2――無知の恋
「昨日の朝7時ですか……」
菜緒は視線をまっすぐ金城に向けた。
「その時間に何があったんですか?」
菜緒のストレートな質問に、金城はたじろいだ。
「え、えっと……電話が……」
金城は消え入りそうな声を押し出し、揉み手を再び始めた。
どうやら揉み手は緊張したときの彼女の癖らしい。
「電話……元彼さんからですか?」
菜緒はまた先回りして問うた。
「ええ……。内容は、復縁したいとのことでした」
「なるほど。金城さんはどうお答えなさったのですか?」
なかなか核心を突く質問だったらしい。
金城は息をするのを忘れたかのように、全ての動作を止め、菜緒の瞳に映る怯えた子鹿のような自分の姿と対峙していた。
「金城さん……?」
菜緒がそっと声をかける。そうすると彼女の時は再び動き始めた。
「朝だったので……。『出勤前で忙しいから』と理由をつけて、電話を切ってしまったんです」
うん。当然の行動だ。
菜緒はうなずき、彼女に同情の意を示した。
「本当のところ、お気持ちはどうなんですか?」
菜緒が問うと、金城は首を傾げた。
「『わからない』……ですかね……。私も完全に冷めてないですけれど、復縁したいとまでかは……」
内心、菜緒はため息をついた。
この人はまだ若い。そして未熟だ。無知だ。
自分を好きになってくれる人が元彼しかいないと思い込んでしまっている。人生は長く、この先本当の運命の人が現れるかもしれないという可能性を視野に入れず、今だけの感情で動いている。だから自らきっぱり断れなくなっているのだ。
無知の恋は心を豊かにしてくれるが、その分自分を必要以上に縛り付けてしまう。職業柄、菜緒はそのことを重々承知していた。
「私としては、時を戻さない方がいいと思いますよ」
脱力した声で、菜緒はさりげなく告げた。
「時を戻すということは、自分の人生、ひいては他人の人生までを変えてしまう可能性を伴います。それ相応の理由と覚悟がないと、かえって状況が悪化してしまうというケースもあります」
菜緒が止めたのに自分の意見を押しきって、結局状況が悪化し、もう一度時を戻してほしいと頼み込んできた客もいた。
料金が二倍になったのは喜ぶべきことなのだろうけれど、菜緒はいい気がしなかった。人を不幸にして金を巻き上げるなんて行為をしたくなかったのだ。
「理由と覚悟なら、あります」
金城ははっきりと、菜緒の目を見つめて言い張った。
「彼は、私に電話を掛けたちょうど一時間後、出勤途中に交通事故に遭い、もう二度と帰ってこない人になってしまったんです……」
思わず交通事故という単語に反応してしまった菜緒。
しかし今は仕事中だ。菜緒もそこらへんはわきまえている。すぐに冷静になり、金城の話を聞くことに集中した。
「私に責任の一端があるんじゃないかと、昨日はずっと考えていました。だから、せめてもの償いとして、時を戻して彼に伝えたいんです」
金城は深く息を吸い込み、吸気を声に変えて吐き出した。
「『あなたのことを嫌いになったわけじゃない』と……」
金城の口調は嘘をついているものではなかった。これは本心だ。
「わかりました。ご依頼、お引き受けしましょう。
ただし、今すぐというわけではありません。もう少し日が経ったらにしましょう。
私は元彼さんの事故についてよく調べてみます。
ですからあなたは、自分の本当のお気持ちをお確かめください」
菜緒は姿勢を正し、金城に告げた。
金城は目を丸くした。
「今日じゃ、ないんですか?」
「ええ。場合によってはご相談を受けてすぐに時を戻すこともありますが、今回は少し時間を置いた方がいいと判断いたしました」
金城はうつむき、自分の体を守るように背を丸くした。
「それは私に覚悟が感じられないからですか?」
「そうではありません。ただ、もう少し元彼さんへの想いをはっきりさせておいた方がよろしいかと」
金城は菜緒から目を背けた。
「……そうですね。ちゃんと復縁したいのか、関係を絶ちたいのか、気持ちをはっきりさせてからまた来ることにします」
金城は連絡先を菜緒に伝え、店をあとにした。




