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3. 北の森歩き



 次の日の朝、ガクはゆっくり起き出した。前日は夜まで歩いていたのもあってとても疲れていたのだ。疲れているのは、それだけではない。

 ガクはシンと組んでから、何だか気が抜けないのだ。シンも多分緊張しているのだろう。変に他人行儀に見えるし、あまり余計なことも言わない。そんな二人が昼夜を問わずずっと一緒にいれば疲れもするはずだ。

 そんなことで、ガクはとても疲れていた。

 それでも、シンは日の出と共に起きだし、木を降りると火を熾し、湯を沸かしていた。シンの方がずっと緊張しているのかもしれない。だから、疲れていても目が覚めてしまうのだろう。

 シンは一人で火の番をしながら、静かに森を観察していた。森での一人の時間はホッとするひと時だ。

 森を眺めながら、色々なことを思いめぐらしていた。たった一人、住み慣れた尾の地区から出てきたこと。新しく住む鷲頭の森のこと。そして、新しい相棒のことなど、考えることはたくさんある。

 それに、見慣れない森の木々や動物たちを知ることも待ったなしだ。

 火を見て座っていると、まるで森の中で一人ぼっちのような気がするのだが、実際はそうではない。森の木々は小さな声でシンに話しかけているし、鳥や虫は朝早くから元気に、忙しく働いている。鳥の声だけでもとても騒がしい。

 それに、足元には小さな動物ネズミが時々姿を現したり、よく耳を澄ませていると、昨日通った茂みの向こうのけもの道を、動物が通る息づかいが聞こえるのだ。

 多分シンから200メートルくらい離れていると思う距離に、荒い鼻息が聞こえた。

「フュー!シャー!」

 というような息づかいだ。

 シンは思わず息を殺して聞き耳を立てた。何か警戒するような息づかいだ。

 目を凝らしても葉の陰には何も見えない。いやきっといるのだろうが、動物というのは動いていないとなかなか見つけにくいものだ。それにこの森に慣れていないシンには、どういった動物なのかいまいち確信が持てていなかった。

「多分、カモシカ、かな」と、思っていた。シンのいた森にも数は少ないがいることはいたのだ。ほとんど遭遇したことがないのだが、怒った時にこういう声を出すと想像はついた。

 また「フシャー」と聞こえると、ザザザと大きな葉を擦る音を立てて、向こうに走っている蹄の音が聞こえた。

 その音を聞いていて(ああ、行っちゃったな)と思って少しホッとした時だった。

 誰かがシンを見ているのだ。

 誰か、というよりは、何か、だ。

 先ほどまでカモシカのいた辺りから、そう、シンから200メートルも離れたところから、存在感のある二つの目がシンをとらえていた。

 ギクリとシンは気づいた。

―― 熊だ!

 熊の目がこちらを向いているのだ。静かにじっとシンを観察している。

 そうか、先ほどのカモシカは、熊に遭遇してしまったので、驚いてあんな声を出していたのだ。そうして、威嚇して逃げて行ったのだろう。

 シンは背中に緊張が走るのを感じた。熊は一体何を考えているだろうか。

 ただ、そこを歩いていただけなのだろうか。

 それでも、シンを観察していることに変わりはなかった。

 シンはたき火の中から、火のついた長い枝を持った。しかし、振り上げたり、また熊の方に振り向いたりはしなかった。そっとその枝を持ったまま、ただじっとしていた。

 熊もシンをじっと見ていた。

 200メートルの間をおいて、二人はじっとお互いを感じ取っていた。どちらも敵意を感じはしなかった。だけど、動くに動けずどうしてよいかわからなかった。

 そうしてかなり長い間、お互いの距離だけを意識していた。シンは、熊はもうこちらには来ないだろうと思った。そう感じ取ったのだ。襲ってくる気配はなかった。シンを怖がる様子もなかった。

 そう思った時、小さい声が聞こえた。シンがふと顔をあげると、熊はそれを合図にしたかのように、背中を向けて、森の北の方へ歩いて行ってしまった。

 熊が完全に視界から、また感じ取れる範囲からいなくなってしまうと、シンはやっとホッと息を吐いた。



「おはようございます」

 そう言いながら、仮小屋の木からガクが降りてきた。髪にはすごい寝癖が付いている。

「あ、おはようございます」

 シンも挨拶を返した。

 でも、それ以上は何も言おうとしなかった。たった今の出来事をガクに言おうかと思ったのだが、何と言ったらよいのか分からなかったのだ。

 それでガクのほうから聞いた。

「邪魔して悪かったけど、何してたんですか?」

「いえ、ちょっと・・・え、邪魔?」

 シンはちゃんと答えなかった。ただ、ガクがなぜ「邪魔」と言ったのかは分からなかった。

「邪魔しませんでしたか?てっきり、熊と交流しているのかと思ったのだけど、あんまり長かったので、森に帰しちゃいました」

「いえ」

 先ほど聞こえた声は、ガクが熊に向かってかけた言葉だったのだ。森守りにならそういうことはできるだろう。ただ、シンはあまり動物に詳しくはなかったし、そんな芸当はできなかったので、今まで気づかなった。

 シンは、ガクが熊を森に帰してくれてとても助かったので、何かお礼を言おうかと思った。しかし、それよりもあの言葉のことを聞いたほうが良いだろうか。これから先、北の森で暮らすのなら覚えておいた方が良いように思う。ガクには特別なことはない言葉なのだろうか?それとも、ガクにしか使えない魔法なのかもしれない。そんなことも聞いてみたかった。シンの頭の中では考えたいこと、言いたいこと、聞きたいことがグルグルと駆けまわっていた。しかしどれを口に出して良いのか分からず、結局何も言えずにいた。

 ほんの一言返しただけで、シンが黙り込んでしまったので、ガクにとっては会話が続かずなんだか息苦しく感じた。

「じゃあ、出発しますか?」

「え、朝ごはんは」

 シンは急に現実に戻されて、驚いて言った。朝食用にお湯も沸かしておいたのに、何も食べずに出発するのだろうか?

「あ、朝ごはんか」

 干しイモ噛んでいけば良いじゃん、と思ったのだが、シンは律儀にお湯を沸かしたようだったので、ガクはその言葉を飲み込んだ。

「じゃあ・・・食べますか」

 ガクはとりあえずそう言った。それでシンは、ガクは森ではあまり朝食をとらないのだと分かった。

 それでもせっかく沸かしたお湯で、シンが簡単に汁物を作ってくれたので、二人は温かい汁物を飲み、前日に(鷲頭の家で)作ってもらったおにぎりを少し火で焼いて食べた。



 時刻はすでに昼近くになっていた。ガクはずいぶんゆっくり寝ていたようだ。

 二人が朝食を終えると、シンが後片付けをして出発することにした。

 シンの後片付けはとても綺麗だった。まるで今まで人がいたとは思えないほど、痕跡がない。

 それに比べて、ガクは適当だった。寝癖のついた髪もなおざりに、荷物も適当にひっくるめて、やっと気づいて頭巾をかぶった。そんな感じだ。

 二人はまた今日も、動物の通る獣道から少し離れた茂みを、ほとんど音も立てず静かに歩いて行った。

 もうすぐ咲こうとしている桜のつぼみを見てシンがぼそっと言った。

「まだ咲いてない」

「何がですか?」

 急にシンが喋ったのでガクは驚いて聞き直した。

「桜です」

 ガクはそのあとのシンの言葉を待った。でもシンはそのあと何も言わなかった。その話題は彼の中では終わってしまったらしい。それではなんだかさっぱり話にならないので、ガクが聞いた。

「あっちはもう咲いたんですか?」

 あっちというのは、シンのいた明の森のことだ。

 話題が戻ったので、シンは明の森の桜を思い出した。

「はい、僕が出発する頃にはもう散ろうとしていました。川沿いには桜並木のようにたくさん植わっていて、とても見事なんです」

「へえ、それは良いですね。こっちでも南の森の家のそばの湖は、桜がいっぱい生えていますよ。帰りにそっちを寄って行きますか?」

 やっと話題がつながった、とガクは思った。

「はい、見てみたいです。この辺りはあまりたくさんないですね」

「ああ、この辺はわざわざ桜を植えてないですから。ここらに生えてるのも、みんな鳥や熊が食べて運んできた種からのものですよ」

 熊が食べたさくらんぼの種が、糞に交じって蒔かれるのだ。だから、この辺りの桜の木は点々としか見つけられない。だからこそ、桜の花の時期や紅葉の時期には、その淡い桜の花の色や、鮮やかな紅い葉っぱが目を引き美しく映る。

 群をなして咲き誇る桜とはまた違った美しさを楽しんでほしいと、ガクは思った。



 彼らは霧の森の北を通り、山を少し登り、また降りた。こうしてこの日は一日ずっと歩き通し、まだ肌寒い北の地をシンに見せながら虹森まであと少しのところまで来た。

 シンは相変わらずあまり喋らなかったが、時々いきなりボソっとひと言発した。あんまり突拍子もない時に喋るので、独り言なのかと思ったが、どうやらガクに話しかけているようだ。

 シンは初めて見る、うっそうとした北の森を楽しんでいるようだった。時々何かを書きとめたりしていることもあった。真面目になんでも覚えようとしているのだ。

 途中で、浅くて開けた川を渡った。そこはあまり岩がごつごつしていなくて、見通しの良い広い河原で、歩きやすかった。とても澄んでいてきれいな水が流れている。川岸には蒼い草が柔らかく生えていた。ちょうど日が当たり明るくキラキラ輝いている。

 ガクがシンを見ると、いかにも「川に入りたい」という顔をしていた。わくわくしている子どものようだ。

 今まであまりシンのこういう顔を見なかったのもあり、ガクは少し嬉しく感じた。こういう顔もできるのか、と。

「まだこっちの方の水は冷たいから、入らない方が良いですよ」

 ガクが教えてあげると、シンは少しがっかりしたような顔をした。パッと見、表情筋が発達していないようなのに、実はちゃんと感情があるものだ、とガクは思った。

 シンは流れに手を入れて、水温を確かめていた。確かにかなり冷たい水だ。シンは両手を洗うと、手ぬぐいできれいにふき取って、またさっぱりした顔に戻った。

 シンが河原の木々に目をやるとあることに気づいた。

「枯れてる」

 河川敷に並ぶ木々が広い範囲で枯れているのだ。木が枯れているというのは、森守りが見たら気になることだ。気づかないはずがない。このままにしておいて良いのだろうか?原因はなんだろう?そう思うのが森守りなのだ。

「ああ、ここの木はカワウの糞でやられちゃって、しばらくは枯れたままなんです」

 カワウという水鳥の糞には木を枯らすもの(リン)が含まれているらしい。それでここの木は枯れたのだ。しかし、その木を植え替えて鳥を呼ぼうとはしていないようだった。

「もともとこの辺りは寒くて大変だったから、徐々に南下していったんです。今ではもっと川下の方に営巣しているんです」

 シンには、枯れた木をそのままにしておくというのは信じられなかったが、鳥はちゃんと森に居て、この川も生きているのならこれで良いのだろうと思った。

 とにかく北の地は、シンが知っている南の森よりずっと自然なのだとだんだん分かってきた。



 その日も暗くなっても歩き続けた。

 だんだんと起伏が出てきて、小さな山を何度か上り下りして、最後の渓谷を超えて今までで一番高いところまで登ると、今日の仮小屋を見つけた。

 月明かりの中を歩くのも、昨日よりずっと慣れてきた。シンはもう、いつものように歩けるようになっていた。耳を澄ませて時折通る動物の足音にも気づくことができた。

「今日はここで休みましょう」

 ガクがそう言っても、まだまだ歩けそうなほど、北の森の夜の風景を楽しめる余裕まであった。

 そうは言ってももう、夜も更けて休まなければならない。シンは眠る前に回復の歌を歌い、そしてまた森の一員となって、木の上で休んだ。

(※回復の歌というのは、森守りが使える小さな魔法の一つで、木々に元気を分けてもらう歌のこと。)



 次の日の朝は、ガクの方が先に起きた。ガクはこの仮小屋の木に泊まった時に、楽しみにしていることがある。それをシンに教えるために先に起きだしたというわけだ。

 ガクは仮小屋の木の、自分より下の枝に寝ているシンを起こしに行った。シンは少し下の張り出した大きな枝に乗せてある、箱型の部屋の隅で小さくなって眠っていた。本当に木の穴で眠る小動物のようだ。

「シン、さん」

 ガクが小さな声で呼ぶと、すぐに目を覚ましてガクを見た。

「あ、おはようございます。僕、寝坊しましたか」

 シンはすぐに頭巾を被って部屋から出てきた。

 上の枝にいたガクは少し笑いながら答えた。

「いえ、まだ遅くないですが、ちょっと見せたいものがあって。物見やぐらまで登ってきてください」

 ガクはそう言うと、そのまま木の上まで登って行った。

 ガクについていくように、シンも登ってきて、二人で“物見やぐら”と呼ばれる、木の一番上にある小さな箱部屋に入った。枝が細くなっているので、よく揺れるのだが、とても高いところにあって、どこまでも見渡せる場所だ。

 シンが登ってくるとガクが言った。

「あと、あっちの山に登り切ったら虹森に着きます。あと少しですよ」

と、南の方を指さして教えた。それから、今度は少し北東の方を見て言った。

「あの渓谷を見てください」

 シンは、昨日通った渓谷を見下ろした。高いところから見下ろすと雄大な風景だ。春になり芽吹きだした木々もまた鮮やかだ。その中でひときわ高い木が盛り上がって見えるところをガクは指さした。

「あの辺りを見ていてください。ちょうど陽が出てきて、今まさに上昇気流が吹きますよ」

 谷全体に風が吹くのが、木々のざわめきと揺れでわかる。この渓谷は陽が出ると上昇気流が起こるのだ。

 シンはその吹き上がってくる風を肌に感じながら、ガクの指示した辺りをじっと見ていた。

 しばらくは朝日が射しこんでいる和やかな朝の谷間の風景だった。それだけでも目に美しい景色だ。それからだんだん吹き上がる風が強くなり、木々や葉っぱの揺れが波打つのが見られた。これもまた見ものだった。

「よし、来た!」

 ガクがガッツポーズをしている。何が来たのだろうか?シンもすぐに気づいた。

 鷲だ!

 大きな鷲が羽を広げて飛び出してくると、上昇気流に乗ってぐんぐんと渓谷からあがってきたのだ。見事に風に乗って、雄大な姿を見せながら、鷲は二人の目線をあっという間に超えて行った。

 羽を広げて2メートル以上もある特大の鷲だ。それが朝日を浴びて、風に乗って登って行く姿はなかなか見られるものではない。

「美しい」

 シンの口から出たのは「すごい」ではなくて「美しい」だった。なるほど、確かに美しい。

 この美しい姿は、ガクのとっておきだ。その宝物をシンにも教えてあげたのだ。そのために、この仮小屋には夜までにつかなければならない。普段あまり使われない仮小屋の木だが、この小屋を作った人は、きっと鷲のことを知っていたに違いない。

 素晴らしい体験をして、シンは北の森に来てよかったと思った。

 そうして、二人は出発し、その日の午前中には虹森に到着した。



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