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21. 夜中に帽子と



「ここがあなたの部屋よ」

 9歳のシンが通された部屋は、陽のあたる気持ちの良い部屋だ。

 9歳のシンは、キョロキョロと見渡した。5年前に住んでいたというこの家の思い出は薄い。それでも、それが自分の家だということは分かっていた。

 部屋に入り、文机のそばに立ち振り返る。両親が微笑みながらシンを見守っている。

「ベイは?」

 シンは不安になりながら両親に聞いた。

「ベイって?」母が聞いた。

 父はそんな母に声なき声で制する何かを言った。

「ベイブレードは?いつ来るの?」

 シンが聞いた。兄弟の名前を言っても両親は知らなかった。それっきり、兄弟のことは忘れなければならなかった。

「ベイブレード」

 シンはその名前を呼んで目が覚めた。


◇◇◇


 真夜中だった。シンは夜になると兄弟を思い出すことが多かった。そして会いたくてたまらなくなった。

そのたびにシンは寝室を抜け出した。行くところなどないので、一人で真っ暗な居間に座っていた。

 一人ぼっちだとよけいに寂しくなるので、あの魔法の帽子を自分の前に置いた。なんとなく、この帽子は話を聞いてくれる気がするのだ。

 実際、話を聞いてくれるからこそ、必要なものを出してくれるのだろう。

 シンは時々ポツリと帽子に向かって話した。それは、兄弟の名前だったり、会いたいという気持ちだったり、泣きはしないものの鼻をすする音だったりした。

 シンは誰にも気づかれていないと思っていた。だけど、ガクもワタルもヒロも、それぞれ別にその光景を見ていた。

 シンはダメ元で、帽子に頼んでみた事もあった。どこにあるかも、どんなものかもわからない、兄弟の思い出だけでも、何でもいいからどうしても見たくて、帽子に頼んだのだ。当然そんなわけのわからないものは帽子からは出てこない。欲しいのは思い出か情報か、それすらもわからないが、帽子にしか頼むことができなかったのだから仕方がない。

 シンにとっては、帽子は夜のお伴。シンの心の友になりつつあった。帽子は静かにシンの気持ちを聞いていた。


◇◇◇


 ガクはシンが自分には心を開いていないということが、とても辛かった。

 真夜中にシンの言った寝言を何度も聞いた。それが人の名前だとはわからなかったが、同じ寝言を何度も聞けば覚えてしまう。それが大切なものだと言うことはわかった。シンがそれを欲していることもわかった。だけどそれが何であるかはわからないし、自分では役に立てないこともわかっていた。

 暗い居間で一人鼻を啜って帽子に愚痴るシンを見た事も、ガクの心を沈ませた。

 昼間の仕事中でも、シンは他人行儀にしか思えないような言葉づかいをするし、時折シンが恐ろしい形相をしているのに、何も言わないというのが、ガクには心を開いていないのだと思わせた。気に障ることがあるのなら、文句を言ってくれれば良いのに、それすらもない。当たり障りのない関係のままで“相棒”として過ごすのはガクには耐えられなかった。

 だからと言って、ガクはシンに何もかもをさらけ出してもらえれば良いと思っているわけではない。たとえ心を開いてもらえなくても、シンが感じている寂しさや不満が減るのなら、その方が良かった。シンが言いたいことも言えず、欲してるものももらえず、誰にも心を許せないでいるというのが、可哀想だった。だから、そういったシンの心を悩ませるものがなくなることの方を、より望んでいた。

 何かほんの少しでも役に立てることはないか。ガクはずっと、シンのことを考えていた。


◇◇◇


 もうすぐ夏も終わるという時期になっていた。ガクがシンと組んで5か月ほどが経っている。

 そんなガクの思い悩む姿は、家の人たちも少なからずわかっていた。シンは相変わらず無表情で無口だし、時々信じられないほど凶悪そうな顔をするのだ。暴言を吐いたりしないので目立たないが、そんなシンと始終一緒にいるガクが精神的に疲れるのは当然だった。

 表面上は仲が良いが、シンが一人加わったために、大部屋には妙な緊張感が高まっていった。

 夕方、ワタルはガクを散歩に誘い出した。シンは家で本を読んでいるし、ヒロがゲンに勉強を教えている。夕方のちょっとした時間は良い休憩時間だ。

 二人で裏の湖まで歩いて行きながら、ワタルがガクに言った。

「お前、ちょっと休んで家帰ったらどうだ?」

 北の森は人数が少ないわりに仕事量が多い。ガクを休ませるのは難しいが、この重たい空気を換えるには、そのくらいしないとダメなような気がする。ガクの疲れが取れれば、シンがいても多少は違うだろう。もともとガクはみんなの空気を読んで、場を明るく和ませるのが得意なのだから、ガクさえ元気になればかなり良くなるはずだ。

「ええ?だって狩りが始まる前にやることいっぱいだし、ジロさんたちがまた案内に行っちゃうから、しばらくは無理だよ」

 そうだった。他の人の予定もあるのだ。それに秋の終わりから狩猟の季節が始まる。その間は危険なので、あまりウロウロ動き回れない。そういうこともあって、できることは秋口までに済ませておきたいのだ。

「そうは言っても、お前随分疲れた顔してるぞ」

 さすがにワタルはズバリと言った。

「そう?そうかな。別に疲れてないけど」

 ガクは少しワタルから顔を反らせて答えた。悟られていないと思ったのに、見られていたのだ。だけど、ガクが疲れた顔をしているのは、疲れているからではない。シンのことが心配だから疲れた顔になってしまったのだ。だからガクが一人実家に戻って疲れをとっても治るものではない。

 そうは思っても周りの人たちは心配するのだ。

 その時、湖から水音がした。二人が振り向くと、見慣れた河童(かわのこ)が湖岸に上がってきた。

「シオンさん」ガクとワタルが声を揃えて言った。

「聞いたぞ。ガク、疲れてるなら休め」

 シオンはガクが大好きなので、いつでも甘やかそうとする。

「疲れてないよ。休んでも同じ」

 ガクがそう言うと、シオンはキッとガクの顔を見つめた。確かにガクは疲れているような顔をしている。しかし、身体は元気そうだ。

 それに「休んでも同じ」ということは、アレしかない。

「シンだな?」

 シオンの低い声が漏れた。



 シオンに「帰れ帰れ」と言われて、ワタルは一人で家に戻った。シオンはガクと二人で話がしたいのだ。ワタルもそんなことだろうと思って承知した。

「それで」ワタルの姿が見えなくなると、シオンがガクに向き直った。「シンのことだろ?やっぱり上手くやれねぇんじゃねぇか?」

 シオンは心配そうな顔をしてガクの顔を覗き込んだ。ガクは少し苦笑いをした。

「あんな、恐ろしいヤツ、適当にあしらっておけばいいんだよ」

 シオンはガクを元気づけるように言った。

「別に怖くはないよ。もう、ほとんど気にしてないんだ」

 ガクは左手のひらを見ながら答えた。

「そうか?そのわりに、そんな顔して。やっぱ、うまくいってねえとしか思えねぇけど」

 シオンが頭を掻きながら言う。

「うん…うまくはいってないかな」

 そう言ってガクは湖の向こうを見ていた。

「なんかあったのか?」

 シオンが聞いたが、ガクはなかなか答えなかった。何もないのだから、答えようがない。

「何もないんだけど…シンが、何か、なんだろ?家が恋しいのか、何かが欲しいのか、そんな感じなんだよね」

「なんだそりゃ?じゃあ、シンを家に戻せば良いじゃねぇか」

「こないだちょっと行ったんだけど、そのあと余計にひどくなったって言うか。むしろ、あっちの森はシンに厳しいみたいだし、帰らない方が良いような気はするんだよね」

「なんだかさっぱりわからないなぁ」

「俺もだよ」

 二人は途方に暮れながら、夕日に輝く湖を見ていた。

 シオンは急に思い立ったように言った。

「それはさ、お前、アレだよ。他人のことなんだから、お前が何してもダメってことさ」

「ええ~?」

 ガクが情けない声を出した。何か良いことを言ってもらえるかと思ったのに、ガクじゃダメだと言われたのだ。

「だって、お前じゃないんだから。お前が頑張ったって駄目さ」

「でも」

「頑張るのはシンだ。お前はヤツが頑張れるように忠言くらいはしてやれるだろうけどな」

 ガクはシオンの言葉を考えた。そうだ、ガクはシンのことを何とか出来ると勝手に考えていた。そんなことはできるはずがない。シンという個人のことを、ガクがどう思ったって、シンではないのだ。シンの本当に欲するものが何なのかは、シンにしかわからないのだ。

 ガクは肩の力が抜けるのを感じた。自分が何とかしようなんて、おこがましい、と少し笑ってしまった。

 さて、そうなったら、逆にできることが見えてきた。シンの幸せを願うのだ。それだけだ。



 その日の夜、みんなが寝静まった頃、ガクは一人で居間にいた。シンも部屋で眠っている。

 ガクはあの魔法の帽子を机の上に置いて、しげしげと眺めていた。それにしても、変な帽子だ。普通の人が被るには穴が小さい。そのくせ、帽子自体はわりと大きい。少し丸っとして、ポンと置いておくと平べったい餅か何かのようだ。

 頭に乗せたらヘンだろうな。などと思うと、その愛嬌のある帽子が可愛くてたまらない。

 この魔法の帽子は、助け手だけど主人という不思議なものだ。でも、なんとなくわかる。主人が助けてくれるってことだろう。すごい、太っ腹な主人だな。だけど、助けてくれるというなら頼ろうではないか。

「俺は、シンが、幸せになって欲しいんだ」

 ガクはまるで、友だちにでも話しているかのような気軽さで、帽子に話しかけた。帽子は頷いてはくれない。それでもガクは、帽子がガクの言葉を聞いているような気がした。

「それはさ、シンがどうしたいかがわからないとダメだって思ってたんだけど、もうそういうの、考えるのやめることにしたんだ。俺が考えたってしょうがないもんな。知らなくたっていいんだ。だから、シンが幸せになれるように願うことにしたんだ。だから、帽子に聞いてもらいたかった」

 ガクは帽子が返事をするのではないかと思い、少しの間黙った。でも帽子は何も言わなかった。

「聞いてる?」

 ガクは帽子に聞いてみた。勿論返事はない。

「俺にできることがあったら、教えてくれない?」

 ガクは帽子に手を入れた。何かが入っているかもしれない。帽子が教えてくれるのはそういうことだろう。

 しかし、何も入っていなかった。

「今は何もないってこと?」

 ガクは納得した。

 そんなやり取りを、いつの間にか陰からシンが見ていた。ガクは気づかなかったが。

「じゃあ、また今度教えてくれよ。シンが幸せになるために、俺にできること、探しておいて」

 ガクは帽子をなでなでと撫でて、居間のいつもの棚に置いた。


◇◇◇


 次の朝、食堂に行くと、シオンがガクとシンを待っていた。

「今日はカエル池に行くぞ」

 そういえば、あれ以来カエル池に行っていなかった。シオンは定期的に行っていたのだろうか。

「もうすぐ水がなくなるからな。シンに、それだけは見せておこうと思って」

 シオンがそう言うと、シンはすごく驚いた顔をした。なぜ自分に?と思っているのだろう。

 そうして3人は朝食を終えるとカエル池に登って行った。相変わらず、何のためにそんなところにカエルが登るのか想像がつかないような、切り立った斜面だ。

 上に着くと、前回来た時とは景色が全く変わっていた。もうそこから、中心部に池ができているのが見える。

「こんなに大きな池が」

 シンが思わず声に出して感想を言っていた。珍しいことだ。よっぽど驚いたのだろう。

 水は澄んでいて、そこから見ると青い大きな池がキラキラ光っている。美しい光景だった。池の岸にはカエルの姿が見える。

「この美しい水が湧くことを、カエルは知ってるんだよ」

 ガクがシンに教えてあげると、シンはガクをジッと見つめた。最近あまり目を見なかった気がする。ガクはそれだけでなんだかとても嬉しかった。

「こんなカエルにも、必要なものはみんな与えられるんだ。高いところだからと嫌がらないで登って来れば、天敵のいない、こんなに澄んだ水辺に住めるんだ」

 珍しくシオンがお説教などしている。ガクは心の中でおかしかった。ガクには「お前が何してもダメだ」なんて言っておきながら、そんなガクを助けたくなったのだろう。シオンも手を(口を)出して、シンを何とかしようとしている。ガクはその心が嬉しかった。

「目の前にある物を嫌だと放り出すんじゃない、素直に受け入れるんだ。ガクだってそうだろ。どんなことでも素直に受け入れる。そんで、喜ぶんだ。だから、お前も安心して受け入れられてろ」

 最後のところはよくわからないが、シオンもシンのことを受け入れるということなのだろう。シオンはシンのことを「あんなヤツ」扱いするが、なんだかんだ言ってもこうやって受け入れて手を焼いてくれてるのだ。

「はい」

 ここ最近で珍しいほど、シンが落ち着いているようだった。こんな空気をガクは待っていた。シンは少しでも幸せを感じられただろうか。ガクやシオンが受け入れていることを知ってくれただろうか。

 シンの目は今までのあの暗い目ではなかった。きっとシオンの言葉が届いたことだろう。ガクはシンの顔を見て、とても安心した。



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