第三話 ⑥
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「あ」
爆発と共に跳び去ったナックルの背を見て、ルカードから逃れようとしていたリンダの体の力がスゥッと抜けた。
行ってしまった。
手を伸ばせば届く距離に居た自分を救い出してくれるはずの鉄人は、今は遠い場所に居る。
後少しだった。
あの時、ルカードが部屋に入ってきた時、怯え縮こまらなければリンダの手はナックルに届き、この牢獄の様な世界から抜け出せたはずだった。
「GA?」
ナックルを追っていたゴーレム達は目標を見失い、広い庭を右往左往していた。
「お前達、元に戻れ」
パチン。
ルカードが命令と共に指を鳴らした。
瞬間、ゴーレム達の体が変化した。
爆発する炭酸水を逆回しするようにボコボコと体積が縮まっていく。
いつしか歪な巨人の体は何時しか華奢な少女達の体へと形を変えた。
彼女らはこの館の雑用ゴーレムだ。
普段はメイドとして屋敷の雑務を全て取り仕切っているのだ。
一糸纏わぬ見慣れた少女達は無機質な瞳をルカードへと向けていた。
「半分は持ち場に戻れ。残りはあの鉄人を追え」
速やかに少女達は行動を開始した。
ぞろぞろと三々五々。
散り散りに成っていくメイド達の姿をリンダはテラスでへたり込んで見ていた。
「リンダ」
「ッ」
すぐ後ろから硬い響きを持った声が聞こえ、リンダは怯える様に肩を竦ませる。
伝わる感情は怒りだった。
ガタガタとリンダの体が震え出す。
すぐに後ろを向かなければならないのに、恐怖で首が回らなかった。
「何故逃げようとした?」
後ろから叱責の如き語気の声が聞こえる。
それが何処か遠い物の様にリンダには感じられた。
リンダは息が上手くできなかった。
何か言わなければならない。
だが、喉を通り過ぎるのはヒュウヒュウとした空気が通り過ぎる音のみだ。
『やだ! やだぁ! 離して! 離してぇ!』
そう。リンダは言ってしまっていた。
他ならぬルカードに対してリンダは本心をこれ以上に無い程雄弁に曝け出してしまった。
今更何を言えば良いのだろう。
何を言っても只の言い訳にしか成らなかった。
「……リンダ、答えろ。お前も私を愛さないのか?」
ルカードへ感謝の気持ちはある。それは紛れも無い真実だ。
ルカードが居なければ今自分はこうして存在していない。
だが、愛など無かった。
昔はあったかもしれない。
まだ、リンダがルカードの肌の熱さを知らなかったあの頃ならば、ルカードへ愛を持っていたかもしれない。
だが、今のリンダはルカードの事など欠片も愛していなかった。
来る日も来る日も思い描くのは、このメルヘンシティの外の世界。
文字や言葉でしか知らない無限に広がると言う世界。
危険と隣り合わせで、何時何処で何が起きるのか分からないそんな美しい世界へ思いを馳せ、焦がれ続けていた。
それでもリンダはルカードの前では彼を愛する少女として振舞い続けた。
そうでなければ成らなかった。それがリンダの存在理由だった。
リンダ・サンドリヨン・
ルカード・サンドリヨンの唯一人の娘。
リンダという名を継いだと言う事はそう言う意味だった。
事実、リンダは今日まで上手にルカードの娘を演じていた。
だが、その仮面は剥がれてしまった。
その原因は何だろう?
ナックルの存在だった。
久方ぶりにリンダと会話してくれた右半身が鉄の男。
ゴーレムと渡り合い、あまつさえ破壊した男。
伸ばされた左手。
リンダにはそれが夢にまで見た王子様の物に見えたのだ。
夢にまで見た光景に仮面が剥がれ落ち、只の夢見る少女に成ってしまったリンダにはもう演技を続ける事は不可能だった。
故に、沈黙がリンダの返答だった。
「……リンダ」
ルカードの絶望した様な失望した様な声にリンダは眼を閉じて肩を狭めた。
十数秒の静寂があった。
実際には眼下でメイド達が忙しなく荒れた庭を直す音がしていたが、リンダの耳には何も届いていなかった。
静寂の果て、ルカードの搾り出す様な声が響いた。
「来なさい」
嫌だ、とは言えなかった。
刻まれた役目と記憶がリンダの口に望まぬ言葉を吐かせた。
「はい。ご主人様」
その声の響きは従順な人形の様だった。