷いた。
初公演の日が近づいたある日。
西宮の演奏場までやって来た三成と、阿国は面談した。
三成は、初公演までの間の、太閤直属連絡窓口のような立場になっていた。
「どうじゃ、阿国、公演も間もなくじゃな。常設館も完成した。公演で演じる題目はまとまったか」
「はい、おおよそは」
「それは重畳。当日は殿下も北政所様をお伴いになられる。上覧公演ということになる」
「はい、畏れ多いことでございます。」
「儂も参るぞ。家内のうたと息子ふたりも一緒にな。楽しみにしておる」
「はい、有り難いことてございます。」
「うむ」
「治部様、ご相談させていただきたい議がございます」
「何かな」
「公演の際、この詞の楽曲を演じることをお許しいただけますでしよまうか」
三成は、示された紙に書かれたその詞を読んだ。
「おお、太閤殿下のことを謡にされたか」
三成は、全て読んだ。
「前半分は、殿下を讃える詞。が、後ろの半分はそうではない」
「やはり、あまりにご無礼でございましたか。どうかこのこと、殿下にはご内密に。治部様の胸にとどめおきくださいませ」
「いやいや、そう早決めいたすな。儂は良いと思うぞ」
「さようですか」
「うむ、だがまあ確かに殿下のご意向を確認はしておいたほうがよいな。よし、これは儂が預かる。殿下のご意向を確認次第、首尾は直ちに便りする」
「はい」
「ところでここに書いてあるが、伏見十六では、恋はご法度なのか」
「はい、そのようなことになりますれば、芸が乱れます」
「なるほどのう。芸の道も厳しいのだのう」
治部様、それは当然です。
阿国は思った。
太閤秀吉は、その詞を読んだ。
「治部。そなた変わったのう。以前のお主であれば、このようなものを示されたら、その場で握りつぶしたであろう。これをそのまま、儂の元へ持ってきたか。で、お主はどう思うのじゃ」
「お許しになるべきかと」
「ふむ、その存念は」
「これがただただ殿下を讃えるだけの詞でしたら、むしろ、お止めになったほうがよかろうと思います。見物の衆は、そこに阿諛追従の匂いをかぎとりましょう。他の謡で楽しく浮かれた気持ちにいささか白けた思いが残るやもしれませぬ」
「ふむ」
「この詞が流れた時、見物の衆は、はっとして殿下のほうをうかがうことでしょう。民びととは権力者の意向に敏感なもの。が、そこで殿下がお許しになっていることが分かれば、大いに沸き立ちましょう。」
「分かった。では儂は笑うてやらねばならぬのう」
「仰せの通りでございます。」
「では、その時は、儂も一緒になって踊るとするか」
「おお、そこまではこの三成、考えておりませなんだ。はい、民は喜びましょう」
「うむ、覚束ない踊りで、見物衆の笑いをとる。あるいは、きっちりと踊りを覚えて見物衆を驚かす、どちらがよいかのう」
「まつりごとをする身といたしましては、前者がよろしいかと。が、三成個人といたしましては、後者を拝見いたしたく存じます。」
「おお、よう出来た答えじゃ。ふむ、考えておこう」
殿下はどちらを選ばれるだろう。
三成の口許に微笑みが浮かんだ。
殿下は・・・両方為されるだろう。
お香の前に、二百五十人の見物衆がいた。
殿下が、その奥方様が、いつぞやの初披露の席におられた方々も、そのご家族と思われる方々と一緒におられる。
そして、民びとたち。皆、お香を凝視していた。
お香は、胸に、父から与えられた二寸の観音像を忍ばせていた。観音像は、いつも守り袋にいれている。
だが今この時、お香は、観音像を肌身から離したくなかった。
胸に忍ばせ、きつくきつく晒しを巻いた。
お香の胸に様々な思いがたゆたう。
女になった夜、そのあとの幾度かの夜。
お香は、心の中でかぶりをふった。
私は今、この瞬間から生まれ変わるのだ。
舞台の中央。第一声は、お香が発する。
お香は、今日のこの舞台が野外であればよかったのにと思った。
お香は大空に向かって叫びたかった。
小田原の街外れ。そこの掘っ立て小屋に今も住まいしているであろう、父と母。弟と妹に向かって叫びたかった。
「ふーしーみー」
お香があらんかぎりの声で叫んだ。高く伸びやかに。
その叫びは長く長く尾を引いた。
その叫びがようやく途切れようとした瞬間。
後ろに控える十五人の少女が唱和した。
「じゅうろく」
長部長兵衛が、携帯六弦琴を奏でる。
連結金物太鼓が、鳴り始める。
が、音は、さほど大きいものではなかった。
大関組の三人が読経する。
十六人の少女たちは動かない。みな、すっと直立したまま。
二十秒。
十六人の乙女が同時に動いた。