3 長部の家の、父と子
長部正和は、摂津国灘五郷のひとつ西宮郷の造り酒屋の長男に生まれた。
長部家は、灘五郷の造り酒屋の中でも一、二を争う名門だった。
そのような家に生まれながら、正和は家業に興味を持てなかった。
正和が幼いころから興味を持ったのは音だった。
目につく限りの楽器を奏で、叩き、それらの楽器が発する音を楽しんだ。
やがて正和は自ら曲を作り始めた。
そういう正和を見て、父である当主の文治郎は別に叱ることもなく、正和の好きにさせていた。家業を覚えよと説諭することもなかった。
正和は十八歳になった。
文治郎に
「長部の家を出て、音楽で身を立てたい」
と告げた。
「どうやって食べていく」
「人の集まる場所に行き、私が作った曲を奏でます。聴いてくれる人たちの中で、その曲を気に入ってくれた人がいれば、投げ銭もしてくれるでしょう」
「長部の家の跡取りが、投げ銭で暮らすか」
やはり父は許してはくれないか。黙ってこの家を出るしかあるまい。
「のう、正和。音楽をやりたいというお前の一番の目的はなんだ」
「私は曲を作りたいのです。この日の本で誰も作ったことがないような曲を。そしてその曲を聴く誰もが感動で胸を奮わすような曲を」
「目的は曲作りか。なるほど、分かった。では正和、お前は好きなだけ曲を作ってみろ。食べることを心配することはない。」
正和は父を見た。一体何を言っているのだろう。
「分からんか、正和。お前の一生をこの長部の家が面倒をみると言っているのだ」
「父上、一人息子である私が家業を継がないということだけでも大きな不孝です。その上、そこまで甘えることはできません。この正和も男です」
「家業は、儂の弟の二郎に継がせる。二郎の娘のお邦も女ながら、酒造に興味を持ってくれているしな。
お前はこの長部の家に生まれたのだ。甘えたらよかろう。
お前、長部の家を何だと思っている。お前ひとりの一生の面倒をみるくらい、どうということもない」
「ち、父上」
正和は深く頭を下げた
「それから、あとひとつ。芸能を生業とするものは、本名とは別の名を名乗るものが多いがお前はどうする」
「いえ、特に何も考えてはおりませぬ」
「では長兵衛を名乗れ」
「長兵衛ですって」
「おお、今の長部の家の当主の名乗りは文治郎。が、以前は、大坂屋の屋号を名乗っておった。その時の当主の名乗りは長兵衛。長部の家にとっては大切な名だ。お前も少しだけでも長部の家の歴史を背負え」
長部・長兵衛。このふたつは聞くものが聞けば容易に結び付く。長部長兵衛が作る曲であれば、と思ってくれる者もいるだろう。
文治郎は、そう思った。
「正和、いや、長部長兵衛殿。聴くひとが誰もみな感動に胸を奮わせる。その曲が出来たら、この父に聴かせてくれ、楽しみに待っておるぞ」
十年近い時が経過した、
長部長兵衛は、何百という曲を作った。自分でも斬新であると思うことのできる曲も作った。
だが、長兵衛は、満足出来なかった。
斬新ではあっても、本質的には、日の本でこれまで作られてきた曲と変わることはない。
もっと、根本から考えないといけないのだ。
ある日のこと、長兵衛は試しに、音を一定の長さで区切り、ある規則を持たせて曲を進めてみた。
自らが、作った曲を奏でてみた。
今まで誰も聴いたことのない曲。
長兵衛の眼から涙がこぼれた。
その曲は、長兵衛の胸を奮わせた。
この日の本の歴史で、リズムを持った曲が初めて生まれた瞬間だった。