8. 病院へ
二人は朝早くに銀の森を出発したので、昼を過ぎる頃にはもう随分町のそばまで来ていた。北の森から来た二人にとって、とても暑く感じられる日差しと空気だった。それに雲行きが怪しく、湿度も高い。
森を抜けるころにはガクは汗だくになっていた。
「さすがにこっちは暑いな」ガクが言った。
ところが返事がない。ふとガクがシンを見ると、シンは汗ひとつかいていなかった。それどころか少し顔色が悪い。
「もしかして寒いの?」
とガクが聞くと、シンは無言で頷いた。
こんなに暑いのに、寒く感じるなんて。あ、南育ちだから?とか考えてみるが、それにしてもおかしい。
ガクはシンの目を覗き込んだ。シンは無言でガクの目を見ている。しかしいつもの力強い光りが感じられない。
すぐにガクはピンときた。
「シン、風邪ひいたんだよ。野菜は俺があとで届けるから、先に病院に行こう」
ということで、二人は生薬を届ける病院へと急いだ。おあつらえ向きに雨も降りだした。強い雨ではないが、細かくてまとわりつくような雨が二人を濡らした。シンの荷物を持ってやり、防水の布をシンにかけてやる。そうして二人は病院へたどり着いた。
大きな病院で、入院施設も整っている病院だ。ガクは通院だけでなく、お使いでも何度も来ていたので、どこに行くかは分かっていた。
届け物はさておき、まずはシンを診てもらわなければならない。シンは少し濡れてしまったためかコンコンと咳をしていた。
診察室に入り、医師がシンを診ようとすると、ガクが医師に告げた。
「先生、森で鳥の感染症が流行り始めています」
「ああ、なるほど」
シンの風邪のような症状は、ガクの思った通り、鳥からの感染症だった。森で暮らす森守りにはよくあることだ。重い病気ではないが、流感のように高熱が出ることがある。それに咳だ。
シンの様子からはそんなにひどい症状はないようだが、鳥からうつるときに病原菌が変異を起こして、強い毒を出すこともある。そういうことも考えて、シンは一人隔離、もとい入院することになってしまった。
入院の手続のために、病院事務の前でガクは座っていた。さすがに入院はしたことがないので、イマイチ勝手がわからないが、とにかく待っていなければならないらしい。
一度シンに話をしてきたいのだが、まだしばらく待たされるようだった。
ガクが座っていると、廊下の向こうから賑やかな若者の声が聞こえてきた。寝間着姿の女の子を取り囲むようにして、男女二人ずつ、きっとお見舞いなのだろう、楽しそうに話しながらやってきた。
そして、事務の前までくると、4人は寝巻の女の子に手を振って別れ、女の子は病室へと帰って行った。女の子もお見舞いの子もガクより少し年下くらいだろうか。そのくらいの若い人たちは、普段は分別があるものの、集団になるととたんに常識を忘れるようだ。病院の中だというのに大きな声でお喋りを続けていた。
「良かったじゃない、タカオちゃん、シン君が北の森に行ったこと知らなかったみたいだし」
「って、お前らシンに手紙出したんだろ?よくやるよ」
「だってあんなイケメンなかなかいないのよ?つなぎつけといて損はないから」
「げ、イケメンだって、あんな魔法使うヤツ、やめとけよ」
「大丈夫よ、少しくらい危険な方が、謎めいててカッコいいじゃない」
「俺はごめんだね。あんな奴北に行ってせいせいするぜ。悪魔かよ」
そんな話をしながら病院を出て行った4人組だった。ガクは自分の耳を疑った。
北に行ったシンというのは、まさに自分の相棒のことだろう。あの4人はシンの友人?学校時代の同級生だろうか。そうなのだろう。
彼らの話の中のシンは、はっきり言って悪者だった。顔が良いだけの危険なヤツ。そういう評価だった。
ガクは胸がモヤモヤと黒い醜いものに触れたような暗い気持ちがした。自分の相棒が、家族と同じ相棒が、悪く言われていたのだ。心が痛まないはずがない。
ガクの心は、必死に彼らへの反論の言葉を探していた。だって、ガクはシンのそんなに「悪いところ」を知らないのだ。いつだってクソがつくほどの真面目っぷりで、早起きで清潔できちんとしていて間違えることがない。ガクに対してやりすぎるほど一生懸命ついてくるし、嫌なことなどすることはない。まあ、口数が少ないところは誤解を生むこともあるが、それだって、悪気があってやってるわけではないのだ。長い付き合いだったらそのくらい分かるだろう。ガクなどまだ半月ほどしか一緒にいないのに、シンが悪いやつじゃないってわかるのに。
いや、違うのだろうか?何年も同じ学校で学んだだろう彼らにしか分からない、何か悪いことがシンにはあるのだろうか?彼らの言葉からうっすらと聞こえてきた「悪魔」という単語が気になる。
それからふと、シオンの言った「頑張れよ」と言う言葉も心に浮かんだ。
いや、違う。シオンはそういう意味で言ったんじゃないはずだ。純粋に、相棒として仲良くなれるように頑張れよという意味のはずだ。ガクは心に言い聞かせた。
入院の手続をして、持ってきた生薬の材料を届けて、それから一度シンの病室に顔を出した。
シンは眠っていた。
普段、シンとガクは同じ部屋に寝ているが、あまり寝顔を見ることがない。シンは布団をかぶって眠る癖があるし、朝はシンの方が早起きだ。
薬が効いているのか、無防備な寝顔をしている。手甲をしていない左手首から火傷の痕が覗いている。
それを見ていると、ガクはまた悲しくなってきた。シンが、自分の弟が、悪く言われたことが悲しくてしょうがない。
いや、もしかすると北に行ったシンというのは、ガクの相棒のシンのことではないかも知れない。他人だ、他人。そう思い込もうとした。
少しの間、ガクはシンのそばに座って寝顔を見ていた。そして、立ち上がり、部屋を出て行った。
ガクにはまだ仕事がある。病院に来る前に寄るはずだった、野菜を届ける仕事だ。
ガクは病院から出て、野菜を届けに行った。いくつかの家を周り野菜やキノコを届け、今夜自分が泊まる町の家に荷物を置いた。
そしてまた、病院に戻った。
シンはまだ眠っていた。大して時間は経っていないのだ。
ガクはずっと考え続けていた。
シンが悪者でないということを。
ずっと考えていたら、なんだかずっと考えていることが馬鹿らしく思えてきた。
ガクにとってシンは良いやつなのだ。学校時代の同級生に疎まれたって、ガクにとっては良いやつだ。それしか知らないのだから、それで良いじゃないか。
言いたい奴には言わせておけばいい。それどころか、彼らはシンの良いところを知らないなんて、可哀想に。そう思えてきた。
自分の弟だ。
俺が守ってやる。
シンの熱は2日目には下がった。咳をしてはいるが、見た目は元気そうだった。ただし、病気の感染力が強い可能性があるというので、病室からは出られなかった。
3日目になって、感染力は強くないと判明したので、やっと病室から出られるようになった。シンは心底喜んだ顔をしていた。ガクが見に行くと、明らかに2日目の疲れ切ったような顔から、いつも通りのキリリとした目に戻っていたので、ガクもとても安心した。
シンは病院の庭に散歩に出た。それだけ元気なのだろう。もう退院しても良いのではないだろうか。そのくらい元気だった。
シンが病院の庭から戻ってきたところで、声をかけられた。
「あれ~?シン君じゃない?」
例の4人組のうちの2人(男女)が、また女の子の見舞いに来ていたらしい。そこで、ばったりシンと会ったのだ。
「ちょっと、信じらんなーい!シン君、タカオが入院してるのよ。病室一緒に行こうよ」
シンは何も言えずに、腕を取られると、引きずられるように連れて行かれた。
ガクは病院に着き、シンの病室に行こうとしたところ、そんな光景を遠目に見てしまった。
あの、シンの悪口(?)を言っていた奴らが、馴れ馴れしくもシンを連れて行ったのだ。やっぱりあの時の話はシンのことだったのだ。表向きはシンとは仲良しなのだろう。別に嫌な顔はしていなかった。むしろ楽しそうではあった。シンの方はいつも通りあまり表情はなかったが、多分困惑していたのだろう。足取りが重かった。
仕方がないので、ガクはシンの病室に行ってシンが戻ってくるのを待った。
10分くらいして、まだかなぁ、と病室を出て、受付の前まで行ってみた。まだシンが帰ってくる気配がない。
ガクはもう病室に戻る気がしないので、受付前の長椅子で新聞を読んで待つことにした。シンが部屋に戻るには受付を通るのだから、ここにいれば、すぐにわかる。
しばらく新聞を読んでいると、前の時と同じように、賑やかな声が廊下の向こうから聞こえてきた。
一行は受け付け前で別れるようだった。
「じゃあねぇ、シン君、会えてよかった。またお手紙出すね。タカオ、またねぇ」
そう言って、お見舞いの男女は賑やかに病院を出て行った。どうやら彼女の方は結構シンのことが気に入っているようだ。男の方はそうでもない、か。いや、やっぱり嫌っているようだった。あの時の会話が思い出される。
後に残った寝巻の女の子はシンに小さな声で何か話していた。ガクには何を言っているのかは聞こえなかった。
やがて二人は「じゃあ」と言ってそれぞれの病室に戻って行った。シンが見えなくなるまで、女の子は手を振っていた。
なんか良い画だななぁ。病弱な女の子が白い手を振る姿。見送られる美青年。絵になるなぁ。などと、ちょっとバカなことを考えながら、どっこいしょと立ち上がり、シンの病室へ行った。
ガクがシンの病室に入ると、シンは寝台の上に座って、栞をくるくる回していた。前に帽子から出てきた、あの綺麗な押し花の付いている栞だ。
それを見てガクはすぐに分かった。あの栞をくれた子が、タカオと呼ばれていた女の子なのだと。
シンはガクに気づくと、栞を置いて寝台に寝っころがった。
「友だち?」
ガクが聞くと、シンは無言で頷いた。口をキュっと結んで、いつもよりもさらに無口を貫こうとしていた。
どうしたのだろう?なぜ口を閉ざす?
ガクはシンの気持ちが分かった。口を開くと、言いたくない言葉が出てしまいそうなのだろう。ガク自身がそうなのだ。たとえば、汚い言葉や罵りの言葉や、自分の正直な気持ちや、悲しい気持ちや、そういうものを口から出したくない時というのは誰にでもある。ガクはそんな時、口を引き結んで目をそらして、語らないようにするのだ。
シンも同じなのだろう。言いたくないのだろう。
シンはきっと、悲しいのではないだろうか。だから口を閉ざしているのだろう。ガクはそう感じ取った。
陰で悪口を言われていることを知っているのかもしれない。
それとも、あの女の子のことを好きなのかな。
あの子の病気はなんなのだろう?
そんな細かい気持ちまでは分からないけれど、シンが語りたくない、それだけは分かった。
「明日、退院して良いってさ」
ガクはそれだけをシンに伝え、他のことは何も聞きも言いもしなかった。