18――資料と議論
「椿!」
息を切らした菜緒は、閉まったシャッターを押し上げ、営業休止中の我が店の中に入り込んだ。店の奥の特等席で菜緒の読みかけの推理小説をぺらぺらと流し読みしている椿に向かって、十分すぎるほどの大声で呼びかけた。
「お願いがあるの椿! これを読んでほしいの!」
「ちょ……落ち着いてよ菜緒。いったいどうしたの?」
珍しく取り乱している菜緒の様子を見て、椿は眉をひそめる。菜緒はそんな椿の様子もお構いなく、そそくさと店の奥へ進み、椿の鼻先に持っていたレポート用紙の束を突き出した。
「羽衣警部から特別に貰ってきたのよ。重要な証拠なの。こういうことは、私より椿の方が詳しいでしょう?」
椿は「ハゴちゃんたちが書くような論文みたいな堅い文章、あたしなんかにとっては読むのつらいよ」なんてぶつぶつ文句を垂れながら、しっかりと資料を受け取ってくれた。
『ハゴちゃん』というのは羽衣警部のこと。椿が羽衣警部につけたあだ名だ。しかし本人非公認のあだ名であるため、一度も対面して呼んだことはない。学生が友達同士で学校の先生のことをネタにするときのような感覚だ。
椿はまず表紙に書かれている文字を目で追った。
「ん……?」
椿の表情が一変する。真剣な眼差し。
「ねえ、これってどういうこと? 高橋荘治の体内からフラッシュメモリーが検出されて、その中身が高橋電気が持っている特許と千寿電気の新商品に関係してるって……」
資料の表紙に書かれていたのは内容を簡潔にまとめた概要。羽衣警部が書き添えてくれたものらしい。
菜緒が何も言わずにうなずくと、椿は一心不乱に資料を読み進めた。
「うん……間違いない。これ、本当だよ。本当に重要な証拠だよ。これがあれば、仮説に筋が通る」
すべてを読み終わった椿は、キリっとした瞳を菜緒に向けた。
「私にもわかるように説明してくれないかしら」
菜緒が来客用のスツールを手繰り寄せ、椿と机を挟んで向き合った。いつもは自分がいるはずの場所に椿がいて、いつもはお客がいるはずの場所に自分がいることに、菜緒は少しの違和感と、新鮮さを感じていた。
「もちろんいいよ。これを元に、私の持っている情報も付け加えて説明するね」
椿はレポート用紙の束を机の上に置き、菜緒が見えやすいように向きを半回転させ、表紙をめくった。
「菜緒もこれはわかっていると思うけれど、高橋荘治の体内から検出されたフラッシュメモリーの一部から、高橋電気が最近取った特許についてのデータが見つかったってこと。肝心なその特許ってどういうものなのかはこの資料を見ても、あたしたちみたいな子供には理解するのが難しい。だけど、あたしは運が……いや、勘がよかった」
椿は机の上に落としていた視線を拾い上げるようにして菜緒に向けた。
「あたし、今日ちょうど調べていたんだ。高橋電気と千寿電気のこと。それでこの特許のことも知ったし、友達からわかりやすい解説もしてもらった。今から話すのは、ほとんどその友達からの受け売りだけど、私が一から解釈し直すよりはるかにわかりやすいから心配しないで」
そうして椿は、学校の休み時間に柴土から教えてもらったことをそのまま菜緒に伝えた。柴土は予想を元に教えてくれたが、そのすべてがこの資料の内容と齟齬なく結びつくことに椿は感心しつつ、少しの恐怖も感じていた。
柴土はいったい何者なんだろう。普通の理系なら当然なのかな。普通の理系ではないという自覚がある椿は勝手に劣等感を抱く。
「へぇ……ガラスをそんなふうに加工することで、ディスプレイ全体の強度を保ったまま薄型化ができるのね。考えもしなかったわ。コーティングする電極や付属部品の性能も高めることで、少ない電力でも繊細な映像の描写ができる……だから高橋電気の薄型テレビってすごく評判がいいのね」
資料に記載があった特許は超薄型ガラスのことだけだが、柴土は親切にも付属部品の性能にまで言及してくれたのだ。その情報もそのまま椿を通して菜緒に伝わった。
「そうなの。あ、それでね。高橋電気がこの超薄型ガラスの特許を取ったのは一ヶ月前なんだけど、フラッシュメモリーの中に情報が書き込まれたのは半年前って、ここに書いてあるでしょ?」
椿はレポート用紙の一部分を指差す。椿の言う通り、そこにはフラッシュメモリーの最終書き込み日時が記されていた。
「これって、おかしいよね。半年前に既に特許を取る準備はできていたはずなのに、なんで今さら取ったんだろう」
さぞかし重要な点に気づいたかのような顔をして、菜緒にアピールする椿だが、菜緒はやれやれと首を振ってため息をついた。
「椿、それはあなたの勉強不足ね。特許申請から特許取得の間には多くの手続きや審査を乗り越える必要があるのよ。短い場合でも五ヶ月はかかるって話よ。学校の書類みたいに、申請したらそれで終わり、即オッケーってわけにはいかないの」
呆気なくあしらわれた椿は意地になって汚名返上を狙った。
「それならそれで、なんで半年前のフラッシュメモリーを呑み込んだりしたのさ。そんなもの、隠蔽しようとしたってしょうがないじゃない。特許情報ならなおさらおかしいでしょ。よくわからないけれど、そういういろいろ……審査? があるんだったら、きっともしものときのためのバックアップとか別に取ってあるはずだし、これ一つ呑み込んだところで余計何か裏があるって疑われるだけじゃん」
「自分の主張の途中で疑問系になるような人の意見は弱いとみなすわ」
鋭い言葉が椿に突き刺さる。ダメージを受けている椿を見て、面白そうに菜緒がくすくすと笑い声を上げる。どうやら冗談だったみたいだ。
「特許制度に疎いのは本当だけど、バックアップがあるはずという発想は悪くないと思うわよ。隠蔽しようとしたってしょうがないって考えは私も同じ。とすると、考えられるのは……」
菜緒はしばらく口元に手を当てて考えた。
「実はあんまり中身は重要じゃない、とか?」
菜緒より先に椿が口を開いた。菜緒の顔にひらめきの光が反射する。
「重要なのは、高橋荘治の体内にフラッシュメモリーがあったという事実……あるいは、フラッシュメモリーの存在そのもの、ってところかしら」
あまりぴんと来ていない様子の椿を目の前にして、菜緒は一度この件を保留にする判断を下した。脳内のメモ帳にしっかりと書き記して次に進む。
「ここからはフラッシュメモリーの中身ではなく、千寿電気の新商品についての記載ね。羽衣警部たちが独自に調べてくれたものでしょうね」
菜緒は机の上に置きっぱなしになっていた資料のページをめくった。文書の雰囲気ががらりと変わる。
「うん。普通に調べても見つからない情報だよ。たぶん、まだ開発中で公開されていないものだと思う」
千寿電気の新作ノートパソコンの構造について、驚くほど詳しく記されている。警察の力ってすごい。二人は改めて感嘆した。
「で、菜緒も概要から察しているよね。このパソコンの画面に使われる薄型ガラス、さっき見た高橋電気の特許の構成要素と丸被りしているの。特許侵害……ってことでいいんだよね?」
「高橋電気と千寿電気がライセンス契約を結んでいたり、千寿電気が特許を買っていなかったりした場合は、そうなるでしょうね。ここまで書いているからには、きっと警察側もそう考えているはずだわ」
菜緒の脳内でニューロンが連鎖的に発火した。高橋荘治の体内のフラッシュメモリー、高橋電気の特許と千寿電気の新商品、金城美代子のスパイ疑惑、事故後の金城美代子の様子……元々菜緒が抱いていた仮説に確証の色が付いていく。
「協力ありがとう椿。おかげでかなり真実に近づいたわ」
さっさとスツールを元の場所に戻し、レポート用紙の束を整える菜緒を見て椿は焦りだした。
「ね、ねえ! 教えてよ、菜緒の考え。それと……これからどうするつもりなのか……」
椿は椿なりの結論にたどり着いている。それをわかっている菜緒は、彼女が焦っている理由を的確に見抜いていた。椿は金城美代子のことが気がかりなのだ。
「ええ、教えるわ。でもまずは、腹ごしらえしないとね?」
時刻は既に18時をまわっている。菜緒も椿もよく口を動かしたので、二人とも空腹を感じずにはいられなくなっていた。




