15――先輩の話
「あなたがどうして私の後輩について知りたいのかは見当もつかないけれど、その反応を見るに、彼女がこの会社でどう思われているかは知っているみたいね」
ひんやりした空気が流れている会議室に通されて、席に着く間もなく話題を切り出された。深渕先輩がパイプ椅子を引っ張り出して座るのを見てから、菜緒も席に座る。
「どうやら、金城美代子さんについて良からぬ疑惑が囁かれているようですね」
わざとぼかして言う。深渕先輩の表情の機微に菜緒が気づかないわけがなかった。
「あなた……まあいいや。この際だから全部話しましょう。私だって、堅苦しいことを考えなければ、こういう話は広めたくなっちゃうの」
一社員として、先輩として、後輩のスパイ疑惑の話を語るのはどうかと思うが、そうなってしまうのは女性の性だろうか。もちろんすべての女性が噂を広めたい、いわゆるゴシップ好きだとは思ってはいないが、そういう傾向があることは事実だと思う。
深渕先輩は本当にすべてを話してくれた。スパイ疑惑の噂を流すきっかけとなった出来事まで事細かに教えてくれた。彼女の話をまとめると、こうだ。
先月の某日、深渕先輩はこのオフィス街から5駅分離れた高級レストラン街で友人とディナーを楽しんでいた。その帰り道、偶然彼女の視線の先に見慣れた後姿があったという。金城美代子。そして彼女の隣にはライバル企業の副社長、高橋荘治。見間違えるはずはないと、深渕先輩は熱を込めて言う。二人は仲睦ましげに寄り添って歩き、しきりに何かの話をしては控えめに笑い合っていたという。
「きっと彼女、高橋荘治とデキてた。彼女が高橋荘治に好かれようと、高橋電気にとっては邪魔なこの会社の弱みを密告していたとしてもおかしくないでしょ?」
深渕先輩は達観したような目で菜緒に語った。女は男に好かれるためなら仕事なんてものは簡単に捨てられる、と。菜緒には極論にしか思えなかった。もっとも、自身の恋愛経験など毛ほどもない菜緒が口を挟める訳がなかったが。
「だから私はまず同僚の女の子に話した。そのときは別に噂としてみんなに広めるつもりはなかったんだけど、結果として広まっちゃった。でも私はそれでよかったと思う。噂のおかげで、会社が情報漏洩に敏感になったり、高橋電気への対抗心が強まったりしているからね」
ただ、会社全体の金城美代子に対しての扱いはがらりと変わった。
「もう察しているかもしれないけれど、ほとんどの社員が金城さんと距離を置いている。まあ、当然よね。敵側の人間かもしれないんだもの」
「それでも出社するなんて、相当心の強い方なんですね」
深渕先輩の顔が目に見えて曇った。
「というか……彼女、上層部と繋がっているかもしれない。前から度々彼女が直接上層部に呼ばれることはあったのだけれど、高橋荘治の事故があってからは異常に増えたような気がする。上層部は彼女のスパイ疑惑を否定して通常業務を任せているし、彼女、何かうまいこと丸め込んだのかしら」
挙げ句の果てには、深渕先輩の考えは金城美代子が事故を起こさせたというところまで至った。
「スパイしていたことがバレて、自分の地位を守るために高橋荘治を事故に見せかけて殺害したとしたら……! 末恐ろしい女ね、あの子」
それはただの憶測で、そんなことを考える深渕先輩もなかなかに末恐ろしいと思う菜緒だったが、率直に面と向かっては言えない。言葉を選んで深渕先輩に確認した。
「事実としては、金城美代子さんと高橋荘治が出会っていたこと、会社中にスパイ疑惑の噂が流れたこと、上層部はスパイ疑惑を否定していること、ですね」
「ええ、その通り」
菜緒の頭の中では、二通りの考えが渦巻いていた。一つは深渕先輩の考えていることに近いもの、そして、もう一つは……。
「最後に、最近の金城美代子さんの様子をお聞きしてもよろしいでしょうか」
深渕先輩にとって予想外の質問だったようで、答えを聞き出すまでに少し時間を要した。
「最近……そうね。スパイ疑惑が流れ始めたときよりも、最近の方が暗い表情をしている、かも」
その言葉で菜緒の考えがほとんどまとまった。あとは証拠が仮説について来てくれるかだ。
「貴重なお時間を割いていただき、ありがとうございました。お忙しい中、突然の訪問ですみませんでした」
菜緒は席を立った。深渕先輩はゆっくりと席を立ち、仕方なさそうに苦笑いをした。
「ほんとほんと。私これでも忙しいんだから」
深渕先輩は出会ったときと同じ言葉を発したが、その表情はどこかすっきりしている。本人も言う通り、この人は人々に何かを話し広げることが好きなのだろう。
菜緒たちが会議室を出て深渕先輩のデスクに戻ると、ほとんどの社員の注目を浴びた。菜緒は無言で深く一礼しただけで、深渕先輩と別れ、一人受付に戻った。
受付で見学証明書を返却し、行きと同じように階段で帰ろうとした。
「菜緒ちゃん!」
その後ろから声をかけられた。声の主は、柊彩乃。
「ちょっともう……大丈夫だった? あんなにきっぱりと言ったから、どうなったか心配だったんだけど……」
「大丈夫です。心配かけてすみません」
菜緒は簡潔に答え、柊彩乃に笑いかけた。
「むしろ、深渕先輩にとってもいい気分転換になったんじゃないかなと思いますよ」
菜緒は受付から深渕先輩のいる方に目を向ける。キーボードを打つ軽快な音が聞こえてきた。
「菜緒ちゃん……すごいわね……」
その言葉にはいろんな意味が込められているだろう。菜緒はそれに気づきながらも、ただ穏やかに微笑んでいた。




